今日の本 解けない問いを生きる
「古池や」
<かたち> という言葉から、どうしたことか、
<かたち> に成り下がった名句の断片が思い浮かぶ。
とりいそぎ、言葉という<かたち>を放り出す。
「や」という切れ字は、
その場面に発生している(発生しうる)流れを
文字通り、ブツと切る。
とりいそぎ、断面を差し出す。
力の余韻、「リアルな力の働き」、
その断面から、何か蠢くものが
あらわれることを期待して。
言葉に内在する、
ただのスカラにそそのかされて。
「黒い遮蔽幕」を準備して、
罠を仕掛けて待つ心のはたらき。
ほとぼりを断ち切ることで、
感じる流れの頂き、触手の触れたがり。
「蛙飛びこむ」
見えるものである蛙が見えないものである。
悟性とは慣性に似ている。
理解することと一定の速度を保つこと、
いずれも「変化」という概念とは無縁である。
「どうしようもなく考えなければならないもの」、
それは飛びこむ(飛びこませた)ということ、
蛙、芭蕉、そんなちっぽけな主語ではなく、
飛びこむ、述語の問題。
「飛びこむ述語」、の問題。
蛙の卵であっても構わない。
金作の堕胎であっても構わない。
「飛びこむ」というスカラを内包した
「理念」というどうにもしがたい
世界の潜在性とその開放。
ひらいている、ひらきだしてる。
さけている、さけだしている。
おのづと、おのづからの間で
歓喜する痛みと疼き。
<かたち> の果て、ではなく
力の流れ。
「利己的な遺伝子」のような考え。
わたしたちは力に乗りこなされている。
そのような視界に立つこと。
「不安」は <かたち> になりたがる。
それは特定の人間の姿をとる。
妖怪となる。悪魔となる。魔女となる。
民族となる。肌の色となる。病となる。
<かたち>にすれば、
それを滅することで解消される、
と解釈をする。
「解釈」もまた、<かたち> のひとつである。
「水の音」
ひろがりゆく波紋、それが行きあたるところ、
その波紋をぐるりと囲い込む「黒い遮蔽幕」により
正反対の側に回析し、
複雑に干渉させながら収束していく。
そしてその中心から
原始の地球が水玉のように飛び出すことも
統計学的にはありえないことではない。
芭蕉と蛙の関係性は
カフカと甲虫のそれに似ているような気がする。
「<かたち> あるこの世界のなりたちを探るために、
<かたち> を生みだす見えない力へと、
われわれの視線の向きをかえる指標」、
つまり「内在」のありかたは、
それがほんとうに必要とされる場面となれば、
みんなおなじ性質のものなのかもしれない。
「水の音」、「水の音」、「水の……
滴りつづける、解けない問いを生きる、
ためのTOY。
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