高橋弘希を読んだ
▽8月。はじめて読んだ。読んだのは、順に『日曜日の人々(サンデー・ピープル)』(2019、講談社文庫)、『指の骨』(2017、新潮文庫)、『送り火』(2020、文春文庫)。
▽現代の日本の純文学は、傾向として、多元志向だ。複数視点的(人物、時間、次元など)。
その中におくと、高橋弘希は、小説の技法としては、きわめてオーソドックスだ。つまり、脱中心的・遠心的でない。主人公の「私」の経験を積み重ねていく(『日曜日』は「僕」で『送り火』は三人称(主人公の下の名前)だが、以下「私」で統一する)。
時間が前後したり(『指の骨』)、他の人たちが書いたものが長く引用されたり(『日曜日』)はするが、それでも「私」がどういう順番でどういう経験をして、それらが蓄積してどう認識するに至ったか、復元できる。経験は、他の数人の人物たちとの関わり。他の人物は脇で、ある期間だけ主人公と関わって、去る。あくまで主人公が中心で、最初から最後までたどれるのは主人公だけ。他の人物には空白がある。
作品全体をかけて主人公の「私」の中に蓄積させていったものがあって、だから結末の、ある極限的な状況で、ぐっと主人公の中に入り込むシークエンスに迫力が出る。説得力、集中力。内面、内側というより、奥。奥に入り込んでそこから書いている。そこ(主人公の奥)から外を見て、そのときに見えるものを書く。そのシークエンスを書くことが目的としてあって、作品全体がそこに重みをかけている。
小説ってこういうことに長けている形式だよな、と再認識する。逆に言うと、小説にこういうことが可能なのか、という新しさはないかもしれない。
▽新鮮さは、題材にある。『日曜日』の主人公は、自殺未遂者たちのオープン・ダイアローグによるセラピー的な場をマンションの一室で自主的に運営する会の中に加わる。『指の骨』の主人公は、太平洋戦争中の南方の島の兵士。負傷して、主に病院にいる。指摘されていることだが、大岡昇平の『野火』をかなりあからさまに参照している。若い青い目の兵士、左手、人肉食、など。そのままではなく、打たない→打つのように、反転させるように取り入れているのだと思う。
太平洋戦争中の島の病院にいる兵士という題材の選択だけなら、既にあるかもしれない。ただ、長さもあるし、執拗なので、説得される。取材もしているのだろうが、たとえば登場人物の言葉遣い、あと多分考え方も、太平洋戦争中らしくはない。これは批判ではなく、それらしく作ろうとはしていないと思う。それが最優先ではない。そこに凝ると、本物と似ていることのすごさになってしまう。
▽ある極限的な状況、と言ったが、題材は違うがどの作品も、被暴力の当事者になる、という経験を追求している。
主人公はある程度クレバーで、性格に極端な偏りはなく、コミュニケーション能力も高い。しかし、自分ではコントロールできない要因が幾つか重なって(ただしそれは自然災害のような理不尽さではなく、もっと人的な要因である)、暴力にさらされる。肉体に決定的な痛みや傷を被ることになる。太平洋戦争中の南方の島の兵士でも(『指の骨』)、現代の東北地方に引っ越した中学三年生の男の子でも(『送り火』)、それは変わらない。
▽まとめると、選択された題材は、それ自体新奇だというわけではない。その題材の持つ固有性にこだわり過ぎないで、被暴力の経験として把握する、その扱い方が、この作家の特徴なのではないか。
凄惨な暴力を描く作品は数多ある。主人公が暴力を被る作品も(たとえば田中慎弥の、いじめの話とか)。それらと違うのは、楽しい時間も、愛着も混じっていること。
暴力を被る(被った)人物は、各作品に複数登場し、主人公も当事者になる。にもかかわらず、悪意によって暴力を振るう人(悪人)がいるわけではない。悪は主題ではない。悪ではなくて、暴力ですらなくて、被暴力が関心事なのだろう。人の関係の中で生じる、被暴力。それを当事者として経験することを、小説という形式でやりたいんだと思う。
その経験を再現することは、究極的には不可能で、だからぎりぎりまで肉薄することが各作品で目指されている。切迫感があり、読むのは苦しい。でも、不可能だとしても、これは小説ができることだ、とも思う。小説でいままでやられていないことをする=小説というジャンルの可能性を新しく開拓する、というより、小説が得意なことを使って、できるだけ近づこうとしている。