河崎秋子を読んだ

▽5月。未読の現代作家の文庫を読むシリーズ。『颶風の王』(2018、角川文庫)と『肉弾』(2020、角川文庫)。現時点で文庫化されているのはこの二作のみ。どちらも長篇。前者は三浦綾子文学賞他、後者は大藪春彦賞受賞。わたしがそれで名前を知った三島賞候補作は、まだ文庫化されていない。

▽作家は、北海道で緬羊を飼育していたらしい(二作を書いた時点では)。二作とも北海道を舞台に、動物と人間の混じり合いを主題とする作品である。
『颶風の王』は、馬とともにある一族の物語。身分違いの男性と駆け落ちした女性が父が放った追っ手から逃げて、夫が育てた馬と雪山の洞穴で互いの髪、肉、血を食べ合い同化し生き延びるエピソードが起点にあって、次の代ではそのとき腹の中にいた息子が北海道にわたって馬を飼育する。彼の仕事を継ごうとする孫の女の子は、孤島の崖崩れではじめて自分が育てた馬を失い、一家は馬を手放し別の土地に去る。さらにその孫の女性は、いまや昔のことしか覚えていない祖母のために、所属大学のサークルのつてをたどって、孤島に残された馬たちの子孫のただ一頭の生き残りに会いに行く。その大学生と馬の、島での一対一の対面の場面が美しい。
振り返ると、雪山の洞穴での女性と馬の二者しかいない状態が起点で、その女性から数えて五代後の子孫の女性がやはり孤島で馬と二者だけの対面を果たす。長い時間をかけてそこに行き着く。馬のほうも、孤島の馬は雪山で女性が食べて生き延びた馬の間接的な子孫のようなもの。無人の島には、もう他の馬はいない。対面する前は何とかして連れ出すつもりだった、最後の一頭になったその馬を残して、女性は去る。

『颶風の王』が馬なら、『肉弾』は熊と犬。大学を休学している主人公が、旅先の北海道で十分な備えなく父に狩猟に連れて行かれ、熊に襲われて父を失い、野犬たちのいる森の中で熊と戦う。父を食う熊が強烈な印象を残すが、詳しく描かれているのはむしろ個々の犬のほうで、飼い犬が捨てられたり逃げ出したりそのあと交配したりで、最初からその土地にいた自然の犬ではない。ぼろぼろの首輪をしている犬もいて、主人公がそれを外す場面もある。最後、救助隊のヘリによって運ばれる主人公は、自分が一緒に戦い獣の肉を食らい合った犬たちを残してこの森を去ることに気付き「吠え」る。

二作とも、人間と動物が、食用の獣を人間が調理して食べるのでない、つまり通常の食でない場面で、食べる/食べられる関係になる、極限的なシチュエーションを核に据えている。必然的に、生き死にの話になる。個体の生死と、種族の継承・断然。東北地方と北海道の馬の交配の歴史や、ある閉じられた生態系の中での馬や犬の交配のさま。人間のほうも、『颶風の王』は何代かの話で、最後が現代。『肉弾』は現代の父子しか出て来ないが、父に複数の妻がいてその一人が主人公と肉体関係を持とうとしたり、ほとんど情報のない実母が足が速かったらしくその血を受け継ぐ主人公は元陸上部でそのときの挫折経験が尾を引いていたり、と過去の挿話には交配の話題につながりそうなものもある。

▽『颶風の王』の雪山で馬を食べて生き延びた女性は、発見されたときには正気を失っており、その後の半生は実家の座敷牢で暮らす。北海道にわたる息子が別れを告げに来ると、女性はくしゃくしゃの紙の束を渡す。息子はその紙ー手紙ーによって雪山での出来事を知り、あわせて、狂気の母にまれに正気の時間があることも知る。手紙自体は末尾の短い餞別の言葉以外は引用されず、息子がそれを読んでいる場面が枠のようになっていて、中で母の過去の出来事が再現される。
全的な認識は失っているが部分的に正気が残っているというのは、最後の挿話の主人公である大学生の祖母の認知症らしい症状も同様である。その残っている部分の発言から、大学生は祖母の子供の頃に失った馬への強い思いを知る。

『肉弾』の「名を欠いたもの」という章は、そのタイトルの通り、「●●●と呼ばれた白い犬」の短い挿話である。ピレネー山脈原産の犬で地の文では「ピレネー」もしくは「彼」と呼ばれるその犬の名前が黒丸(●)で、飼い主の一家の少年の名前が白丸(◯)で、それぞれ伏字のような表記になっている。つまりある章の犬と少年の名前が欠けていて、そのことが章題で言及されている。
これらの名前は、その場面においては発話されているはずである。また、誰かが語り手として語っているわけではないので、『颶風の王』のように特定の人物の記憶や認識の欠落というわけでもない。欠けているのは(欠けているものとしてしるし付けられているのは)テクストの上で、ということになる。この異様な記号はこの章だけで、全体にどう効いているのかは不明である。ただ、ぎょっとはする。

▽この作家は、三島賞候補になったのを除けば、受賞歴やデビューの経緯からして、純文学には分類されないだろう(三島賞候補になった作品は、ノンフィクションに与えられることが多い新田次郎賞を受賞したらしい)。二作ともスケールが大きい。動物の視点をとる箇所があるのも(擬人化はしていないので動物の内面が描かれるわけではない)、はっきりメッセージ性(思想性)があるのも、純文学らしくはない。画が浮かぶ鮮烈なイメージの提示も、マンガやアニメ映画になるとよさそうである。今後どう展開するかはわからないが、ただ、この人物なりテクストなりの認識の中の部分的な欠落というモチーフは、この作家を純文学に向かわせる(つなぎとめる)かもしれない。

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