松浦理英子を読んだ
▽5月。久しぶりに松浦理英子を読んだ。文庫で、順に『犬身』上下(2010、朝日文庫)、『奇貨』(2015、新潮文庫)、『最愛の子ども』(2020、文春文庫)、『裏ヴァージョン』(2007、文春文庫)。これより前の、90年代までの作品は90年代末にすべて読んでいるから、20年ぶりだ。そんなに時間が経っているとは。
▽『犬身』、読み出すまでは長いなと思っていたが、リーダブルで、上下巻、するする読み終わる。思えば『親指Pの修業時代』も上下巻で長いけど楽しく読めたものだった。当時はベストセラーになってもいたわけだし、初期の作品は息苦しいが、それは内容で、実は驚くほど読みやすい作家なのだった。
主人公の女性が犬に変身するのも(『犬身』)、同じく主人公の女性の足の親指がP(ペニス)に変わるのも(『親指P』)、アイディアはタイトルの通りなんだけど、意外とそこが中心ではなくて、というか、発端はそうでも全体はファンタジーではなく、性を主題とする思弁的な小説。思弁的で、重い出来事も描かれるのに(『犬身』だと、犬になった主人公の飼い主である女性が兄による継続的な性暴力と支配を受けていて、母はその兄を偏愛している)、一方で軽口(地口)もふんだんにあり、読後感は不思議と明るい。
▽『奇貨』の解説を津村記久子、『最愛の子ども』を村田沙耶香が書いている。どちらも敬意と個人的な熱愛が静かに込められたいい解説。ちなみに『犬身』の解説は蓮實重彦で、これは全くよくない(TRIPPER掲載の批評の再録)。振り返ると90年代後半、松浦理英子は蓮實重彦ら批評家に持ち上げられていて、一方でその時期大学生くらいの、つまり現代文学の読み手として物心がついた年頃の読者がいて、その人たちが後に作家になって近年の(ここ10年くらいの)松浦理英子の本の解説を書いているんだと思う。津村記久子や村田沙耶香とは同世代なので、きっとそうなんじゃないかと思う。そしてこう並べてみると、松浦理英子がいたからこれらの作家が出てきたのかもしれない、とも思えてくる。同じく同世代の松田青子もここに加えたい。最新作の『最愛の子ども』なんて、松田青子が著者でもおかしくないくらい、現代的でみずみずしい。
富岡多恵子がいたから多和田葉子がいるように(勝手にそう思っている)、松浦理英子がいたから開けた道があったんじゃないか。後に続く作家にとって。津村記久子は解説で「本当に、松浦さんに感謝したい。」と書いている。
▽『奇貨』には初期の短篇、『変態月』も収められている。1985年発表。『ナチュラル・ウーマン』より前の作品だ。
『変態月』の一節。「喜久江は性的な意味においても淳美を好きだったのだろうか。私が確認したいのはその点だった。同性を好きになること、同性を欲望すること自体は、現に私の身にも起こっているのだし、問題ではない。数多くはないにせよ世の中に確かにあることである。ただ、幼馴染に手を掛けるまでに喜久江を荒れさせた原因のひとつが性であったらー。」。
高校一年生の主人公は、後輩である中学生の淳美が殺された事件の犯人が、同級生で淳美の幼馴染である喜久江だとわかってから、そのことを小説のような形でノートに書きはじめる。喜久江は淳美を好きで、でも淳美には同じように好かれてはいなくて、可愛さ余っての犯行だろうと周囲は判断している。主人公は一人、その原因を「性」に求めて考察している。
上記の一節は、主人公が「同性を好き」や「同性を欲望する」と区別して、「性的な意味において」その子を好きであることを考えている箇所である。主人公はこの事件の核心は、同性に好意を持つことでも、同性に欲望を持つことでもないと、自身の経験を踏まえて想像する。ここで好意や欲望と区別されている「性」とは何なのか。
何なのか、というのは問いではなくて、こうして「性」という観念が人にとって、自分の一部でありながら自らを駆動する他者であることを示す、のがこの作家が繰り返ししてきたことなのだろう。
AやBでなくCである、と区別しながら議論を進める上記の一節は、説明的である。「自体」「現に」「確かに」といった語も、明確に説明するために注意深く用いられている。一般論として、小説は描写によって表現するべきで、説明的というのは小説の評では否定のときに使う形容である。しかし、この区別(どう線を引いて考えているか)をきちんと説明することが、松浦理英子という作家の一貫した作法だと思われる。全体が軽い調子の作品でも、肝心なところでは生真面目。驚くほど変わらない。
▽最新作の『最愛の子ども』は、『裏ヴァージョン』の中のごく短いアイディアをもとにしたもの。
ある高校の女の子たち(女子校ではないが、クラスは男女別で、共学の学校内の女子校のような設定)の「わたしたち」が、三人の同級生をパパ・ママ・王子という擬似家族として措定し、その家族の物語を「ロマンス」と呼び、想像し語る。「わたしたち」は不特定の数人の女の子たち。パパ・ママ・王子もそれぞれ女の子。この女の子たちと、教師とそれぞれの親の話。
『最愛の子ども』のこの語り方はこれまでの松浦作品にはないもので、このふわふわした、もやがかかったような世界もはじめての感触である。一方で、やっぱり驚くほど変わらず、同じことを主題にし続けているとも言える。ざっくり言うと、同性間の親密な接触の快楽と、家族であることの困難。
90年代、かつて読んでいた頃に40代だった作家は、いま60代になっている。成長や成熟、老成するのではなく、変わらず生真面目なまま、でも慈しむように、高校生の女の子たちの高校卒業までの時間を描いている。