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廃村の山怪
これは2014年の夏の話である。
その年のお盆は、妻が子どもが帰省するというので、私は一人でゆっくりと羽を伸ばし、単独でのキャンプを計画していた。
つい最近始めたばかりの登山も兼ねて行き先は秋山郷へと決めた。
秋山郷は新潟県の津南町から長野県最北端の村、栄村へと続く中津川渓谷にある集落で、平家落人の伝承やマタギ文化など、昔ながらの生活様式が色濃く残る秘境地域と言われている。
そこにある鳥甲山(とりかぶとやま)に登りたいと思ったのだ。
何かの本で読んだのだが、鳥甲山は妖鳥が両翼に翼を広げているかのような様相から、鳥甲という名が付いたという話だ。
妖鳥って何だ?それも山の形で?
俄然、興味が湧いてきた。
写真を見ると、なるほど、妖鳥に見えなくもない。
鳥甲山は第二の谷川岳と評されだけあって、岩肌をむきだしにして実に荒々しい。
それが両翼に翼を広げた妖鳥に見えるのだ。
ここを登るのかと考えると身震いがしてくる。
妖鳥などと言われると、妖怪のような魔力を持った山のような気がしてきた。怖い・・・。
でも、現代の秘境とやらにテントを張り、妖鳥の山に登る。
一人で過ごすお盆のことを考えると、悪くないプランに思えてきた。
悪くないどころか、非日常を満喫するにはこれ以上ない設定という気がしてきた。
よし、これで行こう!
しかし、登山を始めたばかりの私にとって、上級者向けの鳥甲山に単独で登るのはいささか危険すぎるのではないか。
そこで、直前の連絡で、しかもお盆だというのに申し訳ないと思いつつ、ネイチャーガイドを生業にしている友人にメールを送ってみた。
ネイチャーガイドの友人は13日なら行けると返事が来た。しかも、鳥甲山は登ったことがないので、自分も興味があると言う。まさに渡りに船だ。ありがたい。
でも、13日には墓参りがあるので、それから現地へ向かうと11時頃になってしまう。
相談したところ、少し遅い気がするが、お昼でも良いから一緒に登ろうということになった。
待ち合わせ場所は屋敷登山口。でも正確な場所が分からないため、屋敷登山口近くの国道405号線の目印になるようなところで合流して行くことになった。
ネイチャーガイドの友人はもしかすると携帯電波が弱いかもしれないと、車のナンバーを教えてくれた。
紺のオペル 9××× だ。
お墓参りを終え、一人で行くつもりが当日になって姉も行きたいというので、姉を乗せて2人で行くことになった。
予定していた時間に国道405号線をそこそこ飛ばして行くと紺のオペルに追いついた。
パッシングをして追いついた旨を伝えると、車を止めてくれた。
お互いに車を降りて挨拶を交わす。
目的地の屋敷登山口はこの先を右に下りたところなので付いてきて下さいと言われ、そのまま付いていった。
Y字の分岐点に差し掛かると、ネイチャーガイドの友人は左へ進む。
ここを右に下りるんじゃなかったっけ?
不思議に思ったがそのまま付いていった。
しばらく山道が続いたこともあり、同乗していた姉が気分が悪いと言い出して、スピードを緩めた。
そんなこともあってネイチャーガイドのオペルの姿は見えなくなったが、あの分岐点以外に分かれ道はなかったから、いずれ追いつくだろう。
それにしても、昼間だというのに辺りはどんどん山深くなり、不気味な雰囲気に包まれた。
暗くて長いトンネルに入るといよいよ不安になってきた。かれこれオペルが見えなくなって30分は経過している。
一本道で、迷うはずもないのだが、山の中で独りぼっちになった気分だ。純粋に怖い。
そんな気持ちが姉にも伝播したのか、隣に姉はいるがずっと無言だった。
トンネルを抜けると姉が絶叫した。
「止めてーーー!!!」
驚いて、ブレーキを踏む。
「どうしたの?」
そう聞いても姉は答えない。
しばらく、姉の様子を見ていたが、ずっと黙っているので、仕方なしに来た道をUターンすることにした。
途中、何度もネイチャーガイドの友人に電話をしたが、あいにくの圏外。
カーナビを駆使して、何とか屋敷登山口に自力で辿り着くと、そこにネイチャーガイドの友人が待っていた。
随分、待たせてしまったことを詫びて、あのY字の分岐点のことを話すと、ネイチャーガイドの友人は確かにあそこで右に下りたという。
しかし、私は左に進む紺のオペルを見た。同乗していた姉も一緒だったので見間違えるはずもない。
すっかり時間も遅くなったので、その日は鳥甲山に登ることを諦め、私達はネイチャーガイドの友人と別れて、のよさの里という露天風呂のあるキャンプサイトに行った。
テントの設営を終えると、姉は着替えを持って露天風呂に入ってくるという。
夕飯を作りながら待っていると、姉が青い顔をして戻ってきた。
「いたはずの人がいなくなったの・・・」
明らかに姉が動揺していて、要領を得ない。
話を整理するとこういうことだった。
・露天風呂の脱衣所に入ったら、先客がいたようで、脱いだ衣類がカゴに入っていた
・風呂に入る前にトイレに入り、脱衣所に戻るとあったはずの衣類がなくなっている
・トイレに入ったのはほんの1~2分のこと
・女性だし、その時間で着替えて出るのは不可能である
・床も水で濡れていない
確かに気味が悪い。
姉を疑うこともできたが、姉はそんな面白くない冗談を言うような性格ではないし、人を騙すような人でもない。
翌日は苗場山に登る予定だったが、姉はもう気味が悪いし、怖いから登りたくないと言うので、高齢ではあるが、父を呼んで、その日は一緒にキャンプサイトで泊まり、翌日に姉を連れて帰ってもらった。
気分を切り替えて、お盆休み二日目は一人で苗場山へと向かった。
登山地図を見て、そこから一番近い栃川登山道から登ろうと思ったのだ。
初めての百名山。これだけ標高の高い山に登るのは初めてのことで緊張していた。
地図上では登山道になっているが、どうも踏み跡が薄い。
ぼんやりと先を見定めると獣道のような感じで、一筋の光のような道が見えて来るが、恐らくそれが登山道なのだろう。
それでも分からない時は木の枝に掛かる赤いテープを目印にして道を探した。
しかし、登山道も見つけるのが難しい上に、この急勾配である。だんだん不安になって来る。
しばらく進むと、大きな川が突如として目の前に現れた。
ものすごく大きい岩がゴロゴロしていて、何だこれはという印象。
この川を渡れというのか。
だが、川の先の登山道がどこにあるのか分からない。
かろうじてピンクの紐を見つけたので、そこを目指すも、足を踏み外したら、川に流されてしまう。
ものすごく怖い。
せっかくここまで来たからと、何とかして川を渡ったが、そこから続く垂直断崖絶壁の登坂がさらにすごかった。
カモシカなら登れるかもしれないが、私には無理だ。
それでも無理をしてしばらく登ってみたが、空を仰ぐと、天候も崩れて来そうな雲行き。
何よりも登ったは良いが、この急勾配を下る自信がまるでない。
入山時間も遅かったので、万一、雨に打たれて、夕方の5時、6時になったら気温も下がるし、暗くなるし怖い。
戻る勇気も必要だと決意し、標高1200m付近の4合目で引き返した。
戻る勇気などと言うと聞こえは良いが、恐怖心に打ち克つことができなかったにしか過ぎない。
あまりにも急勾配過ぎることと、苗場の岩場はなぜがよく滑るので、3回も見事なまでに転倒してしまっていた。
バランス感覚の悪さに自己嫌悪で気持ちが消沈していたことも手伝って、哀れかつ、惨めな敗戦の一路である。
しかし、山登りは誰に頼まれた訳でもないのだし、自分自身が無理をする必要もないので、これで良かったのだと考えを切り替える。
二日目のい夜は栃川高原キャンプ場に泊まることにしていた。
時間は14時でまだ明るい。キャンプ場にはお盆だというのに誰もいない。
無事に下山したことに安堵しつつ、テントの中でビールを飲みながらくつろいでいたところに、一台の白い車がやってきた。
お父さんと子ども二人。車の中にはお母さんもいるようだ。四人家族のようだ。
何やら、お父さんは忙しない。
子ども達に焚き木を拾ってくるように指示をしている。
U字溝を逆さにしたカマドに集めてきた焚き木を並べ、新聞紙で火を付けようとしている。
時間は15時近くで夕飯を作るには早すぎるだろうし、お昼を食べるには遅すぎる。
それにしてもキャンプ場は火を熾すにしてもタダで使っていいわけではない。
ちゃんと受付をしたのだろうか?多分、していない。
お父さんは火を熾そうと一生懸命やっているが、ご飯を炊くつもりなのか、何なのか分からないが、これからだと、相当な労力と時間がかかるはずだ。
子どもは腹を空かせて不満の様子が見て取れるが、お父さんはそんなことはお構いなしに、火を熾している。
私の手持ちのガスバーナーを貸してあげようかとも思ったが、そんなことをしてしまうと、お父さんの面目が丸潰れになってしまうので、遠目で観察するに止めていた。
あの家族はどこから来たのだろう。車はやけに古そうな乗用車だし、お父さんの髪形はパンチパーマで今時珍しい。恰好も何だかか昭和の雰囲気漂っている。
そんなことを観察しながら疲れもあってウトウトしてしまった。
目が覚めると辺りには誰もいない。
ウトウトしたのは時間にして30分ほどだった。
あの家族はいなくなったけど、ちゃんとご飯を食べられただろうか?
いや、この短時間でご飯を食べて立ち去ることなどありえない。
あのお父さんが火を熾していたU字溝を見に行くと、そこには火を熾した痕跡はなかった。
ひょっとして最初から誰もいなかったのか・・・!
こう立て続けに三度も不思議なことが身に振りかかると気味が悪くて仕方がない。
後日、秋山郷のことを調べてみると、江戸時代の飢饉で、全ての村人が飢え死にして廃村になったという所だった。
実は廃村の慰霊碑を道中で何度も見たのだが、怖くて気付かないふりをしていた。
廃村のことが気になって調べてみると、こんな言い伝えが残っていた。
「ちょうど飢饉のあった年のことだったそうです。秋山郷には雑穀や栃の実を混ぜて作った“あっぽ”という郷土食があるんですけど、甘酒村の人が『もう食べ物がないから、あっぽを分けてもらって来なさい』と子どもに言ったそうです。その間に穴を掘って、子どもがあっぽをもらって戻ると、『半分あげるから穴の中に入りなさい』と言って、そのまま生き埋めにしたそうです」
その話を読んでゾッと背筋が凍る思いがした。
その子どもは今でもどこかの山中に埋まっているのかもしれない。そしてその近くを私は歩いたのかもしれない。あるいは車で・・・
さぞかし無念だったことだろう。
遭遇した不思議な3つの出来事は、その子どもが鳥甲山の妖鳥を使って私を化かしたものかもしれないと思った。
結局、家族が生き残るため、子どもを殺めても、飢餓による全滅から逃れることはできなく、廃村は免れなかったわけだが、そんな無念が渦巻いているのが妖鳥の舞う鳥甲山の山麓の秘境秋山郷なのである。
飢餓と言えば、その数年後に、別の山の避難小屋でこんな体験もした。
何気なく避難小屋を覗いてみたら先約が寝ていた。
起こしてはいけないと思いそっと出たが違和感を感じた。
理由はスニーカーが置いてあったことと、ザックが登山用のものではなかったからだ。
それに時間は朝の8時頃で、釣りにしろ登山にしろ出発は早いはずなので、その時間に寝ているのは不自然だ。
1週間後、その避難小屋で遺体が見つかったとの新聞記事を目にした。
事件性はなく、死因は餓死であった。