好き嫌いってなんで?

 夏の原風景でよく思い出すんですけど、自分が5歳くらいの時、うだるよう暑さの中、散々遊んできて、からっからっで、いつもの冷蔵庫の麦茶を飲まず扉をパタンと閉めて。ふと、台所にテーブルに積んであったトマトが目に入ったんです。近所の畑やっている人の差し入れてくれたみずみずしくて赤くてちょっと歪な形のヤツ。

 5歳当時の私、大のトマト嫌いで、果肉の見た目のエイリアンの内臓みたいな造形と色、あのすっぱさとか、いやで仕方なく母親がサラダに入れても食べるの拒否しつづけていたんですけど。

 なんでしょね。ふと、「魔が差した」ように、手にとって噛り付いたんです。が、それが、???? なんだ!!この美味しさっわって。

 5歳の自分にとっては、天地がひっくり返るぐらいの価値の大変換でした。

 嫌い嫌い嫌い、が、好き好き好き、になる瞬間。

 うちの母親、コーヒー好きで、午後に、コーヒーと柿ピー食べながら昼下りの愛憎劇のドラマ見てることよくあったんですが。昭和の主婦の黄金時間の過ごし方ですかね。

 横で見てて、美味しそうに、すするコーヒーのこと、理解できなくて。なんであんな気色悪い、黒くて、苦くて、不味いものを、毎日毎日飲んでんだろうって。不思議で仕方なかったんです。

 でも、これも、中2頃かな、確か13歳ぐらいですけど。ちょっと、試しに飲んでみたんです。まあ、インスタントですけど。そしたら、そしたら、後は、先の、トマト体験と「以下同文」って感じなんですけど。

 やっぱり、ビールにもそういうの同様にありましたね。

 みなさん「個人的な体験」みたいなビール逸話は沢山ありそうですけど、どなたかが、「嫌いなビールが好きになった瞬間に、喉越しってものが分かったんです」

 って語っててなるほどなと思いました。

 カポーティーが、言っていたと思うんですけど、成長というのは、少しづつ進んでいくものじゃあなくて、今の地点から、次のループへポンと飛び越えていく。その、飛躍の瞬間が成長だ...みたいな内容だったと思うんですけど。

 こんな瑣末な自身の体験で、偉大な作家を引用するのも恐縮なんですけど、僕にとっては、成長というと、トマトとコーヒーそして、ビールをなんか、思い出すんです。

 もうひとつ、ニーチェの言葉で

 「深淵を覗く時に、深淵もこちらを覗いているのだ」って有名なのありますけど、

 ぼくにとっては、その、

 トマトを齧った瞬間..

 コーヒーすすった瞬間...

 ビールを喉に流し込んだ瞬間...

 の大嫌いが大好きになる、おおでさに言えば、人生がひっくりかえるぐらいの大転換の起こるその瞬間を、実は、僕がくるずっと前から、暗闇に身を潜めて、トマトと、コーヒーとビールが、自分を待ってたような気がするっていう妄想がなんだか頭から離れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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