遠い記憶その1 或いは遠すぎる遺言
タイトルだけ見れば仰々しいのかもしれないが、なあに要は思い出話を記録しておこうというだけのものだ。
自分はエッセイやルポ・ドキュメント系の読み物を物凄く愛している。何故か?自分が体験していない物事を追体験させてくれるものだからだ。
だから、誰かの昔話はとても興味深く聞くしその喜怒哀楽を伴うエピソードに自分も一喜一憂する。会社の先輩とか年上の人からは「そういう所が面白い」と何故か可愛がって貰える事もあるが、人は自分が苦楽を共にした記憶に同調してもらえると嬉しいものだ。それがその時の己を肯定してくれるという事に繋がるのだから。
じゃあお前はどんな人生だったんだ?と言われると、これが少し説明しづらい。ロスジェネで正社員のクチがなく、しからば虚業で世の中を渡ってやろうと息巻いてそれも果たせず、今も流浪のような失うものがあったりなかったり。コロナ騒ぎで食い詰めかかるような身分だし、その程度の生活だから立て直すのも容易でもある。その程度の現状に繋がる過去だから、まあそんな大したものでも無いのだが。
今、検察のお偉いさんが賭け麻雀をして騒がれている。実を言うと、16年前、20代前半のバカガキだった頃そうして飯を食いつないでた事が自分にもある。今なら時効だろうけどあまり良い話ではない。
当時は地元に仕事が無く、代わりに派遣業法の改正により様々な工場に派遣労働者を送り込めるようになった。地元には月収20万円を超える仕事なんか無かった(今でもないけども)し、残業は辛いだろうけど金が稼げると飛びつくしか無かった。
当時、お袋が肺の病気で入退院を繰り返していたしその世話に掛かりっきりになってた時分もあって派遣先で食う飯代も充分に持てた訳では無かったが、派遣会社の人からはどうにかなるから(笑)と言われてそれを信じる他に無かった。
まあ大方の予想通り、どうにもならない事態になったわけだ。前借り制度はあったが勤務してひと月半後にならないと正規の給料を貰えず、2回ぶん前借りを経て額面通りの給料を手にするには3ヶ月後まで我慢せねばならない。そういう状態であった。当然、我慢してもしきれず1週間後の給料日まで2000円足らずで過ごさないといけない。運悪く、ゴールデンウィークが重なり稼働が止まって工場の食堂で安い蕎麦とカレーの食い溜めで1日1食で凌ぐみたいな事も出来ない。頭を抱えて帰宅した。
当時はアパート一部屋の、3LDKにそれぞれ1人ずつ3人が住んでいた。派遣労働あるあるだ。現今のシェアハウスみたいなものだが取られるお金は高すぎだった。それはさておき、対面の部屋がいやに騒がしかった。ゴールデンウィークに入るから集まって酒でも飲んでるのか。少し嫌味でも言って静かにさせてやれ、と思ってドアを叩いて声をかけた。
「おお、悪い悪い。ちょっと入っていきなよ」と酒に酔って顔を真っ赤にしてたのは俺より5歳くらい上の戸木田という男で、物書き志望で働きながら色んな賞に応募してるという。その他にも同じシフトで働いてる、顔も体格も厳ついくせにゲーオタで俺と同じくサクラ大戦の大ファンの山藤、親が歯医者で某有名私立大学卒業のクセに何故か派遣をしてる、高いスポーツカー乗りで全てにおいて適当な大野という顔見知りが並んでいた。
「じぬす君、君麻雀出来るよね?麻雀雑誌をこの間捨ててたもんね」
「いやーまあ、知ってる程度ですけども」
「実は、誘った奴がドタキャンしてさ。明日から休みだから徹マンやろうと皆で盛り上がってたのに一人カケて3人麻雀はつまんないからさ。やらない?」
「…いいですけどもレートは?」
戸木田は仲間内で大きくしたくないから1000点30円で、と言ってきた。これがどういうレベルかというと、1時間くらいで平均1000円くらいのやりとりをするという事だ。こんなもの麻雀では無い、と思ったが、勝てばインスタントラーメンに卵を入れる位はできるかと思ったし、組んでるならこんな安いレートで誘うわけが無いし麻雀が強いなら同じスタートを切って今が辛いと分かってる俺に声なんかかけないだろう。と考えて了承した。
細かいやり取りは記録してないけど、結果的にプラス80。つまり2400円の勝ちだった(当時つけてた日記に書いてある)。朝方まで打って、また夜にやろうと約束をして各々の部屋に帰って寝た。俺はその金を枕の下に隠して、気になる喫茶店のジャンボカツカレーをこの金で食ってやろうと思いながら布団の中で丸くなった。