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【短編小説】たゆたう我がままな白いけむり(4) アール

「アールはエムの分身であり、エムの教えの伝達者、いわばメッセンジャーなのです」
 Y3のワイはそう言った。
 M教団の単位組織はそれぞれYと名付けられていた。Yは、Y1からY15まであった。各Yにはワイと呼ばれるリーダーがいた。リーダーは各単位組織の記号と数字で呼ばれた。友樹が訪ねたのは、Y3と呼ばれるM教団の単位組織の神殿だった。そこは友樹が住んでいるアパートの一番近くにあった。
「では、エムには会えないということですか」
 友樹はワイ・スリーに尋ねた。
「そうです。エムと話ができるのはアールだけなのです。私も集会で遠くのほうにいるエムを見たことがあるだけです。いや、エムではなく先代のエムのご令嬢ですが」
 ワイ・スリーはそう答えた。そして、あーっ、と短いため息のようなものをついた。友樹はそのため息の意味が分からなかった。
「どうしてエムに会いたいのですか」
 今度は短いため息はなかった。
 友樹は母が亡くなった理由が知りたかった。友樹の母親はM教団のどこかの神殿で亡くなった。行の最中に急性心不全で亡くなったということだった。救急車が呼ばれたが、病院に着いたときにはもはや手遅れだったという。
「母はとても熱心な信者だったのです」
「熱心な信者はたくさんいます。熱心だからと言ってエムに会えるわけではありません。でもアールになら会えます。アールはエムのメッセンジャーなのです」
 そして、また、あーっ、と短いため息のようなものをついた。どうやらそれはワイ・スリーの癖のようだった。
「ああ、これですか。私は話しているときに別のことを考えると、いつもため息のようなものが出るのです」
 今度はため息がなかった。
「母のことで聞きたいことがあるのです」
「というと?」
「母はどこかの神殿で亡くなったと連絡がありました。行の最中に」
「はあ」
「急性心不全で」
「へえ、珍しい。神殿で亡くなるという人を聞いたことがありません」
「そうですか」
「ええ、行は誰かに何かを強いるというものではありません。精神や身体に負荷を掛けることはないのです」
と言うと、またワイ・スリーは、あーっ、とため息をついた。
「その説明は母が亡くなったときにも聞きました。でも、母は特に持病もありませんでした」
 ワイ・スリーはしばらく答えなかった。ワイ・スリーも何か考えているのだろう。
「不思議ですね」とワイ・スリーは言った。
 母は現場検証や鑑定の結果、持病が原因ということになった。友樹は母に持病があることは知らされていなかった。それは、離れて暮らしていたからかもしれなかった。しかし、どうしてどういう状態で母親が亡くなったのか友樹は知りたかった。
「エムに会ったとしても、エムも信者ひとりひとりのことは知らされていないかもしれません。
「でも、エムは見えないものが見えるとか」
「ああ、確かに」
「だからわかるんじゃないですか」
「ああ、確かにそうです。エムには見えないものが見える」
「だから、エムに会いたいのです」
 ワイ・スリーはしばらく黙っていた。たぶん考え事をしているのだろう。
「アールならエムと同じように答えてくれるかもしれません。アールはエムの伝達者、メッセンジャーですから」
と言うと、またワイ・スリーは、あーっ、とため息をついた。
 
 Rという本部組織があった。アールと呼ばれる者はそこにいるらしい。ワイ・スリーは、アールがエムの分身だと言った。
 本部組織のRの建物は神殿ではなく、ただのビルだった。40階ほどある高層ビルの3階分のフロアがM教団の施設だった。
 友樹は受付でアールに会いたいのだと伝えた。ワイ・スリーの紹介だ、とも付け加えた。受付の女性はまるで女性誌に出てくるモデルのようだった。美しいというにはまだ幼く、可愛いというには少し妖艶さがあった。新興宗教の信者のなかからこの仕事に選ばれたのだろうか。友樹はこの女性の家庭環境のことをふと考えた。
「こちらです」
 モデルのような女性は友樹を広い応接室に通した。そこは普通の応接室だった。ただひとつ違うのは、真ん中の奥に、頭を土の中に埋めた人間の像があることだった。M教団の聖書にある図に描かれた世界だった。
「危険物をお持ちでしょうか」
とモデルの女性は友樹に尋ねた。
「はあ?」
「ナイフとか鋭利な刃物とかです」
「いえ、いいえ」
「念のために確かめさせていただきます」
 女性は友樹に近づいて、両手で胸やズボンのポケットを服の上から押さえた。友樹のそばで女性のうなじ辺りから香水の匂いがした。それは甘いような酸っぱいような香りだった。秋。鼻をくすぐる秋の匂いだと友樹は思った。
「失礼しました。何もお持ちではないようで。では、お鞄は受付でお預かりいたします」
と言って、女性は友樹の返事を求めずに鞄を持って部屋の外に出た。
 友樹は不思議な像と二人きりになった。
 その像をよく見ると土は本物のようだった。土以外はブロンズのようで、裸の男性が頭を土に突っ込んでいるのだった。土に吸い込まれているのか、自分から土の中に埋まったのかはわからない。でも、呼吸はできないだろうな、と友樹は思う。その像が何を意味するのかまったくわからなかった。
 そこはどこで、男性はなぜ裸なのだろうか。M教団では白い砂で山を作る儀式があるが、その山と同じところを意味しているのだろうか。砂は西の方の外国のものと聞いた。西が意味するのがインドなのかイスラエルか中東なのか、それともイタリアかギリシアかよくわからなかった。
 そんなことを友樹が考えているとアールが応接室に入ってきた。
 アールはキリスト教の神父が着るようなデザインの服を着ていた。ただこれまで見たものと違うのはその色が濃い緑というところだった。黒に近い深緑というべきか。アールはおそらく60歳代後半だろう。半分くらい頭が禿げている。髪の分け目がわからないような髪型をしていた。友樹と向かい合ってテーブルの向こうに座った。テーブルは20人くらいが座ることができる大きな楕円形のテーブルだった。
「ご用件は伺っています」
 アールの声には潤いがあった。いつも喉を使う仕事をしているように腹から息を出しているように太く響いた。
「お母様が亡くなったときのご様子をお知りになりたいということですね」
「ええ、まあ」
「お母様はわれわれのY7の神殿で行の最中にお亡くなりになりました。医師の診断では急性心不全ということでした。お母様は心臓に持病があったとのことでした。以上です」
 アールはきっぱりと、以上です、と言った。それはまるで反論を許さないような、以上です、だった。
「行の最中に信者の方が亡くなるのはよくあることですか」
「いいえ。この例が初めてではないですが、あまりありません。今年ではこの一例のみです」
 友樹はあらかじめ質問を考えていたが、アールならすべて無難に答えそうな気がした。アールはとても利口な人のように感じた。
「母はどんな行をしていたのですか」
「第六感を磨く行です」
 アールはそれだけしか答えなかった。友樹はそれが意外だった。
「具体的にはどんなことをしていたのですか」
 アールは何かが打ち出された紙を一枚だけ持っていた。それに目を通していた。まるで初めて書かれていることを見るように、慎重に指で文字をなぞっていた。
「ああ、ある問題を解いていたのです。問題集の演習のようなものです」
「演習?」
「そう、小学生のドリルのようなものです」
「どんな問題ですか」
「ある意味、国語の問題です。文章で書かれた問題です。ときどき図があります」
 友樹は少し首をかしげて考えた。M教団の国語の問題。友樹の頭には何も浮かばなかった。
「よくわかりません。宗教団体が修行でドリルをするんですか」
「私たちは修行とは言いません。あくまで行です。ただの行いです。第六感を磨く行です。といっても第六感を磨くというのは難しいことです。走るのを速くするには筋肉を鍛えます。そして何回も走ります。触覚を磨くには何度も触ります。それが何であるのか目隠しをして触ればいい。味覚は何度も食べればいい。でも第六感を磨くというのはさまざまな試みが必要です」
「はあ」
「第六感の国語問題には、行間を読むということもあります。書かれていないことを言い当てるのです。これもある意味第六感です。目隠しをして誰かが部屋に入ってくるのを言い当てるという行もあります」
「へえ」
「これは難しい。例えば、あなたは私が部屋に入る前に私のことを想像しましたか」
「ええ、ある程度は」
「それは想像通りでしたか」
 友樹は少し考えた。
「いえ、そういう色の服は想像していませんでした」
「色?」
「濃い緑の服は想像していませんでした」
「ああ、この色ですね。これは私たちが自然に還ることを意味する色です。これが想像したものと違う。それも行です。今度、違う場面では想像のなかの一つになっていることでしょう」
「それで第六感が鍛えられるのですか」
「そうです。私たちはそうやってエムに近づきます」
「エムに」
「エムには見えないものが見えるのです」
「誰かの服の色がわかるということですか」
「ははっ、透視術というのではありません」
 アールは少し笑った。友樹はアールが笑うことを知った。これも想像の外だった。
「空気、気とも言いますが、空気がわかるのです。それも時間を超えて」
 時間を超えて空気が分かる。それはどういうことだろうか。時間を超えて風景が分かるというならまだ理解できる。でも、時間を超えて空気が分かるというのはどういうことか。
「ちょっと意味がよくわかりません」
「エムの教えの一つにアジアがひとつの民族になる、ということがあります」
「はあ」
「それは、ある時代にアジアの人々が同じ考え、同じ価値観、同じ空気を吸っている状態です」
「はあ」
「エムにとってそれは教義ではないのです。理想の姿ではないのです。エムには見えているのです。実際にアジアの人々がひとつになっている姿が見えるのです」
「はあ、ちょっと待ってください。よけいに分からなくなってきました。母もそれを信じていたということですか」
「お母様は熱心な信者でした。当然それも信仰のなかにありました」
「お金は、献金はそのためだったのですか」
「さあ、それは信者の方ひとりひとりの心の問題です。エムの考えに共感されたのか、はたまた教団の発展のためを思われたのかはよくわかりません」
「どうしてアジアなのですか。全世界の人類ではなくて」
「それは….」
と言って、アールはしばらく時間を置いた。
「歴史の話をすると、ちょっと長い話になります。人類が言語によって思考を本格的に始めた古代ギリシアからの話になる。その時間差の問題による西洋と東洋の対立の話をしないといけない。でも、現在からの話だけだと短くなります」
「短い方でお願いします」
「それはあなたも私もアジアに生まれて、似たような境遇にいるからです。ともに武器を持つことができる。痛みが共有できるとも言える」
 友樹は、これは敵わないなと思った。アールの言うことは友樹に理解できない。アールは友樹とって手強すぎる知的な存在だ。正しいことなのか間違っているのか、すべて誤魔化されてしまうように思った。とてもひとりで太刀打ちできる相手ではない。
「母に持病があったのは本当ですか」
「ええ、そういう報告が病院からありました。それはご遺族にもあったと思いますが」
「いや、私は母と同居しているわけではありませんでしたので。妹に聞けばわかると思います」
「ぜひお聞きになってください」
「通院していた病院にも聞いてみます」
 アールはまたテーブルの上の紙を指でなぞっていた。
「病院ですか」
「ええ、持病があるなら病院に通っていたと思いますので」
「その病院をご存じですか」
 友樹はまったく分からなかった。母が心臓に持病があるなんて話は聞いたことがないし、それのために病院に通っているということも知らなかった。
「ええ、心当たりはあります」
 しかし、友樹はとっさにそう答えた。
「それはどこの病院ですか」
「どうしてそれを聞くのですか」
「私どもの病院に聞かれることになるかと思いまして」
「教団は病院をお持ちなのですか」
「ええ、学校、会社、工場、いろんなものを持っています。病院も持っています。信者が安心して治療を受けるためです」
「それは母の住んでいたところの近くなのですか」
「いいえ、少し離れています。ただ、神殿の近くですので、行に来られるときに立ち寄って行かれたと思います」
「妹に聞けばわかると思いますので、またあらためて伺います」
「あらためて?」
「ええ」
「もう話すことはありません」
「母がどうして亡くなったか少し調べてからお聞きしたいと思いまして」
「警察からも事情聴取されました。何か不審に思われるのですか」
 警察からの事情聴取。どういうことなのだろうか。
「いえ、そうではなくて、本当のことを自分で確認したいだけです」
「一度お会いした方と、もう一度会うときはこちらからご連絡することになっています」
「どういうことですか」
「私に会えるのはワイの誰かの紹介か、こちらからお呼びするときだけです」
「じゃあ、もう母の死についてはもうご説明いただけないということですか」
「何か不審に思われることがあるなら、法的手続きを取られればいいのです」
 法的手続き、とアールは言った。
「法的手続きって、何か隠していることがあるっていうことですか」
「いえ、そういう意味ではありません。もうお帰りください」
とアールが言ったときに扉が開いて、受付の女性が入ってきた。
 彼女はモデルのように華麗に歩いてきた。
 歩く彼女からは、だんだんと鼻をくすぐる秋の匂いがした。

https://note.com/jintaro4649/n/n13901537fc88


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