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【短編小説】文字降る国の街角で

 文字が降ってくる病に罹ったのは文美が二十歳のときだ。

 最初はデパートのエスカレーターに乗っているときだった。
 エスカレーターの上に吊り下げられた「SPRING SALE」という垂れ幕が見えた。だんだん上って行くにつれて、垂れ幕に近づいた。
 垂れ幕が歪んで見える。
 ああ、垂れ幕が落ちてくる。そう思った。
 エスカレーターがちょうど垂れ幕を通る手前に来たとき、「S」と「A」と「L」と「E」がぱらぱらと降ってきた。文美は肘を上げ、手で頭を覆って、「ああっ」と顔をそらした。
 そのまま文美が垂れ幕の下を通過したら、何も落ちてこなかった。
 動いているエスカレーターから振り向くと、垂れ幕はもとのまま、何事もなかったようにぶら下がっている。吹き抜けの気流に少し揺れているようにも見えた。

 文字が落ちてくる。

 その不思議な現象に出会うようになってから、文美はパニックになったこともある。
 料理の本を探しに大きな書店に行ったときのことだ。
 雑誌のコーナーから旅行のガイドブックのところまで歩いているとき、本棚に置かれている本の背から文字がころころ落ちてきた。外国のことを知る辞典という分厚い本からは、ごろごろという音がして、背表紙の文字が崩れ落ちてきた。やがてぐぉーんという耳鳴りになった。文美は立っていられなくなって、その場でしゃがみこんだ。

 どれくらい時間が経ったのだろう。
「大丈夫ですか?」
 誰かが文美に声をかけた。
 見上げると、書店の制服を着た男性が文美を心配そうに見下ろしていた。
 
 頭位変換性めまい、メニエール病、貧血、不安障害。
 病院に行くと、耳鼻科の医者はそれらの疑いがあると言った。
「文字が読めなくなるとかは、ありますか?」
 そう医者は尋ねた。
「いいえ、文字は読めます。むしろ文字を読むのが好きなのです」
 ふ~ん、と言って、医者はしばらく何かを考えていた。
「世の中には文字が多すぎるのかもしれませんね」
「ええっ?」
「いえ、雑誌やネット、世の中には情報が一杯溢れている。ツイッターやメール、やりとりするほとんどが文字です」
「ええ」
「そういうことにうんざりしているとか」
 文美は思い当たるところもあったが、的外れなような気もした。確かにアルバイトの仕事で文字をよく読んでいるし、SNSやニュースなんかもよくチェックしている。
「薬を処方しておきます。ちょっときついかもしれないので、お休みの日の前に飲んでください」
 医者はそう言った。

「文字は昔、人の動作とかを表す絵だったと言うよね」
「うん」
「それがやがて図形になった」
「ええ」
「やがてそれが記号になり、その記号がいくつかの意味を持つようになった」
 文美は雄二とベッドでそんな話をするのが好きだった。
 雄二は広告代理店の営業の仕事をしている。文美がアルバイトでその補助の仕事をしているのだ。
 知り合ったのはそのバイト先。文美がミスをしても雄二は決して叱らなかった。
 校正ゲラを電車で忘れてしてしまったときも、雄二が自分でクライアントに謝罪に行ってくれた。
「あやみさんのあやは、文って書くよね」
「ええ」
「あやと読めば、それは形や模様になる」
「うん」
「ふみと読めば、書き記したものになる」
「そうね」
「ぶんと読めば、文字や書体になる」
 雄二はそう言うと文美の無防備な乳房にそっと触れた。
 文美は少し目眩がした。
「文字は何かを伝えるものだったけど、それだけじゃなくなった」
「どういうこと?」
「ひとの意識のなかで勝手に動き出した」
「えっ?」
「誰かに思いを伝えるだけじゃなくて、よけいなことまでできるようになった」
 雄二はそういうと文美の乳首を唇でとろっと触った。
「ああっ」
 文美は文字にならない声を出した。
 それからふたりは、また交わった。
 文美の部屋で、文美のベッドがずんずん揺れた。

 雄二に奥さんがいるのを知ったのは二人の関係が深くなった後だった。
 文美はまさか自分がそういう存在になるなんて思ってもみなかった。文美は、雄二の優しさと知性に強く惹かれていただけだった。
 文字が降ってくるようになったのはその頃だからだ。

「文字を読むのはしばらく止めましょう」
 耳鼻科では埒があかないので、次に行った精神科の医者には診察でそう言われた。
「えっ」
「そうするのが一番早く治ります」 
「本も新聞も?」
「はい」
「それじゃあ、バイトの仕事ができなくなります」
「そうです。アルバイトの仕事もしばらく休みましょう」
 文美はコピーライターになりたくて、広告代理店でアルバイトをしていた。
 クライアントに原稿を届ける仕事だ。原稿の一次校正も文美の仕事だった。
 雄二という30歳過ぎの男性を補助するのが主な役割だ。
 雄二はとても親切だった。だけど、奥さんがいるなんて。まさか自分がそんなことになるとは思ってもみなかった。仕事をやめるということは、雄二とも会えなくなる。
 それは淋しいようで、なんだかすっきりする感覚もあった。
「文字を一切読まないってことですか?」
「できればそうするのが一番いいです」
 医者はそう言った。この人は私のことを何も知らない。私がコピーライターになりたいことも、雄二と私のことも。
 診察室には診察用のガイドブックのような本だけがあった。その背表紙の文字は落ちてこなかった。
 別れよう、雄二と別れよう。文美は思った。

 それから仕事を辞めて二週間に一度医者に通った。
 雄二とは一度も会っていない。
 文美は昔から一度決めたらその方向に突き進む。東京の大学に行くと決めてからそれだけを考えて受験勉強をしたときもそうだった。
 思い切って、医者に雄二とのことも話した。
 話し始めると、涙が出てきた。
「騙されたんです」
と、医者に言った。
 そんなこと、これまで考えたことはなかった。いや、考えないようにしていただけかもしれない。
 話し出すと、涙と鼻水がいっしょに出てきた。医者はテッシュペーパーを渡してくれた。
 それで涙と鼻水を拭きながら、でも雄二を愛している、とも言った。仕事のストレス、プライベートの悩み、いろいろ話した。
 医者は一通り聞くと、そういうことが積み重なってめまいになったのではないかと思うと言った。 
「先生、私は元通りになれるんでしょうか?」
「元通り?」
「もっと強くなれますか」
「強くねえ」
 医者はそういうと何か思い出すような、考えているような顔をしていた。
「強い人になるって難しいね」
「はあ」
「ある人がこんなことを言っています。本当に強い人は一番辛い経験をして、それをもう一度やってもいいと思う人だと」
「ええ」
「でも実際はただ生きているだけでも難しいんだけどね」
 文美は医者が言う言葉を聞いていた。
 今の自分の脳ですぐに理解するには難しいと思った。思考がうまく働かない。
 雄二には、「病気になったので別れます」とだけLINEで伝えた。
 それで雄二とのLINEを消した。
 つながりをすべて消した。
 あれから一度も雄二とは接点がない。

 一ヶ月が経った夕方、病院から帰る途中だった。
 ビルの電光掲示板がニュースを知らせていた。
 外国の都市が隣の国から砲撃を受けているというニュースだった。
 文美は友だちと旅行したヨーロッパのある街の風景を思い出した。どこまでも田園が広がっていて、レンガの家が所々に建っていた。
 あれはたしか小麦の畑だったかな?
 文美の記憶の中では、一面に黄色く広がる土地が小麦畑になっていた。
 ニュースの文字を読んで、そんな風景が壊されていくイメージが浮かんだ。
 あっ、集中して文字を見ると、その文字がぐらぐらと落ちてくるかもしれない、と思った。
 でもいい。
 またやり直せばいいのだ。もといたところに帰って、もう一度やり直せばいいのだ。
 文字降る国の街角。
 電光掲示板のニュースの文字はそのまま流れていた。都会のあちこちに塹壕がある。
 今日は降って来なかった。
 文字はもう勝手にひとの意識のなかで動き出してしまった。
 それを止めることはできない。空を飛ぶ砲弾を避けるように、ただ、ときどき隠れているしかない。
 ただ生きているだけでも難しい。
 医者はそう言っていた。
 今日は眠れるだろうか。
 文美はふと思った。
 砲弾の下、塹壕での浅い眠りを思い浮かべた。

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