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【短編小説】たゆたう我がままな白いけむり(9) 涙は排泄される液体 

 Y7という施設は神殿タイプの建物だった。
 入り口には太いギリシア風の柱があった。
 そこを入ると大きなラウンジがあった。それはラウンジなのだろうか? あちこちで人が作業をしているようにも見える。
 友樹とホダカを施設長が出迎えた。
「遠藤様のご子息の方ですね。ご用件は伺っています。どうぞこちらへ」
と言った。施設長は施設名のアルファベットと数字で呼ばれる。Y7の施設長は、ワイ・セブン。M教団の習わしだ。
 ワイ・セブンはラウンジの真ん中を横切って歩いた。
 ボールを投げている女性がいる。
 あれはボッチャじゃないか。パラリンピックで見たボッチャだ、と友樹は思った。
 ジャージを着た中年の女性がボールを投げて、別のボールに当てている。どこか障害がある人のようには見えない。
 ラウンジにいくつか置いてあるテーブルでは、トランプをしている人がいた。
 若い女性が二人。カードを伏せ、そのカードが何かを言い当てている。その二人の表情は真剣そのものだ。
 ワイ・セブンは友樹とホダカをラウンジの一番奥の席に連れて行った。
 そのテーブルには花瓶に花が飾られていた。白いマーガレットが十本ほど。
「ここでお母様は倒れられました」
 あのマーガレットは母だ、と友樹は思った。
 花瓶の横には、緑の表紙の冊子があった。
「ぎょうちょう、です」
とワイ・セブンは言った。
「行のための帳面です。お母様はこの最中でした」
 友樹は行帳を見た。
 表紙の緑はどこかで見た色だった。
 ああ、そうか、R施設で見たアールの服の色と同じだ。自然に還る色。アールはそう言っていた。
「なかを見てもいいですか」
 友樹はワイ・セブンに尋ねた。
「ええ、どうそ。構いません」
 友樹は緑の表紙を開いた。
 見たことのない絵の写真が二つあった。
 ひとつは赤っぽい絵だった。それは水の上に赤と黄と白の絵の具を垂らして、緩くかき混ぜたような絵だった。所々に濃い赤や薄い黄色があった。いや、これは水の上ではなく、何か和紙のようなものなのかもしれない。
 もう一つの絵は、青と黄と緑の絵の具を垂らして、同じように緩くかき混ぜたような絵だった。でもこちらは何か小さな記号のようなものが所々に描かれている。それは何か意味があるのかどうかわからない。
 二つの絵の下にひとつの問いがあった。
「どっちですか?」
 それだけ書かれていた。
 それは、好きな絵がどっちかという意味なのか、高い絵がどっちかという意味なのか、何を聞いているのかよくわからなかった。
 次のページには、二つ目の絵のなかにあった記号のようなものに似た図だけがあった。
 問いが書かれていた。
「これはあなたですか?」
 友樹にはそれが何を意味するのかさっぱりわからなかった。
 ホダカも呆気に取られているようだった。
「これは問題集ですか?」とホダカがワイ・セブンに聞いた。
 ワイ・セブンは、「そうとも言えます」と答えた。
「ただ行うだけのものです。それで第六感を磨いているのです」
 友樹は母がこれを何のためにこれをやっていたのだろうか、と思った。
 どうしてこんなものをやっている最中に心不全になるのだろうか。
「行はすべてリラックスした状態で行います。でもお母様は突然倒れられたのです。私どもも何が起きたのかわかりませんでした。すぐに救急車を呼びました。お母様は病院に運ばれましたが、・・・お気の毒なことになりました」
 ワイ・セブンはそう言った。
「この行では、心拍数が上がるとか、そういう危険性はないのですか」
とホダカが聞いた。
「ご覧の通り、とても安全なものです」
「でも、こんな訳の分からない問題では頭が混乱する人がいるんじゃないですか」
 ホダカの直截的な言い方に気を悪くしたのか、ワイ・セブンはしばらく答えなかった。
「・・・最初はちょっと戸惑う人もいるようです。しかし、そんな人には担ぎ手が付くのです」
「担ぎ手?」
「援助者といってもいいかもしれません。私たちは、担ぎ手と呼んでいますが」
「担ぎ手はトレーナーのようなものですか」
「いいえ、専門的に訓練を受けたような人ではありません。私たちのホームの仲間の誰かが担ぎ手になるのです」
「ホーム?」
「ああ、この神殿に集まっている信者の方々がつくる共同体です」
「共同体?」
「そう。それを私たちはホームと呼んでいるのです」
「つまり、周りの者が付きっきりでマインドコントロールをするようなものですね」
「マインドコントロール?」
 ワイ・セブンは困った表情をした。
「マインドコントロールや洗脳のスキルを私たちが駆使しているように言われたり、書かれたりしています。でも、体験していただければ分かりますが、そんなものはありません。それに決して強要はしません」
「献金の問題がありますね」
「私たちは献金も強要はしません。返還のご要望があれば、まだそれが使われていないうちならお返しします。実際に返した事例はいくつもあります」
「ここに集まって、ここのルールを染みこませる。それがマインドコントロールでしょ」
 ホダカもワイ・セブンも立ったままで話していた。
 ワイ・セブンはホダカと友樹に席を勧めなかった。
「信者がここにいるのは、一日のほんの数時間です。学校や会社に比べれば短いものです。学校や会社のほうがそこの決まりを強いる力はずっと大きいと思います」
「でもここは宗教施設。学校や会社とは信じるものが違うでしょ」
「信じるものが違う。それは宗教とサイエンスの違いと言いたいのですか」
 ホダカは黙った。何か考えているようだった。
「そうよ。学校では考えることを教える。会社は生活するための糧を得ることを教える。ここは考えないことを教えているのよ」
「考えないことを教える?」
「判断を神や預言者に預けることよ」
 今度はワイ・セブンが黙った。
 テーブルの上のマーガレットをちらりと見た。
「それは救済のことをおっしゃっているのでしょうか。われわれはだれも未熟です。とくに若い頃は感情にまかせて間違いを犯す。男女の間ではときにそうです。だから神様が救済されるのです。伴侶も選んでくださる」
「自由を否定するってことでしょ。選択の自由を否定している、この教団は」
「選択の自由?」
「そうよ、選択の自由」
「お母様は信仰として自らエムを選ばれた。選択をされたのです」
 ホダカは黙っていた。何を言っても無駄だと思ったようだった。
 「この教団は誰かの役に立っているのでしょうか」
 友樹が言った。
「ええ。救いを求める人々にとても役立っています」
「山羊ですね」
「えっ」
「山羊は草をやるとどこまでもどこまでも付いてくるんです。山羊になってしまった信者はどこまでも付いてくる。信者の意志で」
「迷える子羊のことですか?」
「いえ、山羊。昔、母がそんな話を聞かせてくれた」
「ちょっと意味がよくわかりません」
 それから誰もしゃべらなかった。

          *

 帰りの電車で、友樹はホダカに言った。
「結局、何もわからなかった」
「そうね」
「教団は罪に問われない」
「・・・・」
「教団を潰したい」
 ホダカは、えっという顔をした。
「せめて、エムを殺したい」
 友樹はそう言った。
 ホダカは困ったような顔をして友樹を見つめていた。
「でも、そんなことをしたってM教団は誰か別のエムを連れてくるだけ。何にもならない。僕の狂気だと思われるだけ」
 ホダカは黙っていた。
「遠藤さん、とても辛かったんでしょうね」
 太い声だった。ホダカの声が太いことにあらためて気づいた。
 友樹がホダカの顔を見た。
「私には本当の気持ちは分からない。でも、遠藤さんが夜、ふとんのなかで泣いたり、学校に行ってもため息をついていたんじゃないかと想像はできる」
 友樹はうつむいた。
「涙はあなたが流す液体。ため息はいつもより多く吐く空気。あなたの体がそう感じて、そんなものを出している。それは体の記憶に残る」
 友樹は母と妹と過ごした家のことを思い出した。食べるものがない部屋。母は神に身を捧げている。妹と自分は母の愛情がほしい。そんなことを思い出した。すると涙が出てきた。
「それには意味があるのよ。私はあの子を助けたことを後悔していないわ」
 あの子とは、たぶん奪還した子のことだ。エム病院の院長が言っていたホダカの奪還したあの子。それでホダカが弁護士を辞めることになった。
「だって私以外に誰があの子を助けられたの? あの子は知らないところで、不安で不安で仕方がなかった。でも、ママから離れられなかった。だから付いていった」
 友樹は泣いていた。うつむいた顔から涙が電車の床に落ちた。
「私はあの子と出会った。そのときに繋がった。あの子が何におびえていたかはわかる。頭で考えることじゃない。どこかもっと深いところで繋がっている」
 友樹はホダカの太く響く声をじっと聞いていた。
「あなたの・・・」
と言って、ホダカは友樹の肩を抱いた。
「涙の意味はわかるわ」
 友樹はホダカの肩に体を預けた。涙がホダカの服を濡らした。
 中年のカップルか、それとも姉と弟か? まばらな客が不思議そうに二人を見ていた。
 ホダカの薄いピンクのシャツ。その右肩に友樹の涙が滲んだ。それは何かの模様のようにも見えた。


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