広島と呼ばれたホームレスがいた
高瀬 甚太
「広島」と呼ばれるホームレスがえびす亭の周辺を徘徊するようになったのは、その年の十二月、押し迫った時期のことであった。
「おい、また、あのホームレスが来てるぞ」
「最近、よく目にするなあ。この寒いのに大丈夫かいな」
えびす亭の面々がホームレスを見て噂をしていた。
「もしかしたらこの店の客に見知った人がいて、それで来てるんじゃないか」
「いや、単に匂いにつられてやって来てるだけじゃないか」
ガラス戸の向こうをうろつく黒の汚れたコートを身に付けたホームレスを見て、気になるのか、えびす亭の面々が酒を酌み交わしながら会話を重ねていた。
ホームレスは、えびす亭の前を落ち着かない様子でうろついて離れようとしなかった。どこからやって来たのか、なぜ、えびす亭の前をうろつくのか、誰にもわからない。わかっているのは、当の本人だけである。
――広島から上阪した加藤信吾は、関西の私立大学を卒業して、中堅の広告代理店に入社した。営業マンとしてまずまずの成績を収め、三十代半ばで課長に昇進、結婚をして妻を得、子宝にも恵まれた。四十代の初めには家を購入するなど、実直で平和な人生を送り、幸福を満喫していた。
順風満帆の生活が一変するのは、会社のゴタゴタに巻き込まれてから後のことである。すでに加藤は五十二歳になっていた。
部長に昇進していた加藤は、会社の内紛に巻き込まれ、反乱を企てた専務派の一員として名を連ねていたことから、ある日、突然、会社を追放された。それが暗転の始まりとなった。
安定した収入の道を閉ざされた加藤は、妻や子供を養い、家のローンを払うために就職活動に邁進した。だが、五十を超えた加藤に対する再就職の道は思いの外、厳しかった
失業保険を受給しながら、同業他社に精力的に売り込んだ加藤であったが、成果を上げられないまま、失業保険の受給の打ち切りの日が迫っていた。
失意に打ちひしがれた加藤は、そんな時、楊喜重という男と出会った。
行きつけのバーで、一人グラスを傾けていた加藤に、楊は言葉巧みに近づくと、甘い言葉をかけて加藤を誘った。
「○○広告代理店なら関西では名の知れた会社だ。そこの部長さんなら、いくらでも仕事がおありでしょう。引手あまたじゃないですか」
加藤は首を振り、情けない表情で否定した。
「退職する前は、いくつか誘ってくれた会社があったんです。ところが、いざ退職すると途端にどこも知らぬ顔で、『申し訳ないがうちでは……』の一点張りです。看板を失ったサラリーマンはみじめなものですよ」
楊と加藤は、バーで時折顔を合わす程度で、それまで深い付き合いはなかった。楊が加藤に話しかけてくるようになったのは、加藤が退職してから後のことである。
「加藤さん、もしよかったら、どうでしょうか。私の仕事を手伝ってもらえませんか?」
「楊さんの仕事?」
加藤はそれまで楊が何をしているのか、まるで知っていなかった。
「それは有難いが、私は楊さんの仕事を知りません。果たして私のような者にできるかどうか……」
「加藤さんなら大丈夫です。私が保証します。明日、詳しい話をお聞かせしますから、その時まで考えて置いてください」
その日、遅く帰宅した加藤は、妻に楊の話を打ち明け、相談をした。加藤がクビになり、不安に陥っていた妻は、どんな仕事でもいい、お金を稼いで、家に入れてくれればそれでいいと話し、一度、話を聞いてみてはどうかと勧めた。
一癖も二癖もありそうな楊に、加藤は心を許していなかった。だが、一向に仕事を見つけられないでいた、その時の加藤には、楊の話を聞いてみるしか術がなかった。
翌日の夜、加藤はバーのカウンターで楊を待った。加藤より三十数分遅れて楊が現れた。
「お待たせしました。ここでは何ですので外へ出ましょうか」
楊は、加藤の分を支払い、店の外へ出た。
「ここからそう遠くない場所に私の事務所があります。そこで詳しい話をしましょう」
言いようのない不安が加藤を襲ったが、表情には出さず、楊の後を追った。
バーから歩いて三分ほどの距離に五階建ての旧いビルがあり、楊はその三階に加藤を案内した。
「どうぞお入りください」
楊の言葉に従って部屋の中に入ると、暴力団と見間違うような四人の男たちがたむろしていた。煙草の煙が部屋の中に充満し、中には酒を呑んでいるものまでいた。
「おい、みんな、今日から俺たちの仕事を手伝ってくれる加藤さんだ」
楊が男たちに挨拶を促す。男たちは、品定めでもするかのように加藤を睨み、物も言わず、小さく頭を下げた。
「ところで楊さん、私の仕事というのは?」
加藤が聞くと、楊は鷹揚な態度で煙草を口にし、足を組んだ。
「なあに、簡単なことです。今、私たちがやっている仕事の手伝いをしてもらえば、それでいいのです」
「その仕事というのは、どんな仕事ですか?」
部屋にたむろしていた四人の男たちから笑い声が起きる。
「楊、こちらさんに仕事の内容、話していなかったんか?」
四人のうちの一人が酒臭い息を吐きながら、楊に聞いた。
楊が加藤を見つめて言う。
「加藤さん、あなたにやってもらう仕事は非常に簡単だが、下手を打つと手が後ろに回る、やばい仕事だ。高い給与を払う代わりにそれだけの覚悟が必要な仕事だが――」
「やばい仕事? そんな仕事なら断ります」
立ち上がった加藤が肩を震わせて楊に言った。
「ところがそういうわけにはいかないんだよ。この事務所に足を踏み入れたからには協力してもらうしか仕方がない。もし、断れば――」
加藤を四人の男たちが取り囲んだ。
「生きては帰れないと覚悟することだな」
高齢者に儲かる投資話を持ち掛けて、多額の金をだまし取る悪辣な詐欺商法が楊の仕事だった。
「あんたのように、実直なサラリーマンの典型が、こういう仕事に役立つんだ。俺たちが投資話を持ち掛けても、胡散臭く思って相手にしないが、あんたなら信用して話を聞く可能性がある。俺はずっとあんたのような人間を探していた。年齢的にもこれまでの営業経験からしても、とっておきの人材だと思い、秘かにあんたに目を付けていた」
バーで会っていた楊と、目の前にいる楊が同一人物だと思えないほど異なって見えた。加藤は小さくため息をついて、楊に言った。
「投資は、私の専門ではないし、にわか仕込みで営業をしても、相手が乗って来るとも思えない。私には不適任だ」
吸いかけの煙草を一気に吐き出した楊は、その煙を加藤の顔に吹き付けた。
「専門知識なんか必要じゃない。大切なことは、儲かるということを強調するだけでいいんだ。金を持っている年寄りは、もっと金を増やす方法がないかと、常に考えている。なぜ、儲かるかの説明より、とにかく自分に金を預けてもらったら、必ず儲けさせてみせる、そのことを強調して信頼を得ることだ。俺たちにはそれは出来ないが、あんたなら出来る」
相手に信用を得るための名刺、会社、パンフレットその他すべてを楊たちの事務所が揃え、翌日から加藤は詐欺の片棒を担ぐことになった。妻には、仕事が決まったということだけを伝え、詳しい話をしなかった。加藤の妻も詳しい話を聞こうとはせず、給与の金額だけを気にした。
営業部長の肩書きの付いた名刺を加藤が持ち、係長の名刺を持った楊が加藤に付き添った。訪問する家は、楊たちが予め調査して選んでいる。老後を悠悠自適に暮らしている人間だけを相手にして営業した。
今の時代だからこそ儲かる投資があると、加藤が話すと、不思議なことにたいていの老人は信用した。長い間、営業一筋に生きてきた加藤にとって、老人を説得することはそれほど難しいことではなかった。老人たちもまた、加藤の人柄、話し方などに触れて、真剣に耳を傾けた。十人回れば、そのうち二人ぐらいが話に乗って来た。三日も回れば慣れて来て、口調も軽やかになり、押し出しも強くなってきた。
一カ月で五億円から十億円の金を集め、三カ月もすると三十億円もの金を騙し取っていた。加藤には、商談が成功して、相手から金が振り込まれるたびにそのうちの二割が払われた。一カ月目には一千万円を超える金額が加藤の口座に振り込まれ、三カ月目には、その金額が三倍、四倍にもなった。
金が人間を変えるとはよく言ったもので、加藤の生活もまた俄然、派手になった。
加藤は、妻には、怪しまれないために一割程度を渡し、残りは手元に保管した。その金を狙って、ギャンブルや女、酒が次々と加藤を狙う。徐々に麻痺して行った加藤は生活を乱し、ほとんど家に帰らなくなり、半年後にはギャンブル中毒、女中毒、さまざまな中毒に陥っていく。
相手に進めて金を出させていくうちはいいが、投資の結果を出して行かないと当然のことながら、顧客が騒ぎ始める。しかも高額な金額を投資している顧客ばかりだ。黙っているはずがない。
半年もすれば、多くの客が騒ぎ始め、収拾がつかなくなっていた。
「楊さん、どうしましょう? このままでは警察沙汰になってしまいます」
畏れをなした加藤が楊に相談を持ちかけると、楊は笑みを浮かべて加藤に言った。
「そろそろ潮時だな。会社を畳むか――。後の責任は、投資話の顔であるあんたに取ってもらう」
「えっ、私に!?」
加藤が驚きのあまり、素っ頓狂な声を上げた。
「そりゃあ、そうだろう。そのためにあんたに法外な金額を渡しているんじゃないか。警察に逮捕されても、俺たちの組織のことや、バックにいる組の名前、俺たちの名前を出すんじゃないぞ。出したらどんなことになるか、わかっているだろうな」
「そ、そんな――」
加藤が空前の詐欺罪で逮捕されたのが、翌週の月曜日だった。事務所に警察が乗り込んできた時、いち早くそれを察知した楊や四人の男たちは、すでに遁走した後だった。
詐欺事件の首謀者、犯人として加藤がその場で逮捕され、その日の夕刊の一面を加藤逮捕の記事が大きく飾ったことは言うまでもない。
逮捕と同時に加藤は家族も失った。加藤の妻は、逮捕以前に、ギャンブルや女に入れ込んで家に帰って来なくなった加藤に愛想をつかし、すでに離婚の準備をしていた。
全てを失った加藤は、そのまま収監され、裁判で五年五カ月の実刑判決を受け、服役することになった。
収監された刑務所で、加藤は模範囚であったことから、一年ほど早く出所できることになった。しかし、刑務所から解放されても、加藤には戻るべき場所がどこにもなかった。
家族にも見放され、社会からも見放された加藤は、保護司の世話で東大阪市の金属加工の工場に工員として就職する。加藤は五十七歳になっていた。
そんな加藤がえびす亭に通うようになったのは、同じ工場で働く、先輩工員に店へ連れて行ってもらってからのことだ。出所以来、他人との関わりを避けていた加藤だったが、先輩工員の矢島ただしは、加藤の前歴を知りながらも特別な意識を持つことなく加藤に接し、えびす亭に加藤を誘った。
立ち呑みの店、えびす亭は、社会の捨て子となった加藤には居心地のいい場所となった。ここでは、誰もが平等に接し、快く酒を交わすことができた。この店で加藤は、伊東敦彦、通称、あっちゃんと呼ばれる同年代の男と知り合い、仲良く酒を呑むようになった。
あっちゃんもまた、加藤と同様に前科があった。加藤は詐欺であったが、あっちゃんは盗みの常習犯として何度も警察の世話になっていた。加藤は、心優しく、人のいいあっちゃんが、盗みの常習犯であるなど信じられなかった。あっちゃんもまた、加藤のことを詐欺の前科があるなど信じられなかったに違いない。
二人は、毎晩のようにえびす亭で酒を呑み、一緒に過ごすようになった。あけっぴろげに過去を話すうちに、二人は同じ思いを共有することになり、互いの感情をぶつけ合うようになった。いつしかそれが悲劇を生み出すことになろうとは、この時の二人には知る由もなかった。
「盗みは、一種の中毒のようなものでね。やめよう、やめたいと真剣に思うのだが、やめられない。警察に捕まって刑務所に収監されている時は、金輪際、盗みなんかやるものか、そう決心する。だが、娑婆に出てしばらくすると、ムズムズと手が動き始め、盗みに入る様、催促し始める。つい二カ月前出所して、今は真面目に働いているのだが、禁断状態に陥って、どうにもならない。一生、治らないのかと思うと我ながら哀しくなってくる」
あっちゃんは、えびす亭で加藤にそう話した。加藤もまた、あっちゃんに心の内を話した。
「悪い奴に誘われて詐欺グループの一員になった。最後には、自分一人、責任を負わされて社会の制裁を受け、刑務所に収監された。楊という男を一時は恨んだが、詐欺も盗みと同様に、ある種の麻薬のようなもので、一度体験すると、その時の快感が忘れられなくなる。人を騙すことがこんなに快感を覚えるものとは、経験するまで信じられなかった。金儲けの度合いも違うが、あの快感をもう一度味わいたい、そう思うことがよくある」
盗みと詐欺、犯罪の種類こそ違うが、二人に共通するものは、再犯に対する誘惑だった。
ある夜、あっちゃんが加藤に言った。
「加藤さん、俺と一緒に盗みを働いてみないか。どうしても盗みに入りたい家があるんだ。だが俺一人では難しい。加藤さん、付き合ってくれないか」
「俺は盗みをやったことがない。あっちゃんの足手まといになるだけだ」
「加藤さんは見張りをしてくれれば、それでいい。俺が全部やる。だから頼むよ」
「しかし――」
「豊中市に住む、兼平剛四郎という男の家だ。金融業を営んでいて、かなりあくどい商売をやっている。俺の両親も俺が幼い頃、兼平に金を借りて、返せなくなり追い込まれて自殺をしている。いつかあいつの家をと考えてきたが、警戒が厳しくて難しかった。常にボディガードが付いていて、家の周りの警備も万全だ。刑務所にいる時も、釈放されてからも、俺はずっと兼平のことを考えていた。家の間取りや金庫の場所、家人の構成もすべて調査ずみだ。しかし、どんな場所でも完璧などあり得ない。24時間、警備は万全だが、夜中の二時から三時、ガードマンが交替して休憩を取ることが、最近になってわかった。盗みに入るとしたら、その瞬間だと思っている」
「しかし、そんな家ならセキュリティもしっかりしているし、たとえ警備の者が油断をしても簡単には行かないだろ」
「その通りだ。門を抜け、家の中に入り、たとえ、うまく入れたとしても金庫を開けることは容易ではない。ぐずぐずしていたら見つかってしまうし、見つかったらただでは済まない。兼平の後ろには暴力団がついている」
「難攻不落で危険なところに、どうして――」
「親の仇を討ちたいというのもあるが、泥棒としての俺の生活に、はっきりと区切りを付けるためにも必要なことなんだ」
「それで、いつ盗みに入ろうとしているんだ?」
「12月のクリスマスイブの日を狙っている。この日、兼平は高校生になったばかりの娘のためにパーティを開く。毎年、その日には老若男女、バラエティに富んだ客がたくさん集まって来る。当然、この日だけは警戒もゆるくなるし、客に紛れてパーティに参加できる可能性もある」
「客に紛れて? チェックが厳しいはずなのに、そんなことが可能なのか?」
「毎年、そのパーティに呼ばれている客の中に、木元健吉という男がいる。今は足を洗って実業家になっているが、昔の俺の盗みの師匠ともいえる人物だ。その木元に頼んで客に加えてもらうことは可能だ」
「その木元という男に怪しまれないか?」
「一度でいいから、そんなパーティに出席したいと言えば、気のいい男だから自分のメンバーとして加えてくれる可能性は高い。もし、怪しまれても、木元は俺を売ったりしない。木元と俺は何度も危ない橋を渡って来た間柄だ。木元の罪を被って刑務所に入ったことも一度や二度じゃない。だから、おそらく大丈夫だ」
「俺はあっちゃんと違って素人だ。馬脚を現す可能性も高い。あっちゃんの足を引っ張って、盗みが不成功に終わってしまうかも知れないじゃないか」
「クリスマスイブのその日まで、まだ十分時間がある。その間にしっかりと準備しておこう。そうすれば大丈夫だ」
その日からほとんど毎夜、加藤とあっちゃんは、えびす亭で計画を練ることになった。当初は躊躇していた加藤だったが、あっちゃんの熱意に負けて、また、あっちゃんの手助けがしたくて、盗みを手伝うことにした。
加藤とあっちゃんの話をえびす亭では、誰も気に留めるものなどいない。ここでは人の会話に耳をそばだてる者など誰一人としておらず、二人にとって、もっとも安全な作戦場所と言えた。
クリスマスイブまで二カ月ほどあった。あっちゃんは、万全で周到な準備を旨としていて、二カ月でも足りないぐらいの忙しさだった。その間、加藤は金属加工の工員として働き、あっちゃんの手助けをした。
12月に入ってすぐに木元から、パーティに木元のメンバーとして参加できることになったと連絡が入った。
イブのその日まで、さらに作戦が練られ、えびす亭で顔を合わせる頻度が増した。
12月24日当日、加藤とあっちゃんは木元と共に午後五時に兼平邸に入った。百人余が参加する盛大で豪華なパーティである。加藤たちが邸に入った時、すでに邸内は多くの参加者で賑わっていた。
「警備が半端じゃないな。思っていた以上に厳しいぞ」
あっちゃんが小声で加藤の耳元で囁くように言う。数十人のガードマンが、それぞれの場所に配置され、立っていた。
兼平邸の玄関口に近い大きなロビーに立食パーティの準備が用意され、ステージに『クリスマスパーティ』の文字が踊っていた。
「思った通り、家の中に入らせないようにしているな」
会場を見渡しながらあっちゃんが言った。豪勢な兼平邸の一部分を使ってのパーティである。パーティ会場以外の部屋には入れないよう、ガードマンが設置され、常に見張っている。
「これでは金庫までたどり着くのは難しいなあ」
加藤がため息交じりに言うと、あっちゃんが、ニヤリと笑って、
「大丈夫だ。厳戒態勢というのは、案外、隙があるものだ」
と答えた。
兼平の高校生になるという娘が、白雪姫のような白いドレスに身を包み、ステージに立つと、娘の周りをサンタクロースに扮した男たち四人が取り囲んだ。男たちは、この日に雇われた有名な歌手の人気グループのようで、やがてクリスマスの曲に乗り、娘の周りを回るようにして踊り始めた。
娘が主役のパーティのようで、娘は終始ステージで、集まった人たちに笑顔を送っている。踊りが終わると、司会者が登場し、兼平剛四郎を紹介し、「メリー・クリスマス」の掛け声と共に、パーティの始まりを告げる乾杯が行われた。
パーティは二時間の予定で、午後七時過ぎには散会になる。それまでに果たして盗み終えることが出来るのか、加藤は不安な面持ちであっちゃんを見つめた。
ステージに次々と有名人が現れ、歌やスピーチに華が咲く。豪華な立食に舌つづみを打ちながら歓談する人々、一時間もするとパーティ会場の雰囲気が和やかになり、人の動きが雑多になった。
「加藤さん、動くぞ」
あっちゃんが小声で加藤に告げた。加藤が緊張した面持ちであっちゃんを見る。あっちゃんが加藤を誘って庭に出た。会場を離れて庭で呑み食いする人がちらほら目立つ中を加藤とあっちゃんがゆっくりと歩を進める。
「庭に出てどこへ?」
加藤の問いにあっちゃんは黙したまま答えない。しばらく歩くと、ガードマンが二人、立っているところに出くわした。
「ここから先はご遠慮ください」
二人のガードマンに立ち入りを禁止されたあっちゃんは歩みを止めてガードマンに尋ねる。
「すぐその先に池があるでしょ。その池まで行かせてもらえませんか?」
「池に何の用ですか?」
「私、鯉が大好きでしてね。兼平家の鯉は大きくてきれいだと評判を窺っていまして、この機会に是非とも拝見したいと思ったもので――」
「ここより先は立ち入りを禁止されています」
ガードマン二人は譲らない。
「ここから数歩の場所じゃないですか。こういう機会は滅多にないので、何とかお願いできませんか」
あっちゃんが粘ると、ガードマン二人が互いに顔を合わせ、次第に「まあ、いいか」といった顔つきになって来た。
「じゃあ、池で鯉を見るただけですよ。いいですね」
念を押して二人を通した。
「ありがとうございます。兼平家の鯉を見ることができるなんて夢のようです。他にはどこへも行きませんので、ゆっくりと鯉を拝見させてください」
「どこへも行かないように」
再び念を押すように言って、ガードマンは庭にたむろする人びとを注視した。
あっちゃんと加藤は池の淵に立つ。池から少し離れた場所に小窓があった。それを見て、あっちゃんは加藤に言った。
「十五分ほどでここへ帰って来ます。それまで加藤さんはここで鯉を眺めるしぐさをしていてください」
「あの窓から入るのですか?」
兼平家の内部を熟知しているあっちゃんは、小さく頷いた。
「あの小窓は、ガードマンたちから死角になっています。小窓を開けるのは簡単です。家の内部の人たちが全員、パーティ会場にいることはすでに確認していますから、中へ入れば、金庫室へ入るのは難しいことではありません。問題は金庫室をどうやって開けるかですが、調査で、兼平家の金庫はダイヤル式であることは調べ済みです。金庫のダイヤルを開けるのは決して簡単ではありませんが、この二カ月ほどダイヤルの法則を学び、鍛錬して来ましたので、何とかなるでしょう」
そう言って、あっちゃんはやすやすと小窓を開けて中へ侵入した。
ガードマンが時折、加藤の方を見る。加藤は、さも、あっちゃんが一緒にいるかのように装って、池を見つめた。それを見て、ガードマンは安堵したような顔で再び庭に目を向けた。
――十五分で戻って来るとあっちゃんは言った。
その十五分が近づいていた。すると、十五分きっかりに小窓が開き、あっちゃんが顔を覗かせた。あっちゃんは器用に小窓をすり抜けると、ガードマンの目を盗むようにして加藤に近付いた。
「どうでした?」
安堵の表情を浮かべながら加藤が尋ねた。あっちゃんは背中に背負った袋を加藤の前に差し出し、「成功だ」と言った。
「ありがとうございます。いい目の保養になりました」
ガードマンにあっちゃんがお礼を言うと、二人のガードマンは小さく頷いて加藤とあっちゃんを庭に通した。
戦利品を入れた袋は、あっちゃんと加藤の内ポケットの中にあった。ガードマンはそれには気付かず、二人を見送った。
パーティは終盤に近付いていた。お土産を手にして帰る人もちらほら見かける。加藤とあっちゃんもそれにならって、早めに兼平邸を出ようとした。
その時、突然、開門していた門の前に数人のガードマンが立ち並び、門が閉じられた。
「お帰りになられようとする皆様、申し訳ありませんがしばらくの間、お待ちください」
司会がアナウンスし、帰宅しようとする客の足を止めた。
――ばれたか。
あっちゃんの顔が微妙に歪んだ。
「只今、当家の金庫室が盗難に遭い、金品が盗まれました。つきましては、まことに申し訳ありませんが、お帰りになられる皆様方、それぞれに身体検査をさせていただきます」
あっちゃんが、小声で加藤に言う。
「加藤さん、盗みには成功したが、完全犯罪とは行かなかったようだ。加藤さんの懐にあるものを私に返してください。そうすれば加藤さんは無事に外に出ることができる」
「それはいけない。捕まる時は一緒だ。私もそのぐらいの覚悟はできている」
あっちゃんは、加藤の懐にあるものを無理やり奪い取ると、自分のポケットに納め、
「私が無事に外へ脱出することができたら、これはその時、加藤さんに返します。それまでこれはお預けだ」
と、笑って言い、加藤のそばを勢いよく離れた。
加藤は仕方なく、あっちゃんの無事を祈りながら、念入りな身体検査を受けて外へ出た。
兼平家を後にし、駅に近付いたところで加藤はあっちゃんを待った。あっちゃんは無事、逃げおおせたのだろうか……。
――やはり、あっちゃんが拒んでも行動を共にするべきだったのでは。
後悔の念が先に立ち、待ち続ける加藤の心を暗くした。
結局、加藤は駅の近くのその場所で、あっちゃんの帰りを三時間近く待ったが、とうとう、あっちゃんは戻って来なかった。
翌朝、加藤は金属工場へ出勤し、工場でいつものように働いていると、先輩工員の矢島が声をかけてきた。
「加藤、朝のニュースを見たか?」
テレビを持たない加藤が首を振ると、矢島が言葉を続けた。
「えびす亭で、あんたとよく話していたあっちゃんが捕まったよ。何でも、兼平という家のクリスマスパーティに出席して、パーティのどさくさに紛れて盗みを働いて、捕まったらしい」
加藤は、顔を青くして矢島の話を聞いていた。ショックがありありと伝わる表情だった。
「これまでにもたくさんの盗みを働いていて、余罪がたくさんあるらしい。この分だと、かなり長い間、刑務所の中で暮らさないといけないようだ」
「そうですか……」
加藤はそれだけ答えるのが精一杯だった。
加藤がホームレスになったのは、それからしばらくしてからのことだ。あっちゃんへの悔悟の気持ちと、警察に出頭する勇気を持てなかったことが加藤を苦しめ、とうとう働けなくなって、金属工場を退職した。
借りていたアパートの支払いが出来なくなり、どこにも行き場のなくなった加藤は、そのまま路上で暮らす人となった。あちこちをさ迷い歩き、放浪するうちに、彼は他のホームレス仲間から、「広島」と呼ばれるようになった。ホームレスは誰も本当の名前を名乗ろうとしない。唯一語るのは出身地だけだ。従ってホームレスは互いの名前を出身地の名前で呼び合う。加藤の名前も、それで「広島」となった。
――死にたい。でも、死ぬことができない。
そんな苦悩の中で、いつしか加藤はえびす亭の前にいた。見知った顔がガラス戸の向こうにいた。その中には矢島もいた。唯一、あっちゃんだけがいない。
普通は、誰もホームレスの存在など気にも留めない。だが、えびす亭の住人は違った。最初に気付いたのは、矢島だった。
「あのホームレス、加藤じゃないか」
「まさか――」
「いや、絶対、加藤だ」
そう言い張ってガラス戸を開けた矢島は、えびす亭から少し離れた路地に立ち、真黒に汚れた衣服に身を包み、垢だらけの顔にぼうぼうの髭が伸びたホームレスに声をかけた。
「加藤、加藤だろ? おまえ」
そう言いながら、矢島が温かい熱燗した日本酒をホームレスに差し出した。ホームレスは、それを受け取っていいものかどうか、一瞬、躊躇した後、そっと垢にまみれた手を差し出し、温かな酒を手にした。
「加藤、加藤、俺が社長に話してやる。戻って来い。また一緒に働こう」
矢島とホームレスの会話をえびす亭の住人がガラス戸を開けて覗いている。
「えびす亭でまた呑もうや」
加藤には、その顔がそう言っているように見えた。
<了>
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