志乃

高瀬甚太
後編

「いらっしゃい」
マスターの威勢のいい声が飛び、
「何しまひょ」
とオーダーを聞く声が響いた。店は相変わらず満杯であったが、志乃は三人並んでカウンターに立つと、まず湯豆腐を注文した。
舌の肥えた定吉の口に合うかどうか心配したが、定吉は、湯豆腐を一口、口にするなり、「いい味出してますなぁ」と驚きの声を上げた。
おでんのダシが詰まった下町風の湯豆腐は、定吉に、昔を懐かしく思い出させたようだ。
「子供の頃、父親がよく呑み屋に連れて行ってくれましてね。そこで食べた湯豆腐の味を思い出しました」
定吉の妻もまた、湯豆腐を口にして、
「あなたの料理は上品で美味しいけど、ここの湯豆腐も野性味があって美味しい」
と口をほころばせて言った。
志乃は、二人のために次々と料理を注文した。所詮、立ち呑み店の料理である。大したものではないはずなのに、時として美味しく感じる時がある。定吉夫婦は、寿司を食べて、空腹ではなかったはずなのに、珍しくたくさんの料理を平らげた。
「ねえちゃん、また来たんか。生姜の天ぷら、食べたか」
店に入ってきた客が、志乃を見つけて言った。先日の前歯が抜け、頭の禿げあがったおっちゃんであった。
「食べました。美味しかったですよ」
と志乃が答えると、おっちゃんは、
「そやろそやろ」
と皺の多い顔に笑顔を浮かべて言い、
「そやけどこれは食べてないやろ」
と言って、明太子スパを志乃の前に差し出した。
「食べてません」
と志乃が言うと、おっちゃんは嬉しそうな顔をして、
「プレゼントや。食べてみなはれ」
と言って、明太子スパを進める。
スパゲティに明太子をまぶしただけの、とても料理とは言えないような代物であった。仕方なく、明太子スパに箸を入れた志乃は、一口食べて、美味しい! と唸った。
「そやろそやろ」
おっちゃんが作ったわけではないのに、自分が作った料理のように喜ぶおっちゃんを見て、志乃は何だかとても楽しい気分になった。
その夜、定吉夫婦と志乃は、えびす亭で呑み、食べ、客と話し、数時間、楽しい時間を過ごして店を出た。
定吉夫婦と別れて家に戻った志乃は、鍵を開けようとしたところで、背後から男に呼び止められた。
「志乃!」
名前を呼ばれて振り返ると、青ざめた顔の清二が立っていた。
「何しに来たの? 帰ってよ」
突っぱねるようにして志乃が言うと、清二は、
「女房と別れてきた。俺と一緒になってくれ」
と言う。しかし、志乃はそれには答えず、ドアの鍵を開けて中へ入ろうとした。
「志乃、頼む。俺ともう一度よりを戻してくれ」
中へ入ろうとする志乃の腕を掴んで清二がすがるようにして言う。
それを拒否するようにして、清二の腕を振り払い、部屋へ足を踏み入れた瞬間、志乃は腹部に鈍い衝撃を受けた。
振り返ると、血の付いた包丁を手に清二が呆然とした顔で立っていた。志乃が意識を失ったのはその直後だった。
目覚めると、志乃は病室のベッドに横たわっていた。駆けつけた定吉夫婦が心配そうにベッドのそばに立っている。
「志乃さんの悲鳴を聞いて、隣りの人が救急車を呼んでくれ、すぐに病院へ運ばれたので助かりました。出血はひどかったようですが、傷は内臓に達していなかったので、二週間ほどの入院で済みそうです」
定吉は、医師に聞いた話を志乃に話して聞かせ、
「清二は、あの後、奥さんに連れられて警察へ自首しましたよ。もう二度と志乃さんの前に現れることはないでしょう」
と言って、志乃を安心させた。
店は、志乃が入院している間、定吉夫婦が営業してくれることになった。幸い、手術の後の経過が良く、退院が予定より少し早まりそうだと医師は志乃に告げた。
清二の妻が病院に現れたのは入院して一週間後のことだ。志乃は、清二の妻が現れたことに驚いた。清二の妻は、平謝りに謝り、志乃のその後の経過を心配した。
「大丈夫ですよ。二週間の予定だったけれど、後、二日ほどで退院できそうです」
志乃の言葉を聞いて、清二の妻はほっと胸を撫で下ろした。
「本当に驚きました。夜遅く、家に帰って来た夫の手に包丁が握られていて、服にもべったり血が付いていました。どうしたの!? と問いただすと、志乃さんを刺したと言うではありませんか。夫と一緒に警察へ行き、自首させた後、警察に急いで志乃さんの様子を見に行ってほしいと頼みました。警察が志乃さんの家に行くと、すでに病院へ運ばれていて、志乃さんはいなかったとのことでした。もしかしたら死んだのではないかと、心配していました。助かって本当によかったです」
清二の妻は、志乃の前で大粒の涙を流し、再び詫びた。その様子を見て、清二は奥さんと別れたわけではなかったのだと知った。志乃は、清二に対して、今は何もなかった。愛も憎しみもすでに当の昔に消え失せ、共に暮らした日々が遠い昔に思えるほどだった。
十日後、志乃は退院した。定吉夫婦が病院まで迎えに来てくれて、その日から志乃は、店に出た。傷はすっかり癒えていた。定吉はずいぶん心配して、しばらく妻を助っ人に出すと約束した。
退院してしばらくすると、志乃は急に『えびす亭』を懐かしく思うようになった。休日を待ちかねて、志乃は街に出ると、『えびす亭』を覗いた。相変わらず客の多い立ち呑み店だった。店に入ると、いきなり大声で迎えられたので志乃は驚いた。
「ねえさん、大丈夫でっか?」
志乃が刺されたニュースは新聞、テレビなどで報道されていた。それで心配していたのだろう。前歯の抜けた前頭部が禿げあがったおっちゃんこそいなかったが、えびす亭の面々とはすでに顔なじみになっていた。
「おおきに。でも、もう大丈夫です。お酒も呑めるし、食べ物だって大丈夫です」
志乃が笑顔でそう言うと、一人の客が、
「マスター、姉さんの全快祝いや。ビール一本差し上げて」
とオーダーする。負けじと隣の客も、
「マスター、姉さんに生姜の天ぷら」
と声を飛ばす。
「わしも、姉さんに湯豆腐一丁!」
次々と声が飛んだ。
志乃は思った。次の恋人は、えびす亭に二人で来れる気のいい人を選びたいと――。
<了>

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