神々の最終戦争
高瀬甚太
井森公平の友人に吉永孝明と言う人物がいる。カメラが好きで、休日になると遠出をして撮影に出かけることを常としていた。春先になると、心が躍ってじっとしておれないのか、休日はほとんど大阪にはおらず、ずっと旅に出ている。そんな彼から井森の元に久しぶりに連絡がきた。三月も終わりに近づいた金曜日の夜のことだ。
「井森、最近どうだ。忙しいか?」
いい奴なのだが、井森は彼の上から目線が気に入らない。
「おかげさまで忙しくしているよ」
つっけんどんに言うと、吉永は慌てて、
「いやね、もし、時間があれば、今度の日曜、こっちへ来ないかと思ってね」
と下手に出た。
「日曜ねえ、場所によったら行ってやってもいいぞ」
「そうか。それは嬉しい」
「ところで場所はどこなんだ?」
尋ねると、吉永は、「熊野の山の中にいる」という。
「熊野の山の中?」
聞き直すと、吉永は、
「そうだ。今度の日曜、ここで変わった祭がある。それを見に来ないかと思ってね」
と場所の説明をせずに行事の説明をした。それを聞いて興味が湧いたので井森は即座に行くと答えた。
JR天王寺駅から特急くろしおに乗って、2時間弱でT駅に到着する。吉永が迎えに来てくれる約束になっていたが、改札口には吉永の姿はなかった。
昔からほとんど変わっていないように思われる木造の旧い駅であった。売店が一つと、小さな食堂が構内にあった。木製のベンチがいくつか並び、老人たちが数人、世間話でもしているのだろう、背中を丸めて座っていた。
駅を出るとバスやタクシー乗り場のロータリーがあった。しかし、バスもタクシーも退屈げに止まっているだけで、乗客の姿が見当たらない。風が頬を過って行くのを気持ちよく感じながら、井森がぼんやり突っ立っていると、背後から名前を呼ばれた。振り返ると、カメラバッグを肩に担いだ吉永がいた。
「悪い、遅れてしまった」
簡単に謝って、吉永は、井森に車に乗るよう促した。
川沿いに山に向かう坂道を上った。舗装された螺旋状の道路を登って行くと、途中でさらに険しい登りになり、道が急に狭まった。対向車はほとんどおらず、後ろからくる車も見当たらなかった。
「熊野の山間には隠れ里がいくつか存在するんだよ」
吉永が車を運転しながら言った。
「隠れ里? こんな時代に隠れ里なんて……」
吉永が冗談を言っているのだと思い、井森は思わず笑った。
「俺も最初は信じなかった。でも、本当にあったんだ」
吉永の表情は嘘や冗談を言っている顔ではなかった。第一、彼は真面目すぎるほど真面目な男で、冗談の一つも言えない男だ。井森は聞き直した。
「どういうことなんだ。隠れ里って」
「歴史というのは、時には世間と大きな壁を作る場合がある。これから向かうところもそんな村の一つだ。自分たちの歴史、過去にこだわって、他者を寄せ付けない。自分たちが日本人であるということも県民であるという認識さえ持っていない不思議な民族がそこに住んでいる」
井森はまた笑った。二十一世紀、令和の時代である。そんな時代に、そのような村が存在するはずがない。第一、電気、ガス、水道はどうしているのだ。戸籍だって必要だろうし、学校だって行くだろう。井森はそんなふうなことを吉永に言った。
「お前の言う通りだよ。俺も最初は信じなかった。だが、俺は間違ってその村に潜り込んでしまった」
「間違ってというのはどういうことなんだ?」
「春の木々を映し出そうとして、カメラを持って山中を徘徊しているうちにその村の中に入ってしまったんだ」
吉永は、ハンドルを大きく切ると、深い山間に分け入った。まるでけもの道のような道を、吉永の運転する車が蛇行しながら登って行く。
「こんな山道をよく登れるなぁ」
感心して言うと、吉永は、
「三週間もこの地に滞在していると、慣れてきて、こんな山道でも登れるようになる」
とひとり言のように言った。
「三週間? お前、三週間もここにいるのか?」
井森が驚いて吉永を見ると、吉永は、平然として、
「ここでの三週間は、平地での三カ月に匹敵するほど長いぞ」
と言った。
「そんなに退屈に感じるなら、早くここから去ればよかったのに」
「それがそうもできなくて――。それでお前を呼んだんだよ」
吉永の話がすぐには理解できず、井森が首をひねっていると、突然、吉永が、
「着いたぞ」と言う。
車が停車し、周囲を見渡すと、何の変哲もない村があった。
盆地になった村の中心から、段々畑が続いていて、そこに家が点在する。昔からこの地方でよくみられる風景だ。
「普通の村じゃないか」
車を降りた井森が周囲を見渡しながら言うと、吉永は、
「俺も最初はそう思ったんだ。でも、もう少ししたらわかる、普通じゃないことが――」
吉永が意味ありげに言うのを聞きながら井森がなおも周囲を見渡していると、背後から声がした。振り返ると、白いひげが目立つ老人が立っていて、すごい形相で井森を睨みつけた。
驚いた井森が、慌てて「こんにちは」と挨拶をすると、老人は吉永を見て言った。
「この人かね。井森編集長というのは?」
吉永は、「そうです」と答え、井森に名前を名乗るように言った。
「井森公平です」と名乗ると、老人は、井森を見つめたまま指笛を吹いた。空気を切り裂くような、鳥が鳴くような鋭い指笛の音が鳴り響くと、あっという間に何人もの人が寄り集まって来た。
すべて老人ばかりであった。男女併せて五十人、いや、もっといただろうか。衣服は誰もが絣の着物を着ていて、明治か大正、昭和初期の人間がそのままそこへ現れたような錯覚を感じてしまうほど時代ずれした装いだった。
「吉永さんにお聴きになったと思うが、明日から三日間、この村は祭を行う。吉永さんを通じて、あなたをここへお呼びしたのは、この村の祭の記録を残してもらうためじゃ。この村は安土桃山時代より、独立独歩で歩んできた村で、世情の煩わしいことを一切無視して、自分たちの力だけで生きてきた。最盛期は一千人近くいた村人も、一人離れ二人離れ、今はここにおる人間だけになってしまった」
いったい何歳なのだろうか。年齢を超越したものを感じさせる白髭の老人は、矍鑠とした物言いで井森に話しかけると、「こちらへ来て下され」と言って、井森と吉永を村の中枢に案内した。
「おい、この村の人間はどこかおかしいんじゃないか。安土桃山の時代からなんて言っているが、四百年以上前のことだぞ」
井森が吉永に話しかけると、それが聞こえたのか、老人が立ち止まって、井森に言った。
「安土桃山時代は、織田信長の居城であった安土城と、豊臣秀吉の居城であった伏見城から取って、そう呼ばれた。安土桃山時代の終期、豊臣秀吉が死去した後、伏見城に住んでいた家臣と町の衆、農民が伏見の地を離れ、この地に移り住み、豊臣復興を願って隠れ住んだ。それが今の時代までずっと続いているのじゃ」
にわかには信じがたい言葉だった。しかし、老人の話には妙な説得力があった。
「こうした山岳地帯で、しかも周囲と隔絶した場所であったため、滅多に人も訪れないし、近づかない。また、人が近づかないような仕掛けを作り、外部からの侵入者を防いできた。わしたち村人は、わしたちだけの生活文化を構築し、ずっと平和に幸せに暮らしてきた。だが、それも戦前までだった。戦後の近代化の波がこの土地まで押し寄せ、瞬く間に暮らし向きが変わり、四百年近く守って来た村の生活が一瞬にして崩壊した。
残ったのはわしたち老人だけじゃ。後の者は、都市部に移り住み、ここでの暮らしのすべてを忘れてしまった」
老人が案内してくれた家は、木造の手作りであったが、その建築様式は、見事に書院造を模していた。天下統一を果たした豊臣秀吉は、高貴な客を応接したり、高位の主人が来客を迎えて接待する対面儀礼を大切にした。角柱を用い、部屋に畳を敷きつめ、杉戸・襖・障子などの建具を用いることを特色とした当時としては画期的な建築であったが、老人の住まいはそれを見事に踏襲していた。中でも、中央の柱列によって南北が区画され、多数の人間を収容しうる大広間の存在は、目を見張るばかりの広さであった。
「明日から三日間、この広間に村人全員が集まり、一緒に寝起きして祭を行う。村人にとっておそらく最後の祭になるであろうこの祭を後世に残したい。その想いもあって、あなたをお呼びした次第じゃ」
「最後の祭――、いったいどういうことですか?」
疑問に思って井森が尋ねると、老人は、しばらく沈黙した後、
「祭が終わればわかります」
とだけ言い、集まった村人たちに、
「それでは皆さん、明日、よろしくお願いします」
と大きな声で挨拶をし、井森と吉永を別室に案内して、老人は家の奥の方へと去った。
吉永は、先ほどからずっと黙ってカメラをいじっていた。
「祭というが、いったいどんな祭なんだ」
井森が吉永に尋ねると、吉永は、
「祭というのは、感謝や祈り、慰霊のために神仏や祖先をまつる儀式だ。世間と隔絶して生きてきた村人たちがどんな祭をするか、非常に興味があってね。それをカメラに捉えるのが俺の役目で、その記録を文章に残すのが井森、お前の役目だ」
吉永は平然として言うが、井森には、なぜわざわざ自分を呼ばなければならなかったのか、村人たちの意図がまるでわからなかった。
また、世間と隔絶した生活と吉永は口にしていたが、建物はともかくとして、生活ぶりは他の一般社会と何ら変わりないように思えた。日本の過疎地でよく見かける光景、井森は村をそのように捉えていた。
だが、夕方になって陽が落ちると、世間と隔絶している、と言った吉永の言葉の意味がよくわかった。
電灯は電気ではなく、菜種油を使った行燈だけで、ご飯は電気炊飯器ではなく釜戸を使って炊き上げたものだった。もちろんテレビやラジオの類は一切なく、家電製品など何も見当たらなかった。風呂さえも薪で炊く五右衛門風呂で、その生活は明治、いや江戸時代のものと大差ないように思えた。
「驚いたなあ、今時、こんな生活があるなんて――」
井森が呆れたように言うと、吉永が言った。
「俺が言った、ここでの三週間は、平地での三カ月ほどに感じるといった意味がわかるだろう。何もない生活は、時間が恐ろしいほど長く感じる。しかし、文明の利器がない生活は、人の心も体も癒してくれるということがよくわかったよ。俺は、何もない自然の中の生活がこれほど素晴らしいものだということをここへ来て初めて知った」
吉永は感慨深げにそう語った。確かにそうかもしれないと思った。ここでは、陽が落ちると眠るしかない。陽が昇れば起きる。谷川や山から湧き出る水を汲み、釜戸でご飯を炊く。土地を耕し、そこで育てたものを食べる。自給自足の生活だ。
「最初は退屈極まりないと思い、逃げ出そうと考えたよ。でも、数日、この土地で暮らしているうちに、考えが変わった。三日、ここで生活をすると、体の毒がスッと抜けていく。頭の中のもやもやしていたものがすべて消えて、すっきりして――。そうすると、カメラのレンズの向こうに見えていた被写体の姿も変わって来た。自然の生き生きとした姿が俺のレンズに映るようになったんだ」
吉永の感動がこちらまで伝わってくるように井森は思った。その夜、井森は午後7時には床に就き、30分後には深い眠りに就いた。
朝、日の出を肌に感じて目を覚まし、庭に出ると、鳥のさえずる声、草花の息吹を五感で感じることができた。井戸の水を汲み、顔を洗うと、勢いよく目が覚めた。
午前6時半、村人たちが集まって来た。吉永もすでに起きていて、祭の一部始終を取るために真剣な表情でカメラの手入れを行っている。井森もまた祭の記録を残すため、村人たちの一挙手一投足を余すところなく観察した。
集まった村人たちが、広間に集まり、衣服を着替え始めた。絣の着物を脱ぎ棄てた老人たちは、褌一丁になり、その裸の体に濃い塗料を使って、それぞれ交互にペインティングを始めた。それは絵ではなく、文字だった。般若心経のような文字を体中、書き殴り、全体を書き終えたところで、村人たちは、井森と吉永にも裸になれと言った。
「自分たちと同じにしておかなければ襲われる」
と言うのだ。
また、村人たちは口々に、
「今日から三日間、最終戦争が始まる!」
と大きな声で語った。
最終戦争? 老人たちの言葉の意味がわからず井森はただ、唖然とした。
白髭の老人が現れた。老人もまた上半身裸になって、体全体にペインティングをしている。いったい何が始まるのか、井森もまた、村人たちと同じ姿でいた。
この祭は、戦いの祭だと、老人は村人たちを前に鼓舞するように言った。
三十数人の村人が、村の奥に建つ神社に向かって、大きな松明を抱えて歩いて行く。
「決して火を落とすな」
「何としてもこの松明を奉納しなければならん」
「声がしても振り向くな!」
松明を抱えて歩きながら、村人たちが声を合わせる。吉永がその行進の様子をカメラに抑える。井森は、村人たちと行進を共にしながら、村人に言葉を併せた。
先頭を歩くのは白髭の老人だ。
神社までの距離は約10キロ、その間、村人たちは同じ言葉を繰り返し叫び、列を崩すことなく行進する。
吉永のカメラのシャッター音がひっきりなしに聞こえる。しかし、鳥の声は聞こえない。山の木々のざわめく音だけが響く――。
神社が近づくに従って、村人たちの顔に緊張が走った。小さな祠の小さな神社が正面に見えてきた。あの神社のどこにこの大きな松明を奉納するというのか、疑問に思っていると、神社の手前、数メートルのところまで来たところで、村人たちの行進がピタッと止まった。
白髭の老人が、村人たちを振り返って言う。
「これより松明を奉納する。火を消さないように、声をかけられても振り向かないようにしっかり前を向いて奉納するのだ、いいな!」
白髭の老人の檄が飛ぶと、村人たちは松明を掲げ、一斉に、
「オーッ」
と歓声を上げた。井森もまた、村人に負けじと大声を上げた。
快晴の空がにわかに変化したのはちょうどそんな時だ。空に雲が走り、澄み渡った空が怪しく曇り始めた。木々のざわめきが激しくなり、風の勢いも強まった。
やがて曇った空は雨を呼び、雨粒が激しく大地を叩き始めた。それと同時に村人たちの足が前へ進まなくなった。松明の火を消さないように、村人たちが必死で守る。その姿が異様だった。松明を雨からカバーしようとするのではなく、祈りで火を消さないようにしているのだ。そのため、村人たちは雨に打たれながらも必死の形相で天に向かって祈り続けた。
鋭い雨粒が大地を打ち、村人たちを激しく打ち付けたのもほんの一瞬の出来事だった。雨はアッと言う間に上がり、村人たちはそれを待って、再び行進を開始した。
松明の火は護られた。
神社の境内に足を踏み入れると、カーッと周囲が明るくなり、太陽の日差しが一気に差し込んできた。玉砂利の道の正面に祠があった。距離にすると十数メートルといったところだろうか、それでも、村人たちの足取りは慎重だった。ゆっくりと歩を進めて行く。
風が凪ぎ、木々のざわめきも止んだ。静寂が辺りを襲い、村人たちもそれに併せるかのように沈黙を保って、ゆっくりと歩を進めた。
その時、井森たちが行進する背後から、静寂を破るようにして大きな叫び声が聞こえた。空気が引きちぎられるような叫び声に、驚いて井森が振り向こうとすると、村人の一人が強い力でそれを押しとどめた。哀切を誘う悲しい声が強烈に胸を打った。何という切ない声だろう。たまらず振り返った数人の村人は、驚愕の声を上げたまま、その場に突っ伏し、失神してしまった。
白髭の老人が怒りを込めた口調で祈りの言葉を口にした。それに追随するかのように、倒れずに残っている村人たちが松明を大きく掲げて祈った。井森もまたそれに併せて、村人たちと同じように祈りを捧げた。
しかし、祠を目の前にしながら、松明は空しく消えた。
理由も原因も一切わからなかった。ただ、忽然と松明が消え、放心した様子の村人たちが、その場に突っ伏し、大泣きに泣いている姿が井森には印象的に映った。
撮影に挑んでいた吉永は、途中で失神し、そのためかどうか、撮影した写真データは、ものの見事に白紙になっていた。
途中で失神し倒れた村人は十数人に上った。吉永もそうだったが、一度倒れた村人は体力的な消耗が激しく、二日目以降の祭への参加は難しいようだった。
白髭の老人の家の大広間に戻った村人たちは疲労困憊していた。井森もそうだった。なぜ、これほど疲れるのか、不思議で仕方がなかったが、重たい黒いものが体全体にのしかかってくる。そんな思いにずっと襲われ続けた。
「明日、俺の代わりに写真を撮ってくれないか。俺は多分、祭が終わるまで動けない」
吉永はそう言うと、愛用のカメラを井森に手渡した。吉永の疲労困憊ぶりはひどく、言葉を発するのさえ辛そうに見えた。井森は、吉永からカメラを預かると、わかったと言う言葉の代わりに、吉永の手を握った。しかし、吉永は、握り返す力も残っていないようで、そのまま眠りに就いた。
残った村人たちを前にして、老人が立った。
「もう少しのところまでたどり着いたのに残念だった。しかし、戦いに負けたわけではない。決着はまだついていない。初心に返って、明日、もう一度挑戦する。明後日、もう一日チャンスが残されているとはいえ、実質的に明日が最後の戦いと思ってくれ」
と白髭の老人は悲壮感を漂わせて檄を飛ばした。
白髭の老人の言葉が終わると、全員が大広間に横になった。井森もまた同じように横になると、すぐに寝息やいびきが聞こえ始め、しばらくすると井森も深い眠りに陥った。
朝方近く、夜明け前に目を覚ました井森は、村人たちを起こさないように注意をしながら床を出て、家の外に立った。
寂とした漆黒の闇の中に佇み、一人考えた。
松明を神社の祠に奉納するだけなのに、それを奉納させまいとする強い抵抗に遭った。あの激しい抵抗は何だったのだろうかと――。
これまで数多くの人智を超えたものに遭遇し、少々のことでは驚かなくなっていた井森だが、昨日のような事例は初めての体験だった。
雨、風など、自然の猛威も去ることながら、村人を振り向かせたあの声、あの叫び声、あれは、郷愁と哀切を含んだ、強烈に過去に誘う不思議な声だった。
四百数十年の歴史を数え、ひっそりとこの村で昔ながらの生活を送ってきたという老人たちは、何を思って独立独歩の生活を続けてきたのか。何を守り続けてきたのか。頑なに、他者との交流を避け、この村独特の歩みをしてきたのはなぜか。そこには必ず何か理由があるはずで、井森の思いをはるかに凌駕するものがそこにはあるはずだと思った。
ただ、戦うことに対する違和感は不思議となかった。人を貶めたり、人を攻撃するような戦いではなかったことが功を奏したのか、昨日の戦いは、むしろ自分との戦いがすべてであるように思えた。
――空が白み、周りが薄明るくなって、太陽が山間から立ち上って来た。
この日も、早朝から白髭の老人の檄の元、村人たちが決起した。井森はカメラを手に、メモを片手に、行進に追随した。
雨も降らず、風も吹かないまま、その日は順調に進行した。やがて神社の鳥居が見え、祠が正面に見えてきた。赤々と燃えたぎる松明を天にかざし、歩調を緩めることなく村人たちが神社に入ったその時、玉砂利が大きく動き、行進する村人たちの足が取られそうになった。それだけではない。神社に生える草が、その葉をスルスルと伸ばし、村人たちの足を掬ったのだ。
井森は、ふらつく足元を気にしながらも、必死になってシャッターを押し続けた。レンズで見るその光景は異様なものだった。動くはずのないものが動き、伸びるはずのないものが伸びる。そしてまた、あの声が聞こえてきた。
子守唄のような哀切を帯びた悲しい歌声が耳に届き、井森は思わず郷愁に襲われた。それは村人たちも同様であったようだ。
しかし、昨日と違っていたのは、誰も振り向かなかったことだ。松明を高く掲げたまま、村人たちは、動く玉砂利にも動じず、伸びてくる葉に足を取られても動じず、一心不乱に正面を見据えて、遅々とした歩みながらも少しずつ祠に近づいていた。
やがて効果がないと思ったのか、玉砂利が収まり、草の葉の動きも止まった。しかし、声だけはなおも執拗に流れ続け、それはさらに悲しみを帯びて胸に痛く響いた。
それでも今日の村人たちの奉納への意識は高かった。心を打つ歌声にポロポロと涙をこぼしながらも、ゆっくり、一歩ずつ祠に近づいて行く。松明はまだその火をしっかりと灯していた。
その時、突然、荒々しい物音がして、祠が大きく口を開いた。赤々とした口が、村人を、井森をも飲み込もうとしていた。しかし、白髭の老人も村人も微動だにせず、正面を見据え、松明の灯を高く掲げたまま立ち続けた。
天から激しい炎が降って来た。横殴りの風が小石を伴って、井森たちを打つ。井森の額が割れ、血が噴き出したが、不思議と痛みは感じなかった。焼け付くような炎に包まれても熱いといった感覚はなかった。井森は無心にカメラのシャッターを押し続け、村人たちの戦いを死にもの狂いでレンズに収めようとした。
白髭の老人の指揮の元、松明が荒々しく赤い口を開く祠の中に収められた。一つ、二つ、整然と松明が納められ、そのたびに祠がまるで生き物のように激しく暴れ狂った。やがて、すべての松明が納められたと同時に、祠が青い光を放って姿を消した。同時に神社そのものも姿を消し、辺り一面が森になった。
異様な光景であった。わけがわからないまま井森は、その瞬間をカメラに収めるようと必死になった。
白髭の老人が森の中にへたり込むようにして座り込むと、それに倣って、村人たちも同じように座り込んだ。いや、それだけではない。昨日の戦いで倒れて眠っているはずの村人たちもその場所に集まって来た。いや、いつの間にか、村人全員が集まり一つの輪になった。
柔らかな風が流れていた。誰も言葉を発せず、沈黙したまま時が過ぎた。井森は、写した写真のデータを吉永に渡すため、その場所を離れて白髭の老人の家に向かった。
家に着くと、吉永が縁側に座って井森を待っていた。吉永がカメラのデータを確認し、映っている写真を眺めた。すさまじい光景が納められた写真を見て、吉永が声を上げた。
――いつまで経っても老人たちや村人たちは帰って来なかった。日が暮れかかり、陽が落ちても誰も姿を見せなかった。
井森と吉永は、広間に床を敷き、しばらく白髭の老人や村人が帰って来るのを待ったが、いつしか深い眠りに陥った。
翌日は雨になった。激しい雨の音で目を覚まし、周りを見渡したが、やはり、村人たちの姿はなかった。どうしたのだろうかと、心配になった井森が、吉永と共に老人の家を出ようとした時、二人の警官がパトカーに乗って現れた。
警官は、井森たちを見て驚いて言った。
「どうしたんですか? こんなところで」
警官に言われて、その時、初めて井森は自分たちのいる場所が昨日とは打って変わった場所であることに気が付いた。
井森たちはいつの間にか、廃屋のような小屋の中にいたのだ。
――夢のような二日間だったと記憶している。
警察官に発見された井森たちは、疲労が激しかったため、病院に収容され、二日後に警察の事情聴取を受けた。
警察が、あの場所を訪れたのは、山奥で怪しい光を見た、という情報が、警察署に数件寄せられたことによる。情報を受けた警察が、報告のあった場所に到着すると、廃屋に井森と吉永がいた。そこで井森たちが怪しい光に関係していると思い、警察に連行した、というのが警察の説明だった。
井森は、この二日間のことを警察官に話して聞かせた。しかし、警察官は笑って信じなかった。信じないどころか、井森を疑った。山の中で何か、変な遊びをしていたのではないか、というのだ。二日間、山奥のその場所からいくつもの光が生じたことを多くの人が目撃していた。
村の話をしても、警察は信じなかった。
「あそこは昔も今も森林地帯で、家は木を束ねて置いておく、廃屋しかない。夢でも見ていたのではないか」
と言うのだ。
老人のこと、村人のこと、祭のこと――。決して夢ではない。夢であるはずがなかった。
詳細を話したが、警察は作り事だといって信用しようとしなかった。撮影した写真のことを思い出して、吉永のカメラを警察に提出した。
祭の一部始終を写し出していることは、吉永も確認している。あの写真データを見たら、警察も信用しないわけにはいかないだろう、そう思って見せたのだが、カメラのデータは全部白紙になっていて、何も映っていなかった。
結局、井森は警察署から体よく追い出され、大阪へ戻ることになった。
あの二日間が夢だとか、キツネに騙されたとかは断じて思わない。井森が体験した村人たちの戦争は、今も井森の目に鮮やかに残っている。
――帰阪して数日間、井森はあの村のことや祭のことを図書館に入り浸って調査した。
しかし、あの村の記述はどこにも掲載されていなかった。半ばあきらめていたところに、明治時代後期の書物で、迫田修一郎という民族研究家が書いた『神々の戦争』という本を見つけた。印刷状況も悪く、紙質も悪かったので読みづらいことこの上なかったが、それでも何とか読み取ることができた。
それによると、関ヶ原の戦いに敗れた伏見の住人が、熊野の山中に移り住み、隠れ里を作った――、井森が聞いた話と同じ記述がそこにあった。
しかし、熊野の神々は、京都伏見からやって来た京の神々を信仰する住人と相いれず、その戦いは、何年にも亘って続けられた。
『神々の戦争』と題されたその本には、京の神と熊野の神の戦いが、毎年、年に三日、激しく繰り広げられたと書かれてあった。戦いの様子もリアルに書かれていたが、それは、井森が体験したものそのままだった。
書の中で、京の神々は、毎年、熊野の神々に屈したとあったが、井森が体験した戦争では、京の神が松明を納め、勝利を収めていた。多分、あれが京の神の唯一無二で最期の勝利だったのかも知れない。井森を呼んだ目的は、多分、それを記録して欲しかったということではなかったか――。
ほどなくして井森は、あの熊野の山中での一部始終を原稿に書き表し、それを本にする企画を立てた。
タイトルは『神々の最終戦争』だ。完成したら、あの山に届けなければ、井森はそう思っていた。
〈了〉
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