世界一愛した女房の命日に

高瀬 甚太

 教師としての職業柄か、吉村彰浩は酒を呑みながら人を観察するのが大好きだった。
酒を呑みながら吉村はいつも思う。酒を呑むと人格が変わるやつもいるし、泣いたり笑ったり、怒ったりと、内面の隠れた性質が出る者も少なくないと。「えびす亭」のような立ち呑みの店ではそれが実に顕著だ。
 吉村は三十数年間、中学校の教師をしていて、定年を間近に控えた身だ。同窓会にも年に数回呼ばれ、そのたびに酒を呑み、酔っぱらった教え子たちから昔話を聞かされる。
 生徒たちが口を揃えて言うのは、
「先生はめっちゃ怖かった」
その一言だ。
 吉村は生徒に恐怖心を与える教師だった。怒鳴り、叱り、時には暴力をふるったこともある。厳しくしないと舐められる、教師になりたての頃はその思いが強く、厳しすぎてPTAで問題になったこともしばしばだった。
 年老いても一向にそのくせは直らず、校長や教育委員に度々注意され、そのたびに吉村は反発して、これまで幾度も職務停止を言い渡されたことがある。
 そんな吉村がえびす亭に通い始めたのは、長年付き添った最愛の妻に死なれてからのことだ。

 二十代の半ば頃から親に結婚を進められ、何度か見合いをしたが、強面の吉村は断られてばかりいた。見合いが三十回を超えた頃には、年齢が三十歳を超えていた。紹介者もさすがに呆れて、見合いの話がぐんと減った頃、出会ったのが妻の一二三だった。
 吉村は、一二三に出会った時、こいつと結婚するんじゃないかと予感したという。だが、その予感はあまりあてになるものではなかった。なぜなら、吉村はこれまで見合いのたびに見合い相手に結婚の予感を感じ続けてきたからだ。ずっと連戦連敗。それでも、吉村は懲りずない。一二三に出会った時、今度こそ、間違いないと思った。
 一二三は、見合いの間、恥ずかしそうにじっとうつむき、ほとんど顔を上げない女性だった。年齢は二十三歳と、吉村より七歳も若かった。小柄で可愛くて、愛嬌もあったのだが、気が弱く、そんな大人しさが表面ににじみ出ているような女性だった。しかも一二三は、今回が初めての見合いで、その緊張感もあって、ろくに吉村を見ていない。
 吉村は、小柄で可愛い容姿の一二三を見て、一目で気に入った。それでいつもよりずいぶん力が入っていた。教室で張り上げるような大きな声で一二三に迫り、授業中の迫力そのままに一二三を圧倒した。男性と交際したことのなかった一二三は、吉村の迫力に呑まれ、早くこの場から脱出したいと、そればかりを考えていた。
 吉村は、そんな一二三の反応に気付いていなかった。ただ、叔父から聞かされていた、「女は押しに弱い」の言葉だけを信じて、見合いの間、一二三を圧倒し、押して押して押しまくった。
 「私と結婚してください!」
 吉村が大声を張り上げてプロポーズした時、一二三はもう疲労困憊し、物を言う気力さえなかった。それほど、この日の吉村さんの迫力はものすごかった。
 何も答えず、ただうつむいている一二三を見て、吉村は、もうひと押しだ、後ひと押しすれば陥落する、そう思ったようだ。さらに大きな声で「結婚」「結婚」を連発した。街の小さな料亭での見合いだったが、そんな小さな部屋の中で、吉村が、「結婚」を連発する悲壮な声を、料亭中の人たち全員が耳にしている。
 一二三は、めまいと恐怖におびえ、その場から逃れたい一心で、「はい」と答えた。その声はあまりにも小さく、蚊のなくような声であったが、必死で「結婚」を連発する吉村の耳に届かないはずはなかった。
 吉村の歓喜に満ちた表情を見て、一二三は「しまった!」と思ったが、すでに後の祭りだった。前言を覆させることなどできそうにない、吉村の激しい狂瀾ぶりを見て、一二三は思わず気を失いそうになり、その場に倒れた。
結婚式は半年後と決まったが、吉村は不安で仕方がなかった。それまでに彼女の気持ちが変わってしまうことを恐れていたのだ。それで一日も早く結婚式を、と仲人に懇願したが、家同士の問題もあってそれはかなわなかった。
見合いが終わった後、正気に戻った一二三は、仲人に対して、何とか白紙に戻せないかと頼んだが、吉村の狂喜乱舞する様子を目撃していた仲人は、それはできないと冷たく一二三を突っぱねた。
 半年間、一二三は泣いて暮らし、やがて結婚式を迎えた。その間、一二三は吉村とは一度も顔を合わしていない。何度も吉村から誘われたが、一度として一二三は会おうとしなかった。一二三は恐れていたのだ。会って、その場で断ればどうなるか、吉村はどんな行動に出るか、それが怖かった。
 吉村は、一二三に会いたくて会いたくて仕方がなかったが、一二三は頑としてそれに応じなかった。一二三は、会うことを拒絶することで、吉村が自分の気持ちに気が付いてくれたらと、秘かな願望を抱いていた。だが、一二三との見合い以来、天にも昇る心地でいた吉村にそれは通じなかった。
 結婚式前夜、一二三は自殺を真剣に考えた。首をくくろうか、リストカットをしようか、飛び込み自殺、毒薬――、あらゆる方法を模索した。だが、どの方法も実行できないまま朝を迎え、両親、親戚に急き立てられるようにして、結婚式場に向かった。
 一二三の気持ちをまるで理解していない吉村は、白無垢衣装の一二三を見て、その美しさに絶叫し、号泣した。こんな美しい女性が自分の妻になるのだ、そう思うと、胸が震え、足が震え、涙が止まらなかった。
 一二三は吉村のそんな姿を見て、吉村の愛が真っすぐで真剣なことを感じ取り、祖母によく言われていた言葉をその時、思い出した。
 「女は愛されるのが一番、愛されて結婚することが真の幸せにつながるのよ」
 それまであまり吉村のことを観察していなかった一二三は、その時、初めて吉村を冷静に観察した。三十なのに十歳は老けて見える顔、強面で不細工という言葉しか形容できない顔の造り、下顎が出て、受け口で、目が小さくて鼻が団子鼻――。それでも、よく見ると飽きない顔をしている。何よりも、吉村は自分への思いをストレートに出す。それが一二三には珍しいことのように思えた。父も祖父も、あまり自分というものを出さない人だった。いつも冷静で沈着で、男性はみんなそうだと一二三は思ってきた。だが、吉村はどうだ。自分への愛がその表情、体全体ににじみ出ている。一二三は思わず笑った。
 結婚式も披露宴も無事に終わり、初夜を迎えたその夜、吉村は、ベッドの上でかしこまり、一二三に向かって言った。
 「今まで女にもてたことがないんです。ぼくにとって生涯、女性はあなた一人です。大切にしますから、どうか末永くよろしくお願いします」
 吉村に抱かれた一二三は、その温かさとやさしさを肌で感じ、信じられる人だと改めて思った。
 結婚生活は波風なく、順調に過ぎた。何よりも吉村はやさしかった。学校の授業では怒りをあらわにし、生徒に厳しく接するのに、家に帰れば真逆のやさしい亭主に変身する。吉村は一二三のために生きているようなところが見受けられ、そのやさしさは本物だった。
 一二三は料理も上手で、常に吉村の健康に留意した食事を用意した。子供にも恵まれ、三人の男女を得、吉村は一二三と共にこれ以上ない、幸福な年月を過ごしてきた。
 子供が幼い時は、子供と共に近くの公園を散策し、休日には家族で遊園地や動物園に出かけた。子供が大きくなってからは、二人でよく散歩をし、休日にはハイキングや温泉旅行を楽しんだ。ずっとこの幸せが永遠に続くと思われたが、ある日突然、その妻が倒れた。
 体調を崩し、病院の世話になるようになったのが一年前のことだ。乳がんを発症していて、手術をして腫瘍を取り除けば治るとのことだったが、手術後、すぐに転移が見つかって、急速に体調が悪化した。
 その間、吉村は必死になって一二三を看病した。だがその甲斐もなく、入院してわずか二か月目で一二三は呆気なくこの世を去った。
 享年五十歳、若すぎる死に吉村は気が動転し、しばらくは学校に出ることができなかった。
 悲しみは癒えることはなかったが、襲い来る寂しさもまたどうしようもなく辛いものだった。妻のいない家に一人でいることが吉村の気を滅入らせ、込み上げる悲しさに吉村は身も心もズタズタになった。
 家にいることに耐えられなくなり、ふらりと街に出た吉村は、目的もなくさ迷い歩くうちに、一軒の店に出会った。ガラス越しに楽しく酒を呑む男たちの姿が目に付き、興味を持った。
 吉村は酒はたしなむ程度で、家で晩酌することなどこれまで一度もなかった。もちろん立ち呑みなど経験したことがなかったが、雰囲気に誘われて、ふらりと店の中に入った。
 教師として生きてきた吉村は、これまでさまざまな生徒と出会ってきた。悪がきも多く、手を焼く生徒にもたくさん出会ってきた。成績のいい真面目な生徒もおれば、成績がまるで駄目な生徒もいた。いい生徒も悪い生徒も、吉村は一切区別することなく、接してきた。どの生徒にも等しく愛情を感じ、情熱を持って指導するのが吉村のやり方だった。
 えびす亭には、さまざまな人がいた。その人間臭さが吉村には魅力だった。教育現場に近いものを感じ、吉村はその店で、さまざまな客をウォッチングした。
 ここへやって来る人たちは、何の抵抗もなく自分をさらけ出す。そこに吉村は共感を抱いた。酒を呑むと、ガラリと変わる連中が多く、大人しく酒を呑んでいた者が、突然、大声を上げて叫びだしたり、今まで怒っていたやつが突然、涙をポロポロこぼして泣き始めることも少なくなかった。笑い上戸、怒り上戸、無口なやつが突然、おしゃべりに変わる不思議を目撃した。
その吉村にしても、酒を呑むまでは冷静に人を観察しているのだが、酔いが回るとガラリと変わってしまう。つい学校の教壇に立っているような錯覚を覚え、だらしなく酒を呑んでいる人を見ると厳しく注意したり、喧嘩を売るような呑み方をしている人を見つけると、外へ連れ出して説教したりもした。
 吉村は、この店でたくさんの友だちをつくることができた。その代表的な存在が渋やんと拓やんだった。渋やんは、渋ちんだから渋やんと呼ばれているわけではなかった。渋谷という名前から取った渋やんだ。吉村より三歳上で、定年退職して悠悠自適だと本人は語るが、実態はそうでもないようだ。奥さんに毎日のようにせっつかれて仕事を探して歩き回っているというのが現状のようだ。
 拓やんは、吉村と同年齢で、拓やんの名前の由来は、本人が木村拓哉に似ていると言い張ったところからきているらしい。男である以外、似ているところなどまったくないが、本人がその気でいるから始末に負えない。拓やんもまた、リストラに合い、職安通いの毎日で、未だに仕事が決まらずにいたが、奥さんが看護師をやっているせいか、生活の困窮はないようだ。
 吉村がこの二人と友だちになったのは、酒を呑むペースが合うところからきていたが、それよりも何よりも、この二人と一緒に酒を呑むと吉村は楽しかった。それでも、酒を呑み、酔いが回ると、吉村は仲のいいこの二人に対してさえも大声を出して説教をする。酔いが醒めると、きちんと謝るのだが、渋やんも拓やんもそんな吉村の酒癖をいつも笑ってやり過ごす。
 ある時、そんな仲のいい三人の関係にひびが入りかけたことがあった。
 えびす亭に時々顔を出す、岸本という豆腐屋の社長がいて、賑やかで騒動しい性格で、この人が顔を出すだけでえびす亭の雰囲気が一変すると言われているほどの御仁であった。
 この岸本という社長が、ある夜、吉村と渋やん、拓やんがいつものように酒を呑み、話しているところに割り込んできた。酒のせいだったが、これにいつもは大人しい渋やんが怒った。話の腰を折られたからだ。
 話と言っても大した話をしているわけではなかったが、その夜の渋やんは虫の居所が悪かったのだろう。いつもと様子が違った。それで、豆腐屋の社長、岸本に突っかかって行った。言い合いになり、互いに激しい言葉が二人の間で交わされた。当然、拓やんは渋やんの味方をして岸本に突っかかる。本来なら吉村も渋やんの味方をするのだが、教師として生きてきた吉村は、弱い者いじめが大嫌いだった。二人に言い負かされている岸本を放っておけなくなり、つい岸本を応援してしまった。
 これに怒ったのが渋やんと拓やんだった。岸本を放ったらかしにして、今度は吉村に二人して突っかかって行った。岸本はいつの間にか姿を消し、店からいなくなっているというのに、渋やんと拓やんの吉村さんへの攻撃は、その後もしぶとく続いた。
 この日を境に、トリオは解散かと思われたのだが、えびす亭を揺るがす大事件が翌日、起った。
 翌日の午後九時のことだ。渋やんと拓やんが一緒に呑んでいて、少し離れた場所で吉村が一人で呑んでいた。渋やんも拓やんも、ちらっと吉村を横目で見るが、吉村は知らん顔をして一人で呑んでいる。そんなところへ青い顔をした岸本が飛び込んできた。
 血相を変えて飛び込んできた岸本を見て、えびす亭の面々が驚いた。
 マスターが岸本に、
 「何かあったのですか」
 と聞くと、岸本は泡を吹いたような顔をして、
 「殺される!」
 と絶叫した。
 ただ事ではない。そう思った吉村は、岸本さんのそばに近づき、
 「追われているんですか?」
 と聞いた。岸本は勢いよく首を振り、歯をガチガチ鳴らしながら、
 「殺される……」
 と同じ言葉を口にした。吉村がガラス戸の向こうに気配を感じ、岸本をかばうようにすると、それを見た渋やんと拓やんも同時に動いた。
 「俺たちも加勢する」
 そう言って、吉村と共に岸本をかばった。一体何が起こるのか、マスターを始め、えびす亭の面々は息を飲んで見守った。
 その時、突然、荒々しくガラス戸が開いて、わめきたてるようにして入って来た人物がいた。小型ダンプカーのようなその人物は岸本を見つけると、ギャーッと叫びながら岸本めがけて突進した。
 渋やんが岸本を守ろうとしたが、簡単に跳ね除けられ、拓やんも簡単に弾き飛ばされた。吉村も同様に弾き飛ばされ、青ざめた顔の岸本の首が哀れにもひん曲がって倒れた。
 「この浮気もん! 今日という今日は許さん!」
 小型ダンプカーのような体格をしたその人物は、岸本の妻だった。岸本の浮気を知った妻が、岸本を追いかけてここまでやって来たのだ。
 岸本の妻は、岸本の片方の耳を引っ張って外に連れ出すと、蹴とばすようにして道路に転がした。
 「助けてー! 殺される!」
 岸本の絶叫する声が響いたが、えびす亭の面々は無視した。渋やんも拓やんも、吉村も、妻を大事にしない男など、死んでしまえ! そう毒づいて塩をまいた。三人とも、それぞれ妻を大切に思ってきた男たちだ。妻を悲しませる岸本が許せなかった。
 ひと騒動終わると、いつの間にか、吉村は渋やん、拓やんと共にいた。
「切っても切れない仲だもんなあ、俺たちは」
 渋やんの言葉に吉村も拓やんも共に笑顔を浮かべて、共にグラスを掲げた。

 一二三の一周忌が近づいていた。どれだけ時間が経とうとも、吉村が一二三を忘れるということはなかった。一二三を思い出すたびに吉村は涙をこぼした。
 浮気だけはしなかった。泣かせるようなこともしなかった。頬を叩かれ、蹴られたことはあったが、殴ったり、蹴ったりしたことなど一度もなかった。出された料理をおいしく食べ、家では終始、一二三に従ってきた――。
それが愛だと吉村は信じて疑わなかった。
 一二三は、自分を哀れに思って結婚してくれたのだと結婚当時は思っていた。それでもよかった。一二三と暮らせるなら、どう思われても平気だった。
 しかし、結婚して一か月目、学校へ登校しようと、いつものように玄関に立つと、一二三が走り寄って来て、突然、吉村の頬にキスをした。それどころか、一二三は、吉村さんの耳元に「愛してる」と小さな声で囁いた。
 贅沢こそさせてやれなかったが、人並みの生活はさせてやれたと吉村は自負している。たくさんの思い出が作れたのではないかと思っている。だが、振り返ってみるとまだまだ足りないと思った。まだまだこれからだ。そう思っている最中に妻が亡くなった。
 途方に暮れた吉村は、生きて行くのが嫌になった。絶望感に打ちひしがれ、何をする気力もなくなったある夜、一二三が夢の中に現れた。一二三は、相変わらず可愛く、美しかった。一二三は笑顔で吉村に近づくと、「頑張って長生きしてね」、と耳元で囁いた。
 一周忌の前日のことだ。えびす亭で酒を呑んでいた吉村は、いつも同じ時間にやって来る渋やんと拓やんが店に来ていないことに気が付いた。どうしたのだろうと思った吉村がマスターに聞いた。
 「渋やんと拓やん、今日はまだ来ていませんね」
 もしかしたら、もう少し早い時間に来ているのではないかと思い、聞いたのだが、マスターは、
 「今日は来てまへんなあ。どないしたんやろ。二人一緒に来ないなんて」
 と答えて、「まあ、そのうち来ますやろ」と吉村に言った。
 結局、その日はとうとう、二人ともえびす亭に姿を見せなかった。
 翌日、吉村は朝から、一二三の一周忌法要の用意をした。
 法要が行われるのは午後三時からだったが、一二三のために万全の用意をしたかった。
 一周忌法要は、亡くなってちょうど一年後の同月同日(祥月命日)に行うことになっている。初めての年忌法要ということもあって、本来なら、親族だけでなく、知人や友人など、たくさんの方を招きたかったが、子供たちはみな、多忙で出席がかなわず、親戚とも付き合いが遠ざかっているため、吉村は僧侶を呼んで、一人で一二三の法要を迎えることにした。
 午後三時少し前に僧侶がやって来た。お茶を出し、そろそろ始めようという時になって、玄関のチャイムが鳴った。
 誰かなと思い、ドアを開けると、そこに渋やんと拓やんが立っていた。
 「どうしたんだ?」
 と吉村が聞くと、渋やんと拓やんが、
 「奥さんの一周忌法要なんやろ。水臭いな。奥さんとは付き合いはなかったけど、吉村さんに散々奥さんの自慢話を聞かされて、付き合いがあったも同然になってる。そやから参加させてもらいにきた」
 声を合わせて言う。吉村はそれを聞いて、
 「おおきに、おおきに」
 と涙ぐみ、二人を法要の席に案内した。
 「昨日、二人で花屋に行って買うてきた花や。祭壇にお供えしたって」
 渋やんが用意した花束を吉村に渡した。それで昨日、二人はえびす亭に来なかったのか、二人の心遣いに、吉村は感動を隠せなかった。
 僧侶の読経が始まり、三人の焼香が終わると、吉村は僧侶のために会食を用意し、二人には、
 「来ると思っていなかったので、会食を用意していない。法要が終わったらえびす亭に行こう。今日はぼくの奢りや。たっぷり呑んで、たっぷり食べてくれ」
 と耳元で囁いた。
 「おおきに。たっぷり呑んで、たっぷり食べて、奥さんの思い出話、たっぷり聞かせてもらうわ」
 拓やんがそう言って笑うと、つられて吉村と渋やんも笑い、会食中の僧侶までもが笑った。
 「俺たちは切っても切れん仲や」
 渋やんの言葉に、仏壇に飾ってある一二三の写真がニッコリ微笑んだような気がした吉村は、渋やんと拓やんに声高らかに宣言した。
 「覚悟しとけよ。今日はぼくの日本一の女房、一二三の話をたっぷり聞かせてやる!」
<了>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?