懺悔屋 風俗の女
高瀬 甚太
「愛知県の北部で生まれ育ちました。現在は京都の私立高校で油絵を教えています。年齢は四二歳です。妻がいて子供が二人、現在は恋や愛とは無縁の生活をしていますので、ここでお話しすることをためらったのですが、妻に懺悔し、確実に過去を清算するという意味で、お話しをさせていただくことを決心し、こうやってここに参りました」
僧でもなく牧師でもない。何の権限も持たない、そんな私が懺悔を聞くなど、おかしな話だが、世の中には、宗教に関係なく、すべてを告白して楽になりたい。そう思う人がいるようで、退屈しのぎに始めた「懺悔屋」が、意外に受けて、毎日のようにたくさんの人がやって来る。三カ月先まで予約で埋まっている。世の中、一体どうなっているのだろう。
ちなみに、本日の懺悔客は、岡部忠行、私立高校の美術教師だ。
――今から十年前のことになります。当時、七年付き合って来た妻と結婚間もない頃で、私立の高校で美術教師をしながら、合間を縫って油絵の制作に励んでおりました。
若い頃から画家として生きたいという思いが強かったものですから、一時は定職に就かず、バイトをしながら日夜、画家を目指していたのですが、なかなか芽が出ず、交際していた妻に結婚を迫られていたこともあり、仕方なく高校の美術教師の職に就いたのですが、内心、忸怩たる思いがありました。
しかし、交際していた妻に子供が出来ると聞いては今までのようなわけには行きません。それに美術教師の仕事も最初は嫌々引き受けたものの、やってみると意外に楽しく、自分の性格に合っているような気がして――、決して画家になる夢を捨てたわけではなかったのですが、現在はそれなりに楽しい毎日を過ごすことが出来ています。
第一子が誕生した時、母子共に健康で産後の状態も決して悪くはなかったのですが、心配した妻の実家が娘を呼び寄せて、妻は一カ月ほど、実家で暮らすことになりました。
妻は私を一人にして置いておくことを心配しましたが、心配しなくていいと言い含め、快く妻と子を実家に送り出しました。
たとえ一カ月であっても一人暮らしをするのは久しぶりのことです。多分、その時、私は独身に戻った時のような開放感に浸っていたのだと思います。食事は外食で済ませ、長い間、交流していなかった学生時代の友人にも会うことが出来ました。酒を呑み、遅くに帰宅しても怒る者はだれもいません。それで気をよくした私は、毎夜のように呑み歩きました。職場の同僚が一緒の時もあれば昔の友人の時もありました。時には一人で酒場をうろつくこともたびたびでした。
風俗を利用したのもこの時が初めてでした。一人暮らしが一週間も続くと苛々して来ます。性欲が頭をもたげ、モヤモヤとした気分になると、それを鎮めるために何か、行動を起こさないと収まりがつかなくなりました。日本橋界隈をうろつき、そうした店を見つけました。入るには勇気が入ったのですが、思い切って足を踏み入れ、料金が適正だったのでサービスを受けることにしました。そこでサービスを受けたのが香魚(あゆ)という女性です。
香魚というのはもちろん店での源氏名で、本名は別にあります。でも、その時は、本名はこちろんのこと、国籍すら知りませんでした。風俗の女の子ですし、そこまで関心を持っていなかったというのが正直なところです。
その時はそれで終わりました。いえ、終わったと思っていたのです。
それから三日後のことです。授業を終えて帰宅しようとした時、突然、見知らぬアドレスから電話がかかってきたのです。誰だろうと思い、出ないで放っておきましたが、二度、三度としつこくかかってくるので、仕方なく電話に出ました。
――もし、もし、岡部さん?
たどたどしい女の声が聞こえました。
――そうですが……。
――香魚よ。その節はどうも。
――香魚?
――『ニャンコランド』の香魚よ。
『ニャンコランド』と聞いて、ようやくわかりました。風俗店の名前です。確か、あの時、自分の相手をしてくれたのが香魚という女性だったことに、その時初めて気が付きました。
――その香魚さんが、私にどんなご用でしょうか。
不安に思いながら尋ねると、香魚は、陽気な声で、
――忘れ物してるよ。あなた手帳、落としてるよ。
と言います。
手帳? 背広の内ポケットを探ると、いつも入れている手帳がありません。この三日ほど手帳を見る用がなかったので気が付きませんでした。
――捨ててもよかったら捨てるけど、必要だったら渡すよ。
手帳にはこれからのスケジュールを始め、友人、仕事関係のアドレス、書きとめて置いたメモが記されています。香魚は、手帳の電話番号と名前を見て電話をしてくれたのでしょう。
――ありがとう。捨てないでもらえるかな。取りに行くから。
――わかった。捨てずに置いておくね。
その日の夜、私は再び『ニャンコランド』を訪れ、香魚を指名しました。
「早かったね。こんなに早く取りに来ると思わなかったから驚いたわ」
香魚はそう言って私に手帳を手渡しました。
「手帳を取りに来ただけでしょ。だったら無理に遊ばなくてもいいよ。店長にはわけを言って了解してもらうから」
香魚の物言いが意外でした。てっきり何かねだられるのではないかと恐れていたのですが、そんな態度ではなかったからです。
それに先日は気が付きませんでしたが、香魚は日本人ではありませんでした。小柄で色黒、目元がパッチリして愛嬌のある顔をしていますが明らかに外国人です。年は十代後半か二十代前半、そんなところでしょう。
「いや、お礼も兼ねて遊んで行くよ」
私の言葉に、香魚の表情が急に明るくなりました。
「よかった。今日は客が少なくて困っていたの。たっぷりサービスするね」
『ニャンコランド』には本番はありません。手や口を使って抜くのが彼女たちの仕事です。もちろん交渉すればそれ以外のことも可能かも知れませんが、風俗で遊ぶのが二回目だった私はそこまで詳しい情報を得ていませんでした。
一通り終えたところで時間が余り、少しだけ香魚と話をしました。
「どこの国からやって来たの?」
「ベトナム。ベトナムのホーチミンから先週、日本へやって来たところ」
「観光ビザで仕事をしているわけか」
「そう、観光ビザで行ったり来たりを繰り返している。日本の方がお金、稼げるから」
年齢を聞くのはどうかと思いましたが、香魚は何の抵抗もなく答えてくれました。
「もうすぐ二五歳よ」
あどけない香魚の顔を見ていると、とても二五歳には見えませんでした。十代後半か、もしかしたらもっと若いのではと疑ったほどです。
手帳のお礼も兼ねて食事に誘うと、香魚は意外なほどに喜びました。
「今まで客に誘われたことはないの?」
「あるよ。でも、誘うお客さん、みなスケベね。別の目的で誘うから、それがわかるからわたし、行ったことないよ」
「でも、今、俺が誘うと喜んでくれたよね」
「あなたは別、わたし、あなたに誘われてとても嬉しい」
それが香魚との恋の始まりでした。
手帳のお礼も兼ねて、翌日、私は有給休暇を取り、仕事を休んで、京都の町へ香魚を案内しました。
「観光、したことないよ。行きたいところたくさんあるのに、わたし、びんぼー、行くことできない」
稼いだお金はすべて実家に送っているという香魚は、着ている服さえ粗末なものでした。観光などとてもできない相談だったのでしょう。清水寺から二年坂、三年坂と定番の観光コースを回り、円山公園近くの店で湯豆腐を食べました。
「おいしい。岡部、これおいしいね」
初めて湯豆腐を口にした香魚は、熱い、熱いを繰り返しながら、それでもいかにもおいしそうに湯豆腐を食べました。
いつの間にか、私の名前を憶え、呼び捨てにする香魚でしたが、香魚の本名をこの時の私はまだ知りませんでした。でも知ったからといってどうということはありません。私にとって香魚はまだ、単なる風俗業の外国人といった程度の知り合いでしかなかったからです。
京都の古寺を巡るうちに、香魚の内面が少し透けて見えてきました。天真爛漫で純朴な人柄が、私には何となく愛おしく思えてきたのです。
その日、香魚と別れたのは午後9時過ぎ、京都を出たのが午後8時前でしたから、大阪へ着いてすぐに香魚と別れたことになります。香魚は物足りなさそうな表情でしたが、この時の私は、香魚をホテルに誘うような浅ましい行為をするべきではないと思っていました。
妻から電話がかかって来たのはその日の夜のことです。
――一人で大丈夫? ちゃんとご飯、食べてるの。
妻は赤ちゃんを抱いて私に電話をしているようです。赤ん坊のフガフガとした声が電話を通じて聞こえてきます。
――ああ、大丈夫だ。それよりきみの方はどうなんだ?
――お父さんとお母さんがマリモのこと大事にしてくれてね。とても喜んでいるわ。おかげでずいぶん楽をさせてもらっている。
――そうか。それはよかった。ところでこちらへ帰って来るのは予定通り来月の半ばだな。
――悪いわね。もう少し早く帰りたかったけれど、やっぱり予定通り、来月半ばまで居させてもらうわ。
妻が実家に帰ってまだ、十日ほどしか経っていません。後、二十日は一人でいられると思うとわけもなくドキドキして胸が騒ぎました。
――わかった。ゆっくりしなさい。マリモを頼んだよ。
子供の名前をマリモと付けたのは私です。女の子が生まれたらマリモと付けたいと以前から思っていました。義父はあまり気に入っているようではありませんでしたが、それでも私の決めた名前に渋々賛成してくれました。
翌日、もうすぐ昼休みになるという時間に香魚から電話がかかって来ました。
――もしもし、今、大丈夫ですか?
――ああ、大丈夫だ。どうした?
――岡部、今日、会えない?
客寄せの誘いだと思いました。
――今日は、あまりその気になれないな。また別の日にしてくれないか。
うっかり誘いに乗ってしまうと大変な目に遭ってしまう。そう思って断りました。
――お店じゃなくて、プライベートで会いたいの。わたし、岡部に会いたいの。
店ではないと聞いて、心が動きました。
――そうか。じゃあ、仕事が終わるのが午後5時だから6時に梅田でどうだ?
――6時ね。OKよ。
待ち合わせ場所を確認して電話を切りました。その時、何か悪い予感がしたのですが、とにかく会うことにしました。
「ベトナムの母が入院した。お金を送ってあげないといけないのだけど、岡部、頼めるか」
「弟が学校へ入学する。入学金が少し足りないのだけど、岡部、助けて」
会えば、きっとそんなことを言って来る。その予感がその時の私にはありました。それが常套手段だと、友人たちから何度か聞かされていましたし、香魚にとって私は、金づるの一人でしかないはずだ、そう思っていたのです。
梅田に着き、待ち合わせ場所のホテルのロビーに着くと、香魚が不安げな表情で立っていました。近付くと、香魚は顔をほころばせて私に手を振り、白い歯を見せました。その表情を見ていると、香魚が私を騙して金を取ろうなどと考えていた自分が恥かしく思ったほど、天真爛漫なものでした。
「とにかく食事に行こう。話があればそこで聞くよ」
寿司が好きだと聞いていたので、寿司屋に連れて行こうとしたら、香魚は首を振りました。
「岡部、寿司は高いよ。私、もっと安いところでいい。安い居酒屋で一杯呑もうよ」
「大丈夫だよ。高い寿司屋に行くわけじゃないから」
「それでも、岡部に金を使わせてしまう。今日、私が誘ったから私がごちそうするね。でも、私、貧乏だから安い居酒屋へ行く」
香魚は私の腕を引っ張って、さっさと阪急東通商店街の方向へ向かいます。香魚が私を案内したのは、表通りから路地に入った、安手の店とすぐにわかる、見るからにおんぼろな居酒屋でした。入口に『よっさん』という店名の暖簾がかかっていました。
店の中に香魚が入ると、中年の女子店員が、
「香魚ちゃん、いらっしゃい。どないしたん。今日は一人じゃないの?」
と香魚に声をかけます。どうやら香魚は、時々、一人でこの店に来ているようです。
「私の彼よ。岡部というの」
香魚は、私の腕を引っ張り、店の人に紹介しました。中年の女子店員がそっと私に近付いて釘を刺しました。
「あんた、香魚ちゃん、泣かしたらダメよ。この娘、純情なんだからね」
厨房にいた老年の料理人も、他にたくさん客がいるというのに、大きな声で私に言います。
「香魚ちゃんのこと、大切にしたってや」
そんなことなど委細構わず、香魚は、テーブルに着くと、女子店員にオーダーします。
「はるちゃん、私、サーモンのお造りと冷奴。それとビール」
私も香魚と同じものを注文し、二人で乾杯をしました。
新鮮な造り、豆腐に舌鼓を打ちながら、追加注文をし、その夜、居酒屋『よっさん』で香魚と共に長い時間を過ごしました。
「話があったんじゃないのか?」
香魚に尋ねると、香魚は少し考えた末、
「あったけど、もういい」
と、つっけんどんに言います。
「相談に答えられるかどうかわからないが、言ってくれないか」
私の言葉に、香魚はようやく口を開きました。
「岡部は、奥さんがいるんでしょ?」
香魚の唐突な質問に面食らった私は、一瞬、口ごもりましたが、嘘をつくわけには行きません。
「いるよ。子供が産まれたばかりだ」
「やっぱりね。そうだと思っていた」
「そのことと、きみの相談と何か関係があるのか?」
「……」
「言いたいことがあるなら言ってほしい」
「私、岡部のこと、好きになった。だから岡部が独身ならチャンスがあると思った」
「……」
「岡部は、他の人と違う。私がこの国で信じることのできた唯一の男の人」
「きみは私のことを何も知らない。私も他の男とそう変わらないんだよ」
香魚と会ったのはほんの数回で、一度は客で、一度は、手帳を取りに行った時、三度目が京都へ行った時、そして四度目が今日だ。四回の出会いでいくらなんでも結婚の話が出るとは思いませんでした。
「でも、どうして急に結婚の話なんか――」
香魚を諫めるようにして言うと、香魚は、じっと私を見て、
「ベトナムにいる父がガンで余命がないことがわかった。父が私の花嫁衣装を見たいと言っているって、昨夜、母から電話があった。私、父に花嫁衣装を見せたい。そう思った時、岡部だったらいいのに――、そう思ったの」
家族が病気、実家に金を送る。だから金を融通してほしい――。そんな展開になると、友人から聞かされていました。香魚は、私から金を融通してもらうために、父が病気であること、花嫁衣装を見せたいなどと言っているのだろうか……。
「金がいるのだったら、少しぐらい融通してあげてもいいよ」
私が言うと、香魚は血相を変えて怒りました。
「私、岡部に金をくれなんて一言も言ってない。私、岡部が好きだからお嫁さんにして欲しいと思った。でも、岡部、結婚している。残念だけれど仕方がない。私、あきらめる」
「……」
はるちゃんが忙しく立ち働きながら、香魚のことを気にしています。厨房の中の、多分、よっさんと言うのだろう主人も、しきりに香魚を気にしている様子です。みんな、香魚を心配しているのだ。その様子を見ても香魚がどんな女の子かすぐに見当がついた。
「結婚は出来ないけれど、お婿さんのふりは出来るよ。もし、よければ、今月中であれば、一緒にベトナムへ行ってもいい」
私の話が、香魚にとってよほど思いがけない話だったのでしょう。しばらく香魚は、信じられないといった表情で私を見ました。
「本当に、岡部、本当にいいの? 岡部に迷惑がかからない?」
「大丈夫だよ。今月中なら自由に行動できる。本物の花婿にはなれないけど、偽りの花婿にはなれる。すぐに手続きしよう」
近くで私たちの話に耳を傾けていたはるちゃんは、香魚の肩を叩き、
「よかったね、あんた。やさしいね」
と、私の肩をやさしく叩いて言いました。
――その夜、私は香魚と寝ました。男と女、真実の愛で結ばれた、新婚初夜のような意識がその時の二人にはありました。
ベトナムへ行き、ホーチミン市の片隅に建つ、総合病院へ行ったのは、その日から三日後のことでした。私は礼服に着替え、香魚は純白のドレスに身を包み、ベッドに横たわる香魚の父を見舞いました。
「パパ、私の彼よ」
弾むような声で香魚が言うと、その言葉に呼応するようにして、私も、
「よろしくお願いします」
とベッドの香魚の父に向って深く頭を下げました。
香魚の父は、満足そうな笑顔を浮かべ、横たわったまま、腕を私の元へ差し出そうとします。細い、骨と皮だけの腕を掴み、その手を握って、私は再び頭を下げました。
香魚の父は、香魚の花嫁衣装を見届けると、安心したのか深い眠りに就き、そのまま眠り続けて、翌朝、命を閉じました。
三日後、香魚より一足先に私はベトナムから日本へ戻りました。日本へ戻った私に待っていたのは美術教師としての多忙な日々でした。妻が戻るまでもう幾日もありませんでした。香魚からの連絡を心待ちにしていましたが、妻が戻るその日まで、香魚からの連絡は一度もなく、音信不通になったまま数日が過ぎました。
子供がいることで、ずいぶん家庭に明るさが増すものです。私は、マリモの笑顔を見るために、毎日、急いで家に帰る、そんな日々を過ごしていました。
香魚から連絡が来たのは、私がベトナムへ行って一カ月余が過ぎた頃でした。
――岡部、お礼を言うのが遅くなってごめん。岡部が日本に帰った後、二日後に私も日本へ帰ったのだけど、岡部に電話、しにくかった。岡部が私の夫、その夢を失いたくなかった。電話をすれば、多分、私と岡部、本当に他人になってしまう。それが怖かったの。
何も言うことがなかった私は、ただ、黙って香魚の話を聞いていました。
――わたし、日本を離れる決心したの。多分、もう日本へやって来ないと思う。向こうで看護師の資格を取って、病院で働くことにしたの。出来れば医師の資格も取りたいと思っている。
――香魚なら出来ると思う。いや、必ず出来るよ。
――ありがとう岡部、最後に一度だけ、岡部に会えないかな?
一瞬、ためらいました。すぐに返事が出来ず考えていると、
――いいのよ、岡部、無理しなくていいよ。
と、香魚が笑いながら言いました。
――いや、私も香魚に会いたい。香魚に会いたいんだよ。
素直な気持ちでした。香魚と会う約束をして、場所と時間を決め、電話を切りました。
「誰からの電話なの? ずいぶん深刻な様子だったけど……」
電話を切った途端に、妻が私に聞きました。私は気付かれたかと思い、一瞬、言葉を飲みこみました。
「いや、旧い友だちからの電話でね。明日、会えないかというので約束したところだ」
「明日は、私の誕生日じゃないの。嫌だな、お祝いをしてくれないつもりなの」
「悪い。明後日、必ずお祝いさせてもらう。明日は勘弁してくれ。大切な友だちに会わないといけないんだ」
向きになって反論すると、妻は急に笑い出し、私に言いました。
「冗談よ。いいわよ、行ってらっしゃい」
妻の腕に抱かれたマリモが笑顔で私を見つめています。その瞳を眩しく感じながら私は妻に「ありがとう。すまない」と言って妻の腕からマリモを受け取ると、小さな身体を強く抱きしめました。
久しぶりに会った香魚は意外にも元気そうでした。大阪駅からほど近いホテルのロビーで会い、喫茶店に入ってお茶を飲み、香魚と話しました。
香魚は、父が亡くなったことがきっかけで、いろんなことを考えたようです。父を亡くした母のこと、幼い兄弟のこと、そして自身の未来のこと。香魚は、たとえ仮初めであったとしても私と結婚したこと、父に花嫁衣装を見せられたこと、母や家族に私を紹介出来たことで、人生の踏ん切りがついたと熱く私に語りました。
結局、私はずっと聞き役で終わり、私の気持ちは一切伝えないまま別れることになりました。
あの時、香魚が私と一緒になりたい。どうしても一緒になりたいと私に願ったら、私はどうしただろうか。身の保身を図り、香魚に体裁のいいことを言い繕ってごまかしたに違いありません。一抹の寂しさに駆られながら帰路についた私は、会った時の香魚のテンションの高さがふと気になりました。
もしかしたら――。香魚は私に心配をかけないよう、ああいった言いかたをしたのではないだろうか。そう思えば、電話での話も怪しくなってきます。
しかし、今となっては確かめる術もありません。香魚の笑顔と子供の笑顔が私の中で微妙に交錯し、複雑な思いに駆られながら家路を急ぎました。
岡部の懺悔はそれで終わった。私にすべてを話し、懺悔したことで少しは気分が晴れただろうか。懺悔をした彼に、私は贈る言葉の何もなく、「グッドラック」とだけその背に言葉をかけた。
<了>