贈り物


高瀬甚太

 結婚して一年も経たないうちに、姫子は夫を亡くした。
 葬儀は近親者だけで行う家族葬とし、姫子の両親、兄、夫の両親、夫の弟、それに親戚二家族が加わり、質素に終えた。和尚の読経を聞きながら姫子はハンカチで瞼を抑え、夫の在りし日を思い出して一人泣きぬれた。あまりにも短すぎる結婚生活だった。
 葬儀を終えて一段落すると、姫子の今後の身の振り方が話題になった。周囲は、子供もいないことだからと、籍を抜いて姓名を元に戻すよう勧めたが、姫子は、悩んだ末、夫の姓名のまま行くことにした。姓名を元に戻すと、亡き夫との縁も思い出もすべて切れてしまうような気がしたからだ。
 姫子は大学生時代にサークルで夫と知り合った。一学年上の綾川武は、面倒見のいいやさしい先輩だった。その綾川に交際を申し込まれ、付き合うようになったのが一年目の春だった。
綾川は大学を卒業し、家電メーカーの大手企業に就職をした。一学年下の姫子もまた、綾川より一年遅れで都市銀行に就職し、その時から二人の結婚を前提とした交際が始まった。
 結婚をしたのは綾川が二十六歳、姫子が二十五歳の秋だった。結婚に対する障害は何もなかった。家族も周りも二人の結婚を祝福し、順風満帆の船出だった。
 最高に幸せな一年間だったと結婚後の日々を振り返って姫子は回想する。夫の綾川はやさしくて包容力があり、よく働いた。三〇才までに子供を二人作り、三五才で家を建てよう。そんな計画を二人でよく話した。
 彼が亡くなったのはちょうど一年目の結婚記念日の日だった。
 「結婚記念日だから今日は早く帰る」と同僚に言い置いて退社したそうだ。いつもはまっすぐ帰るのに、姫子の好きなモンブランケーキを買い、遠回りしてフラワーショップで花束を買い、近道をしようとして横断歩道を渡りかけたところで、信号を無視して突っ込んできた軽自動車に跳ねられた。
 信号は黄色の点滅だった。距離が短いから渡れるとでも思ったのだろう、気がせいていたのかもしれない。彼は、猛スピードで突っ込んでくる車に気がつかず渡ろうとした。突っ走ってきた車に跳ねられ、道路に激しく打ち付けられた彼は、頭部をしたたかに打ち、ほぼ即死状態で病院に運ばれた。
 運転していた男は、綾川を跳ねた後、ハンドルを慌てて切って別の車に衝突し、停止した。居眠り運転だとわかったのは警察の事情聴取が終ってから後のことだ。
 報せを聞いて、姫子が病院へ駆け付けた時、綾川はすでに息を引き取っていた。呆然自失し、言葉を失った姫子は、その後のことをよく覚えていない。警察が来て、夫を殺した運転手が謝罪のために病院へやって来たような気もするが、それさえも記憶にない。
 傷心した姫子は、それでも立派に通夜をやり遂げ、葬儀を終えた。ただ、その後、ひどい脱力感に襲われ、銀行を一週間休んだ。その休みの間に姫子は夫の遺品を整理することにし、死後初めて夫のものに触れた。
 事故のせいか、夫の携帯電話は壊れて作動しなかった。手帳には仕事のこと以外、記されてなく、唯一、結婚記念日の日だけが赤い○で覆われていた。生前の夫の様子を窺わせるものは何も残されておらず、姫子は夫の衣服を整理し、本を整理しようとした。本棚には、夫が生前よく読んでいた本が数百冊飾られていた。仕事関係のものが多かったが、中に数冊、毛色の変わった本があった。どちらも同じ著者のもので、好奇心を抱いた姫子は片づけをしながらその本を手に取った。
 ベージュ色の装丁で、墨文字で大きく『贈り物 第一巻』と表紙に書かれたその本は、A5判サイズで五巻に分かれていた。二巻目はコバルトブルーの装丁、三巻目はシルバーの装丁、四巻目はブラック、五巻目は真紅の装丁になっていた。
 その本の内容は、著者の自己体験を軸にした手記だった。
 有名な本ならともかく、聞いたこともない出版社の無名の作家による手記を夫がなぜ購入し、読んでいたのか、興味が湧いた姫子は早速、その本を開いてみることにした。
 
 著者は二十五才、男性。十代後半から鬱を患い、年々それが重くなっているという実感があったと記していた。この本はそんな著者の鬱とそれに関わるさまざまな病気、心の闇に触れながら、著者が徐々に回復していくまでを克明に記している。
 少し読んだだけで姫子は気が重くなり、読めなくなってしまった。それほど陰鬱な書だった。それなのになぜ夫がこの本を――、姫子は不思議に思った。
 夫に鬱の兆候などなかったことは姫子が一番よく知っている。夫は快活でいつも明るい人だった。それなのになぜ――、ふと考えたのが、夫の友人、知人に鬱で悩んでいる人がいたのではないか、ということだった。
 休みが明けるまでの一週間、姫子は夫の友人、知人を訪ね歩くことにした。
 夫が生前、特別に懇意にしていた友人は四人いた。男性が三人、女性が一人、そのうち姫子が会ったことのある人は二人、後二人は名前だけしか聞かされていなかった。
 姫子が最初に会ったのは、夫と学生時代からの友人だった鹿島英二。夫のアドレス帳に書かれていた携帯電話の番号にアクセスすると、二度目の呼び出し音で鹿島が出た。
――突然、失礼いたします。綾川武の妻の姫子と申します。生前は主人が大変お世話になり、ありがとうございました。
 と告げると、鹿島は素っ頓狂な声を上げて、大げさに喜んだ。
――これはどうも、奥さん、隆があんなことになって……。その後、大丈夫ですか? 
――鹿島さん、少しお聴きしたいことがありましてお電話させていただきました。少しよろしいですか?
 ――大丈夫ですよ。どんなことでしょうか。
 ――主人の遺品を片づけていましたら『贈り物』という全五巻の本が出てきまして。鬱を題材にした本なんですが、主人がその本を読んでいたかどうか、ご存じありませんか?」
 ――『贈り物』ですか? 聞いたことがありませんねえ……。
 ――そうですか。では、主人のお知り合いの方で鬱病で悩んでいた方などおられませんでしたでしょうか?
 ――鬱ですか? 特にいなかったような気がします。何しろ明るい男でしたからね。周りにも明るい人間がたくさん集まっていました。
 ――ありがとうございます。お忙しいところ失礼しました。
 やはり、思い過ごしだったのだろうか。鹿島が言うように夫は明朗快活な人だった。自分の知る夫の友人、知人もすべて明るく朗らかな人しかいなかったような気がする。
 そんなことを考えていると、自分は無駄なことをしているのではないか、そう思い、姫子は次にかける電話を一瞬、躊躇した。
 夫とは計五年の付き合いだった。学生時代に知り合い、包み隠さず何でも話してきた。夫のことならすべて熟知している、その自負もあった。夫も多分そうだっただろう。
 結婚してからも、夫は会社であったことをよく話してくれた。嘘のつけない純真な人だった。だから夫のことは何でも理解している。そのつもりでいた。
 だが、一冊の本になぜか引っかかった。『贈り物』、この本に私の知らない夫の秘密があるのでは――。気になり始めると止めどがなかった。たとえ無駄であったとしても、後三人、連絡をしてみよう。そう決心し、姫子は夫と特別懇意にしていたと思われる、埼玉に住む児玉嗣郎に電話をした。
――もしもし、児玉ですが……。
 着信番号に思い当たらなかったのだろう。児玉は少し警戒気味な様子で電話に出た。
 ――主人が生前、お世話になっていました。綾川隆の家内です。突然、お電話をして申し訳ありません。
 ――綾川の奥さんですか? これはどうもどうも。このたびは……。
 児玉嗣郎とは一度も面識がなかった。ただ、夫の話に頻繁に名前が出てきたのと、アドレス帳になぜか四人だけ別に特記されている中の一人であったので姫子は電話をかけたのだ。
 ――実は……。
 児玉に、『贈り物』という本について夫から話を聞いたことがあるかを聞くと、児玉は少し考えていたようだが、すぐに、何かを思い出したのだろう。答えてくれた。
 ――彼が高校時代に購入した本ですよ。覚えています。彼とは高校の同期でしてね。学生時代は一緒によく遊んだものです。奥さんもご存じのように明るいやつでね。だから誰にも好かれる男でした。ところがある日、書店で買ってきたといって、私に一冊の本をみせるんです。その本が確か『贈り物』という本だったと思います。鬱に関する本でしたから、彼には似合わない本を読むんだなと思ったので聞きました。すると、彼、深刻な顔をして、知り合いが鬱でね。と言うんです。彼の知り合いにそんな人間がいたかな、と思って不思議に思ったのですが、その時はそれ以上話してくれなくて、残念ながら以後、その話をすることはありませんでした。
 やはり、自分の勘は当たっていた。姫子は『贈り物』という本を見た時、感じたことが正しかったことを確信した。
 児玉に丁重に礼を言って電話を切った姫子は、残る二人のうちの一人、唯一の女性である、野江里美に電話をした。夫の話の中に一度も出て来なかった名前である。どんな人であるかも見当が付かなかった。しかし、八回、九回と電話を鳴らしても野江里美は電話に出なかった。仕方なく野江里美を後回しにして、残る一人、山口正に電話を入れた。
 ――山口ですが……。
 電話に出た山口に姫子が「もしもし」と告げただけで、山口は、
 ――やあ、姫子さん!
 と大きな声を挙げて姫子からの電話を歓迎した。
 姫子は、他の二人と同様、山口にも『贈り物』の本について尋ねた。山口は夫の幼馴染で、子供の頃からずっと付き合いをしてきた男だ。だから何か知っているのでは、そう思って期待した。
 ――『贈り物』ですか……? もしかしたら、あの本のことかな……。
 山口がひとり言のように話したのは、高校に入学して間もなくの頃のことだった。
――綾川とおれは高校が別だったんですよ。綾川は府立で、おれは私立、だからたまにしか会っていなかったんですが、高校一年の終わりぐらいだったかな。いつも陽気で明るい綾川が、顔を曇らせて深刻な表情をしていた時期があったんです。それで、家で何かあったのか、と聞くと、そうじゃないと言うんですね。子供の頃から綾川とおれとは隠し事のない関係でしたから尋ねたのですが、その時は珍しく、何も話さなかったのですよ。だから、水臭いやつだな、と叱ってやりました。それでも、綾川は黙って何もしゃべってくれなかった。その時、あいつ一冊の本を大事そうに持っていたんです。その本のタイトルが確か『贈り物』だったと思うんですが……。
 山口の話を聞いて、姫子はさらに確信を持った。『贈り物』という本の中に、自分の知らない夫がいると……。だが、それが何であるか、姫子にはまったく見当が付かなかった。
 姫子は最後の一人である野江里美に再び電話をした。だが、今回も呼び出し音が空しく響くだけで、応答はなかった。
 野江里美、一体、どんな人物なのだろうか。アドレス帳を見るまで名前すら聞いたことのない人物であった。生前、夫が自分に内緒で交際していた女性では、そんなことも疑ってみた。だが、姫子はそれをすぐに打ち消した。
 『お互いに隠し事はしないようにしよう。それが一番だと思う。ぼくもそうするからきみもそうしてほしい』
 姫子の脳裏に夫の言葉が蘇った。嘘を好まない、誠実な夫の人生に、浮気などあり得ない。姫子は、どこまでも夫を信じる。その思いを強く持った。
 夫の遺品の中にも野江里美の名前はなかった。中学、高校と続くアルバムにもその名前はなかった。あるのは、アドレス帳に特記として記入された四人の中の一人としてだけだった。
 姫子は、夫の友人たちに野江里美を知らないか、確認してみようと考えたことがある。だが、そうすると、夫の浮気相手かな、と勘繰る者が現れるかも知れない。それはしたくなかった。夫は自分と心底愛し合った。その思い出を誰にも壊されたくなかったし、友人たちの誰にもそれを壊されたくないと思っていたからだ。
 夕方になってもう一度、野江里美に電話をした。すると呼び出し音が急に止んだ。野江里美が電話を取った。そう思い、「もしもし、野江さんですか? 野江里美さんですか?」と声を上げて名前を呼んだ。
 ――は、はい。野江ですが……。
 若い女性の声ではなかった。落ち着きのある四十代ぐらいの女性の声のような気がした。
 ――私、綾川隆の妻の姫子です。少しお聴きしたいことが会って電話をしました。お忙しいところ、申し訳ありません」
 ――隆くんの奥さんですか? 隆くんに写真を見せてもらいましたよ。おきれいな方ですね。
 ――あのう……。こんなことぶしつけにお尋ねして本当に申し訳ありませんが、野江さんはうちの夫とどのような関係ですか?
 姫子の質問の意味が最初、野江里美にはわからなかったようだ。しばらく黙った後、急に笑い出した。
 ――ごめんなさいね。笑ったりして。隆くんは私の妹の息子なのよ。子供の頃からとても心のやさしい子でね。幼い頃からよく私になついてくれて、でも、私、結婚した後、夫のDVにあってね、それが原因でひどい鬱になったの。離婚して、両親の元で暮らし始めた私を心配した隆くんがたびたび訪ねてくれて……。でも、私はいよいよ深刻な鬱になってしまい、引きこもって誰にも顔を合わせなくなったの。隆くんはそんな私のために、いろいろ世話をしてくれてね、高校生の時だったかな、一週間に一回ぐらい訪ねてくれて、会おうとしない私のために、毎回、ドア越しに本を読んでくれるの。鬱患者が立ち直った話だといって。毎回、二時間ぐらい読んでくれて……。全部で五巻もあったから、ちょうど一年半かかってしまったわ。根気よく丁寧に読んでくれたの。そのおかげで私、もう一度やり直してみようかと思うようになったの。
 姫子は、電話の向こう側にいる、会ったこともない野江里美が、目の前で微笑んでいるような錯覚を覚えた。
 ――造園設計を一から勉強して、三年前、資格を取ったのを契機に九州の福岡市で事務所を開いたの。隆くん、すごく喜んでくれてね。お祝いだといって、うちの嫁に贈ったのと同じイヤリングだ、といってプレゼントしてくれたの。嬉しかったわ。その時、あなたの写真も見せてもらった。結婚式には仕事の都合で出席できなくて、残念だったけれど、あなたのウエディングドレスを見てとても感激したわ。いい花嫁さんね、と言うと、世界一です、と隆くん、胸を張っていたわ。たまに電話があってもあなたの話しかしないのよ。それもおのろけばかり。私、隆くんに言ってやったのよ。そんな話ばかりしていると、私も結婚したくなってくるって。すると隆くん、そのつもりで言っているんですよと言うの。一度であきらめたらだめだよって。私より二〇も下なのに私が説教されている……。おかしかったわ。おかげで私もいい人が見つかってね。ちょっとのんびりしているけれど、とてもやさしい人で、隆くんにその人のことを話すと、今度は大丈夫なような気がするよって言うのよ。
 その時、姫子は、野江里美は隆の死を知らないのでは……、とふと思った。
 ――野江さん。隆のことですが……。
 そこまで言って言葉が詰まった。隆の死をどのように伝えればいいのか、言葉が喉の奥に詰まって出て来なかった。
 野江里美は、引きこもりから脱した後、単身、九州へ渡り、その時点で家族や親戚縁者との縁が切れたと言った。そのせいで、隆の死を伝えられていなかったようだ。
 ――四日前ですが……。
 姫子が隆の死を告げると、野江里美は大声を上げて泣いた。その声を聞いて、姫子も泣いた。涙が止まらなかった。
 時間を置いて、遺品を整理していて見つけた『贈り物』の本のことを野江里美に話すと、野江里美はまた泣いた。
 ――明日、そちらへ行ってもいい?
 と野江里美が言うので、姫子は「お待ちしています」と答えた。会えば、二人してまた泣くだろう。そして、隆のことを話して世を明かす。それもいいだろうと姫子は思った。
 綾川隆が素晴らしい夫であったことを、自分は面と向かって野江里美に話したい。そして、野江里美の中にある隆の思い出、すべてをぶんどって、隆のすべてを胸の中に詰め込んで、いつかは新しい出発を試みたい。つぶやくように言って、姫子は『贈り物』全5冊を本棚の中にしまいこんだ。
<了>


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