むつみちゃん

高瀬 甚太

 むつみちゃんのお父さんは、むつみちゃんが生まれてすぐに交通事故でこの世を去った。だからむつみちゃんの中にお父さんの記憶は残っていない。
 すでにこの世にいない父に抱かれ、母と共に家族三人仲よく並んでいる大きな絵が自宅の壁に額に飾られているのを見て、幼い頃のむつみちゃんはいつも不思議に思うことがあった。
 むつみちゃんが三歳の年の節句の日、一人の画家がむつみちゃんの家にやって来た。その人は、むつみちゃんを見ると、目を細くして「大きくなったね」とむつみちゃんの頭を撫でた。
 車イスに乗ったその人は、原田芳樹と名乗り、むつみちゃんにお土産だよと言って、ぬいぐるみを手渡した。ぬいぐるみを手にして、ぼんやり原田さんを見つめるむつみちゃんに、お母さんが原田さんのことを話して聞かせた。
 「むつみちゃん。この人はね、生まれたばかりのおまえの絵を描いてくださった方でね。今日も三歳になったおまえを描くためにわざわざ来てくださった偉い画家さんなんだよ」
 むつみちゃんの目の前にいる原田さんは、二十代後半か三十代前半のように見えた。車イスに座ったまま、原田さんは無言でむつみちゃんのスケッチを始めた。むつみちゃんの家の近くにある公園は昼の間、子供たちの大切な遊び場になっている。三歳のむつみちゃんもじっとしていられない。原田さんにスケッチされていることなどおかまいなしに、むつみちゃんは大はしゃぎでいつものように公園を走り回った。
 「むつみちゃーん、帰って来なさい」
 はしゃぎまわるむつみちゃんをお母さんが大声で叱った。いつの間にかむつみちゃんは、北の端にあるすべり台のところにいた。でも、原田さんは笑いながら、
 「いいですよ。描けますから大丈夫です」
 とやさしく言って、スケッチを続けた。
 三歳になったむつみちゃんを描きたいと申し出てきたのは原田さんの方だった。
 「むつみちゃんはお元気ですか?」
 と電話がかかってきた時、むつみちゃんのお母さん、吉川晴子さんは驚いた。病院を出てしばらくは電話のやりとりがあったが、ここ二年ほどは音信不通でいたからだ。
 「おかげささまでむつみは元気です。原田さんのお体の調子はどうですか?」
 吉川さんは、入院中の原田さんのことをよく知っていて、病気のことも知っていた。それでそんなふうな返事をしたのだ。
 「ええ、最近は大丈夫ですよ。ありがとうございます。実は今度、個展を開催することになりまして、出品する作品のメインに何がいいか考えていた時、ふと、むつみちゃんのことを思い出して、それでまたモデルになっていただけないかと思って……」
 原田さんの口調は、いかにも申し訳なさそうな感じで、それが原田さんの性格をよく表しているように吉川さんは思った。吉川さんは笑って返事をした。
 「こちらこそよろしくお願いします。むつみもきっと喜びますわ」

 ――むつみちゃんが生まれる直前になって体調を崩した吉川さんは、予定より一週間早く、病院に入院した。入院してすぐに、吉川さんはその病院内で原田さんに出会っている。
 白亜の八階建て、改装して間もない病院の売りは、新しい設備と清潔な空間にあったが、中でも人気を呼んでいたのが建物の周りを囲む敷地内に立つ、たくさんの緑の木々だった。吉川さんも、入院したその日に早速、建物の周囲を散策した。
 午後二時台の時間帯ということもあって、患者の多くが、木々の間に置かれたベンチに座って本を読んだり、イヤホンで音楽を聴いていたり、散歩を楽しんでいたりと、思い思いに過ごしていた。そんな中で吉川さんの目に留まったのが、スケッチブックを片手に絵を描いている車イスの男性の姿だった。
 絵が嫌いではなかった吉川さんは足を止めて、その男性のスケッチしている絵を覗きこんだ。まだ鉛筆でデッサンを取っている段階だったが、吉川さんには、その絵が素人の絵には見えなかった。それで吉川さんは声をかけた。
 「お上手ですね」
 車イスの男性は、スケッチする手を止めて、吉川さんを振り仰ぐと、
 「ありがとうございます」
 と笑って言った。その明るい表情に惹かれた吉川さんは、原田さんと会話を交わし、その時、男性の名前と病名を知った。
 その後も何度か吉川さんは、絵を描いている原田さんと出会い、生まれてくる子供の話を原田さんにした。子供が好きな人なのだろう、原田さんは吉川さんの生まれてくる子供に興味を持ち、赤ちゃんが誕生したら、その絵を描く約束をした。
 吉川さんのご主人は吉川忠雄と言った。配送会社に勤めていて、朝から晩まで車を使って大阪市内を奔走していた。仕事の途中、奥さんの様子を見にやって来ることもあったが、長居はしなかった。いつも着替えや日用品の類を届けに来て、二言三言、言葉を交わして病院を去った。
 吉川さんは、ご主人に生まれて来る赤ちゃんの絵を描いてもらうことを告げていた。ご主人はずいぶん喜んでいたようだが、時間の関係もあって、原田さんとは顔を合わせていない。
 「主人が会ってお礼を言いたいと言ってるんですが、忙しい人でして、分単位で動いているような人ですから、本当に申し訳ありません」
 吉川さんはそう言って原田さんに謝ったが、原田さんはまるで気にしていなかった。むしろ原田さんの方が吉川さんに感謝したいぐらいの気持ちでいた。
 原田さんが絵を描き始めたのは小学校低学年の頃からで、それまでは絵を描くよりも外で走り回って遊ぶ方が好きだった。中でもサッカーが好きで、ドリブルやシュートを幼児とは思えないほどの素早さと正確さで行い、仲間たちを驚かせていた。
 しかし、小学校に入学してすぐに病気が発症し、走り回ることも歩くことすらできなくなった。その病気は原田さんの健康な足を根こそぎ奪い、長期入院を余儀なくさせた。
 退院してもまたすぐに入院する、そんな状態が数年続き、やがて原田さんは身体障碍者の認定を受け、車イスを使ってしか動けなくなってしまった。
 すっかりふさぎ込んでしまった原田さんを救ったのは一枚の絵だった。
 水村喜一郎という名の画家の絵が病院のロビーに飾られていた。最初は何気なく見た程度だったが、ある日、看護師に車イスを押してもらい、ロビーを通りかかったところで、原田さんは看護師からその絵の説明を受けた。
 「この絵の作者は水村喜一郎という人でね。九歳の時、高圧線で感電して両腕を肩から失ってしまったの。でも、この人は、手の代わりに口と足を使って、一人で何でもできるように生活のすべてに挑戦し、自助の精神を貫き通した人なのよ。それだけではなく、幼い頃から画家を夢見ていた水村さんは、事故の後、すぐに口に筆を取って絵を描き始めた。十七歳の年に初めて公募展に入選した水村さんは、その後、創作活動に取り組み、立派な画家になったのよ」
 看護師に説明を受けた原田さんは、小学生ながらも感動を隠せなかった。元々、絵を描くことが嫌いではなかった原田さんは、看護師の言葉に触発されて、その日から絵を描き始め、没頭した。
 これまで主に風景画を主体に描いてきた原田さんだったが、そのことに何かしら物足りなさを感じていた。実力的には他の画家と遜色がないと思われたが、世界観という点で見劣りする部分があった。原田さんはそのため、これまでにも何かしらテーマを考え、それを実践してきたが、ぴたりと当てはまるものに出会っていなかった。
 吉川さんに依頼された赤ちゃんの絵は、そんな悩みを持っていた原田さんに光と衝撃を与えるものだった。人物画を描いたことはあったが、赤ちゃんの絵は描いたことがなかった。できれば、赤ちゃんだけでなく、お母さんに抱かれる赤ちゃん、もしくは家族と共にいる赤ちゃんを描くことができればと思うようになった。

 吉川さんの出産は、予定の日時を過ぎてもその兆候はまだ見られなかった。医師は、最悪の場合、帝王切開をしなければならないと、吉川さんに伝えていたが、できるものなら自然分娩がいいと望んでいた吉川さんは、無事に出産できるよう、ひたすら神様にお祈りしていた。
 予定日を過ぎて三日目、吉川さんは手術室に運ばれた。待ち望んだ陣痛が起こったのだ。
 むつみちゃんが誕生したのは、その日の夜半過ぎだった。難産ではあったが、帝王切開することなく自然に分娩することができた。
 むつみちゃんが生まれた日の早朝、病院へ駆け付ける途中の吉川さんの夫が事故に遭った。前夜、遅くまで仕事をしていた吉川さんの疲れはピークに達していたようだ。急いで病院に向かう途中、突然、飛び出してきた幼児を避けようとして、原田さんはハンドルを切り、そのまま電柱に衝突してしまった。近隣の人がすぐに救急車を呼び、担架で病院に運ばれたが、病院に到着した時にはすでに死亡していた。
 吉川さんが夫の死を知るのはもう少し後のことになる。難産の末に誕生したむつみちゃんは体重二千グラムと至って健康だったが、吉川さんは出産による体力消耗が著しく、しばらく安静が必要とされた。
 病院には、吉川さんの夫が死亡した報告は来ていたが、医師の判断ですぐには伝えられなかった。二日目に、吉川さんは元気を取り戻した。子供の顔がみたい。その気持が強かったのだろう。気持ちを奮い立たせて医師や看護師に、子供に会わせてくれるよう頼んだ。
 看護師さんに抱かれてやって来たむつみちゃんは、大きな泣き声をあげて泣いていたが、吉川さんに抱かれると、ピタリと泣き止んだ。
 夫の死を吉川さんが知ったのは、その日の午後だった。医師も看護師もためらったが、報せないわけにはいかなかった。
 「すみません。私の夫はまだ、こちらへ来ていませんでしょうか?」
 むつみちゃんが生まれることを楽しみにしていた夫が一向に病院へ姿を現さないことに、吉川さんは不安を抱いていた。それで尋ねたのだが、看護師はすぐには返事をしなかった。やがて医師が現れて、静かな口調で、吉川さんに夫の死を告げた。
 それを聞いた吉川さんは一瞬、呆気にとられた顔をして、むつみちゃんを抱いたまま、言葉を失った。その顔が歪み、泣き顔に変わるのはそのすぐ後だった。

 原田さんは、吉川さんが母子共に健康に出産したと聞いて喜んでいた。体力の消耗が激しい吉川さんが出産後、しばらく安静にしているということを聞いても、心配はしなかった。一日休ませれば大丈夫だと看護師に聞いていたからだ。
 だが、その後に、看護師から吉川さんの夫が交通事故で亡くなったと聞いた時は、驚きを隠せなかった。信じられない思いで、二度、三度、それは本当のことなのかと、看護師に確かめたほどだった。
 生と死、喜びと悲しみ、二つのことを同時に体験した吉川さんの胸中を思い図ると、原田さんは耐えきれないものがあった。吉川さんを励ましてあげなければ、そう思いながらも、吉川さんの病室に向かう気にはなれなかった。何と言っていいのか、言葉が見つからなかったのだ。
 原田さんは、昔から一点に集中することで悩みを解決してきた。その時も、絵を描くことに集中して、吉川さんのことをそれ以上、考えないようにした。だが、木々の間でスケッチを始めたものの気乗りがしなかった。鉛筆で風景をスケッチしているうちに、自分が何を描こうとしているのかさえわからなくなってきた。木を描こうとしているのか、草木を描こうとしているのか……。
 そのうちに何となくまどろんできてスケッチブックを畳み、目を瞑った。
 元気にグラウンドを走り回っている自身の情景が思い浮かんだ。汗が額から垂れていた。運動靴が埃にまみれ、膝に擦り傷があった。サッカーボールに飛びつくと、間髪を入れずシュートした。手ごたえがあった。ゴールにボールが飛び込み、それが決勝点になった。勝利の瞬間、原田さんは思わずガッツポーズをした。
 年齢がさまざまに入れ替わり、いくつもの年代の原田さんがグラウンドを巡った。幼い頃、小学生上級、中学生、高校生――。目を開けると車イスに座って木々の谷間に座している原田さんがいた。
 悲しいとは思わなかった。足を失っても人生が終わるわけではない。生きていることに原田さんは感謝した――。そうだ。吉川さんにそのことを告げよう。原田さんは急いで吉川さんの病室に向かった。

 気丈な吉川さんは、生まれたばかりのむつみちゃんを抱いて、通夜を行い、葬儀を行った。たくさんの人が参列し、夫の死を悼んでくれた。吉川さんは、喉まで押し寄せた悲しみを必死に抑え込みながら、淡々と参列者に対した。
 吉川さんが泣いたのは、葬儀が終わり、夫のお骨を抱いて家に帰ってからのことだ。むずかるむつみちゃんを寝かしつけると、その途端、涙の粒がとめどなく押し寄せ、しとどに頬を濡らした。
 あの日、絶望の淵にいた吉川さんは、病室を訪れた原田さんに励まされた。
 「生まれたばかりの赤ちゃんを悲しませないようにしてください。ご主人を失っても、あなたの人生が終わるわけではありません。赤ちゃんを生かし、あなたも生きるように頑張ってください」
 原田さんはそれだけ告げると、車イスを動かして静かに病室を去った。悲観していた吉川さんは、原田さんのことを思った。小学生の頃に病気で脚を失い、体調が万全でない中で、これまで必死になって生きてきた原田さんの半生を思うと、自分の悲しみがいかにも小さく見えた。しかも自分には娘がいる。夫を亡くしたことが小さいとは言わない。しかし、悲しんでも夫が帰って来るわけではない。娘のためにも、自分のためにも私は生きなければならない。そのことを吉川さんは強く思った。
 一週間後、吉川さんはむつみちゃんを連れて、原田さんを見舞った。原田さんは二、三日前から原因不明の高熱に冒され、ベッドで眠り続けていた。吉川さんがむつみちゃんを抱いて病室を訪れた時も、原田さんは高熱にうなされながらベッドに横たわっていた。
 「大丈夫ですか?」
 吉川さんが話しかけると、原田さんは薄目を開けて、
 「大丈夫です」
 と、しっかりした声で吉川さんに答えた。
 「時々、こうした高熱を出しますけれど、二日もすれば元気になります」
 原田さんは、吉川さんに心配をかけまいとしてか、熱のために赤らんだ顔を吉川さんに向け、薄目を開けてそう言った。
 「少し話してもいいですか」
 と吉川さんが尋ねると、原田さんは「大丈夫です。どうぞ」と途切れ途切れに言った。
 「娘の絵のことですが、お願いがあります」
 吉川さんはそ言ってう断ると、原田さんに向かって、
 「娘の絵を描いていただく件ですが、亡くなった夫も加えていただいて、家族三人の絵を描いてもらいたいのです。娘が大きくなった時、顔を合わせたことがなくても、自分にはお父さんがいた、そのことをわかってもらえるようにしたいのです」
 原田さんは、それを無理な注文だとは思わなかった。だから、息も絶え絶えに、ハァハァと熱い息を吐きながらでも、「わかりました」と答えた。
 翌日、原田さんは熱が引き、昨日とは打って変わって元気になった。元気になると、絵筆を持ちたくなり、いても立ってもいられなくなった原田さんは、吉川さん家族を描く準備を始めた。
 原田さんは、スケッチブックを片手に構想を開始した。今までの自分は、写真を撮るかのように絵を描いてきた。見たものをありのまま描く、木々であれ、草木であれ、海であれ、川であり、山であっても同様で、描くことで満足してきた。だが、それではいつまでたっても、どこまで行っても賞など獲れるはずがなかった。
 だが、今の自分は違った。むつみちゃんを中心とした吉川さん家族を描くことで、むつみちゃんに母の思い、父の思いを伝えようとしていた。愛をどのように描くか、どうすれば両親の愛を無理なく伝えられる構図ができるか、原田さんは頭を悩ませた。
 翌日、吉川さんがむつみちゃんを連れて見舞いにやって来た。吉川さんは原田さんが意外に元気なことに驚いて、思わず、「本当に大丈夫ですか?」と尋ねた。
 原田さんは、「いつものことなんです」と答えて、自分の病気は、時折、こうした高熱を出し、そのたびに命を賭けた戦いをするのだ、と吉川さんに話した。
 考えてみたら人の生命に、安全などない。いつどのような形で災いが降りかかってくるか知れないのだ。原田さんは、高熱から脱するたびに、ああ、今回も生きることができたと心から安堵するのだと吉川さんに話した。
 吉川さんは原田さんから説明を受けた、家族の絵の構図について、ある種の感動を覚えていた。原田さんが、言った言葉――。
「私は、今回の絵を描くことで、むつみちゃんに両親の無限の愛を伝えたい」
が耳から離れず、そうなれば嬉しいと心から思った。
吉川さんの夫には会ったことがなかったため、原田さんは吉川さんにご主人の写真を借りた。吉川さんのご主人は、実直な、それでいて目元にやさしさを称えた人だった。
 完成まで一カ月を要した。デッサンを終え、下書きをし、油絵具をキャンバスに塗る。
 緊張感を持続しながら、気を抜くことなく、原田さんは絵を描き続けた。ただ、絵を描くだけではない。むつみちゃんに両親の無限の愛を伝えなければならないのだ。それは、口で語るほど簡単なことではなかった。
 左側に吉川さんが立ち、その横にむつみちゃんを抱いた吉川さんのご主人が立つ。バックは、神社の境内にした。むつみちゃんの笑顔を中心に、吉川さん夫婦をどう描くか、それに頭を悩ませながら、原田さんは体力の限りを尽くして取り組んだ。
 夫婦の目の位置、体の位置、すべてがむつみちゃんに無理のない形で向いていなければならない。しかし、それは至難の技だった。
 思いつきや衝動で満足な絵ができるわけがない。無心になり、集中力を高め、精神を高揚させて取り組む。計算も働けば、意志も働く。原田さんは全知全能を傾けた。
 吉川さんに約束した完成の日、絵は出来上がった。
 吉川さんがむつみちゃんと共に原田さんの病室にやって来た時、原田さんは午後の陽だまりの中で、一人ベッドの上で外の景色を見つめていた。
 ガラス窓の向こうには、街の風景と白い雲が泳ぐ空、緑なす山の景色が混在していた。今までの原田さんならそれをすべて描ききろうとスケッチブックに描いただろう。でも、今の原田さんは違っていた。いつしか原田さんは、自分がこの風景を前にして何を思い、何を考え、何を描こうとしているか、それを整理できるようになっていた。

 原田さんの描いた絵を吉川さんが見た時、吉川さんが見せた驚きと感動の姿を原田さんは長い間、忘れたことがない。それを励みにして、原田さんは、『家族』と名付けたその絵をコンクールに出展した。
 年に一度開催される、神戸市主催のコンクールで、原田さんは生まれて初めて大賞を取った。車イスの画家として、一躍脚光を浴びた原田さんは、画家として名声を得、時の人となり、その後、次々と作品を世に送り出していた。

 『家族』の絵は、今、吉川さんの家の壁に飾られている。原田さんは、むつみちゃんの絵を描きながら、今度は、三歳になったむつみちゃんが、お母さんと亡くなったお父さんに愛を伝える番だと思い、それをテーマにして描き始めた。
 天真爛漫に公園を走り回るむつみちゃん。時々、思い出したかのようにお母さんに向かって手を振る、その姿を原田さんは丁寧にスケッチした。
<了>


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