余命九〇日のシゲやんが笑ったよ
高瀬 甚太
「誰にも言わないで欲しいのやが――」
と、断って、鈴木繁和こと、シゲやんは、慎重な口ぶりで話し始めた。その場にいたのは、深井五郎と田奈明俊、三井貴志の三人である。
「わしの命は、持って後三カ月ほどと言われているんや」
エッと最初に声を上げたのは、三井であった。深井も田奈ももちろん驚いた。ただ、驚きを声で表すか、表情で表すか、態度で表すかの違いがあっただけで、三者三様同時に驚き、シゲやんの顔を見つめた。
シゲやんが病院から退院したのは、ほんの一週間前である。てっきり体調が戻って全快したのだとばかり思った、三井や深井、田奈を含むえびす亭の面々が、シゲやんの退院祝いを盛大に祝ったのが、つい二日前のことである。その時、シゲやんは何も言わず、「ありがとう」の言葉を繰り返して、酒という酒を片っ端から呑み干して、酒豪ぶりをいかんなく発揮した。
深井たち三人が、シゲやんから電話を受けたのはその二日後のことであった。
「シゲやん、どないしたんや。神妙な顔をして」
深井五郎、通称、ゴロゴロがシゲやんに聞いた。それほど、その時のシゲやんは深刻な表情をしていた。
「いやな。きみたちには、これまでずいぶん世話になった。誰にも言わないでおこうと思っていたが、やっぱり、黙っているわけにはいかん。そう思い直して電話をしたわけや」
「シゲやん。もったいぶらんと早う言いな。苛々してくる」
せっかちな田奈こと、タナボタが鈴木を急かす。
「ごめん、ごめん、タナボタ。もったいぶっているわけやないんや。言いづらくてなあ」
シゲやんが頭を掻く。しかし、深刻な表情は変わらない。
「わし、健康には人一倍神経を使う方やから、今まで風邪一つひいたことがないというのが自慢やった。それが去年の春、検診を受けたら、医者が『再検査するから来てください』と言うんや。驚いたけど、大したことないやろ、そう思っていたらびっくりポンや。医者の奴、『すぐ入院しましょう』と言う。『待ってください。わし、どこか悪いのでっか』と聞いたら、『大腸がんです。もう手遅れかもしれません』と抜かしてけつかんのや」
「大腸がん!?」
三井こと、みっちゃんが悲鳴のような声を上げた。
「仕方がないから入院したがな。何かの間違いやと思うて先生に、よう調べてや、わし、健康にだけは自信があるんや、と言うたけど、先生は、データを持ってきて、能面のような顔して、あれこれ説明しよる。『末期がんです』。あっさり言って、できるだけ頑張りましょうと、このわしを励ましよる。ようやく退院できたのが、つい最近のことや。てっきり全快して退院できたと喜んでいたら、医者のやつ、『病院ではもうどうにもなりません。自宅療養に切り替えます』と、感情の乏しい冷たい声で言いよる。わし、先生に言うてやった。『先生、わし、こんだけ元気やねんけど』。手と足を思い切り動かしてみせた。そしたら医者の奴、『奇蹟が起きるよう祈りましょう』やて。余命いくばくもないなんて、人には言われへん。わし、同情されるの大嫌いやから」
シゲやんが泣き出した。つられてみっちゃんも泣き、ゴロゴロもタナボタもホロホロと涙をこぼした。同年代の四人は、これまで行動を共にすることが多かった。リーダー格はシゲやんで、参謀がゴロゴロ、みっちゃんとタナボタは、二人の言うことに何でもかんでも賛同し、一切、反対などしない。
五十五歳になる四人が知り合ったのは、えびす亭の店の中でのことだった。それまではそれぞれ別々にえびす亭に通っていた。ある日、隣同士になったシゲやんとゴロゴロが、何気なく会話をしたところ、同年代とわかって意気投合した。
「わし、南沙織が大好きやった。あの頃、小柳ルミ子、天地真理が三人娘で一世を風靡していた。その中でわし、シンシアが一番好きやった」
シゲやんの言葉に呼応するかのようにゴロゴロが言った。
「シンシア、さすがや。南沙織の愛称やったなあ。わしは天地真理のファンやった」
二人がそんな話で盛り上がっているのを耳にしたタナボタが、割って入った。
「なんや、あんたらも一九六一生まれかいな。わしもそうや。わしは山口百恵ちゃんのファンやった」
みっちゃんも割って入った。
「おれ、桜田淳子、それと麻丘めぐみ」
みっちゃんが身振り手振りで、麻丘めぐみの歌を歌う真似をする。
「わたしのわたしの彼は~、左利き。わし、左利きやねん」
というようなわけで、五十五歳の四人は仲良くなった。えびす亭でも、この四人は、常に四人固まって呑むのが常だ。仲がいいことこの上なく、喧嘩をしているところなど見たことがない。
シゲやんがガンに罹って余命いくばくもないことを聞いた三人は、シゲやんのために何をするか、何ができるかと、シゲやんと別れた後、真剣に話し合った。
「盛大に見送ってやろうや。シゲやんが亡くなったら、でっかい花火、打ち上げるんや。神輿にシゲやんの遺体を乗せて練り歩くのもええなあ」
ゴロゴロの言葉に、みっちゃんが怒った。
「アホッ、葬式の相談してるわけやない。どないしたら助けられるか、それを相談してるんや。シゲやんを死なせるわけにはいかんやろ」
みっちゃんにしては厳しい言い方だった。それほど、みっちゃんはシゲやんのことを真剣に心配していた。
「余命九十日か。医者が放り投げるぐらいやから、相当悪いんやろな。何とかしたいけど、わしらにはなんともできん」
タナボタが悲観的な言葉を吐いた。タナボタも悔しいのだ。
「どうやったら、シゲやんを死なせずに済むんや」
ゴロゴロの叫び声が響き渡った。先ほどまで、シゲやんの葬儀を考えていたくせに、ゴロゴロは、他の誰よりも多くの涙を流していた。
「俺たちが悲しんでいたら、シゲやんがよけい悲しむやろ。シゲやんの方がずっと辛いんや。俺たちがするべきことは、シゲやんを楽しくしてやることや。違うか?」
タナボタの言葉に、ゴロゴロとみっちゃんが大きく頷いた。
「問題は、どないしてシゲやんを楽しませてやるかや。みっちゃん、どない思う?」
タナボタの質問に、みっちゃんが答えた。
「俺は、シゲやんのために余命九十日を完全燃焼させてやりたい」
「完全燃焼?」
タナボタが首を傾げた。
「そうや。充実した九十日を過ごさせてやるんや。たとえば――」
後の言葉が出て来ない、そんな、みっちゃんにゴロゴロが文句を言った。
「シゲやんは健康な人間やない。闘病中の人間や。そんな人間に無理させたら死期が早まるだけや」
その時、突然、タナボタが大きな声を上げた。
「俺はこう思う」
ゴロゴロとみっちゃんがタナボタを見つめる。三人の中ではタナボタが一番高学歴だ。三流とはいえ、大学を出ている。ゴロゴロとみっちゃんは高卒だ。
「シゲやんはもちろん大変だけど、奥さんや子供たちはもっと大変やと思う。何といっても大黒柱のお父ちゃんを失うわけやから。シゲやんも家族のことが心配で死んでも死に切れんと思う。シゲやんの友だちである俺らには、シゲやんの家族を支えてやる必要がある。シゲやんが心を残して死ななくてもいいように、わしらが家族の手助けをしていくんや」
シゲやんは五人家族だ。惚れて惚れぬいて一緒になった奥さんと、三人の息子がいる。長男はすでに結婚して東京で暮らしている。次男は家にいて東大阪の会社に勤務していた。末っ子は、学生寮にいて、仙台の大学に通う四年生だ。
三人は、一度だけシゲやんの家に招待されたことがあった。えびす亭でしこたま呑んだ、その帰り、シゲやんが、「うちの家に寄ってくれ。自慢の女房に会ってくれ」と酔っぱらって言うので、仕方なく家に寄った。
午後十一時を過ぎた時間だったから、少しだけ寄って、すぐに帰るつもりだった。ところが、シゲやんがなかなか帰してくれない。奥さんに申し訳ないと思ったが、
「おうちの方へ連絡されて、どうぞ今日はごゆっくりしてくださいね。この人、滅多に人を連れてくることなどないのに、よっぽどあなた方のことが好きなのでしょうね。ほんとに嬉しそうな顔をしています」
と、奥さんが笑顔を湛えて言うので、つい、三人共、終電車まで、ゆっくりしてしまった。あの時のシゲやんの奥さんの笑顔が三人共、忘れられなかった。
みっちゃんは、あの時、自分の女房とずいぶん違うなあ、とシゲやんの奥さんを見て思った。みっちゃんの女房は、みっちゃんより年上ということもあって、かかあ殿下で気が強い。はっきりした物言いをするから、みっちゃんが友人を連れて帰ると大変だ。不作法な友人には、平気で叱るし、酔って癖の悪い人間には、出て行ってくださいと大声で叱る。シゲやんの奥さんのようなやさしさや気遣いは微塵もない。それでもまあ、みっちゃんは、女房のそんなところに惚れて一緒になったから文句は言わない、というより言えない。
ゴロゴロは、再婚して二度目の奥さんをもらっているが、一度目も二度目も悪妻で、評判が悪い。女運が悪いにもほどがあると、みんなに言われているが、それでもゴロゴロは、一度目の奥さんより二度目の方がまだマシだと思っている。一度目の奥さんは、浮気がひどくて、三年目で別れた。二度目の奥さんは、浮気をしないだけマシだとゴロゴロは思っている。金使いが荒いのだけが問題なだけだ。
タナボタは結婚が遅かった。見合いで結婚したのが三十八歳の年、相手は、良家の子女という、ふれこみだったが、これがとんだ良家の子女で、掃除はしない洗濯はしない、料理はすべて店屋物というぐうたら女房で、おかげでタナボタは家に帰ると大忙しだ。ただ、子育てだけは熱心で、三人の子供に恵まれ、それぞれ立派に成長している。
シゲやんが自慢するだけあって、シゲやんの奥さんは、よくできた人だった。常にシゲやんを立て、陰でシゲやんを支える良妻で、しかも美人と来ている。シゲやんが女房を自慢する気持ちがよくわかる。
シゲやんとは七歳違いで、新入社員として入社してきた奥さんに一目惚れしたシゲやんが、何度もアタックをかけ、そのたびにふられ、それでもくじけず、トライし続けた結果、奥さんが白旗を上げて、シゲやんと一緒になることを承諾したという、エピソードがある。だからシゲやんは、結婚後も、奥さんに頭が上がらない。
「奥さんは、シゲやんが余命九十日と知って、どう思っているやろか」
タナボタは、まず、そのことが心配になった。ショックで奥さんが病気になってしまうのではないか、その危惧がタナボタにはあった。それはタナボタだけでなく、みっちゃんもゴロゴロも同様に心配していたことだった。
「俺たちに何ができるやろか?」
みっちゃんが呟くようにして言うと、タナボタもゴロゴロも、大きなため息をついた。
シゲやんは、退院祝いをして以来、えびす亭に姿を見せていない。みっちゃんやゴロゴロ、タナボタは、そんなシゲやんのことが心配でならない。三人で呑んでいてもいつもの元気がなかった。シゲやんに電話をしても返事が返って来ない。家に行って様子をみることも考えたのだが、何となく行きそびれて半月が経ってしまった。電話が通じていたら、「今から遊びに行っていいか」と聞けるのだが、連絡がつかない状況だったから、突然、訪問するのも気が引けた。三人共、意外と小心者だった。
「よう、久しぶり」
えびす亭のガラス戸がガラッと開いて、聞きなれた声がしたので、みっちゃんは思わず振り返った。シゲやんが手を振って立っていた。
「シゲやん!」
みっちゃんの声に驚いて、一緒に呑んでいたゴロゴロとタナボタも振り返った。
「お前ら、元気ないやないか」
シゲやんが、ポンポンポンと三人の肩を叩いた。
「シゲやん、こんなとこへ来て大丈夫なんか?」
ゴロゴロの言葉にシゲやんが笑って言った。
「わしの行くところ、他にあるか? ここしかないやろ」
「そやかて、身体の方――」
タナボタの言葉に、シゲやんが頭を下げた。
「みんなに心配かけて本当にすまんかった。連絡も何回か、もらっていたようやが、別の病院で集中治療してもろていたので、何の連絡もできんかった」
「集中治療って、それ、何ですのん?」
みっちゃんが不思議に思って聞いた。確か、シゲやんは病院から見放されて自宅治療することになっていたはずだ。それなのに集中治療とは――。
「余命九十日や。何をしても無駄やとあきらめていたんやが、女房が、いろんな病院に当たって、わしの病状を説明して、何とか助かる方法がないかと、聞いて回ったらしい。その中で一院だけ、大学病院の医師が、一度、診てあげると言うことになって、その病院へ再検査のために半月ほど入院した」
三人が声を揃えて聞いた。
「それで、何か変化があったんか?」
「いや、まだ、わからん。ただ、その時、大学病院の医師が検査の時、話してくれた。『人間には定められた寿命というものがあります。寿命にはどうやっても逆らえません。どんなに最悪の状態であっても、あなたの寿命が終わりを告げていなければ奇跡が起こる可能性があります』と。医師はわしの容態を診て、助かる確率がほとんど残っていないと思ったという。それでも再検診をして、どうにかしたいと思ったのは、女房の熱意に打たれたからだ、と言っていた。女房は医師に言ったらしい。『余命九十日と主人は言われています。でも、私は、たとえ一日でもいい、主人の命を生きながらえさせてやりたいと思っています。私にとって主人は、この世の中で一番大切な人です。もっとも失いたくない人です。私はそんな主人にまだ、何のお礼もしていません。少しでも主人を生きながらえさせて、満足の行くお礼をしたい。私の欲をかなえさせてください』。
医師は、力の限りを尽くして頑張ると約束したと、わしに言った。検査を終えて今日、病院を出てきた。帰り道、女房がわしに言うんや。『お友達に会いたいのでしょ。えびす亭にお寄りになったらどうですか。ただし、お酒は一口だけ、会って話をしたら、すぐに家に戻ってくださいね』と。わし、今日はあんたらに会うためにだけやって来た」
シゲやんは、その言葉を吐くまでに三度、声をつまらせ、二度、泣いた。みっちゃんもゴロゴロもタナボタも、耐えきれなくなって大粒の涙をこぼした。
えびす亭は、それほど大きな店ではない。どこにでもあるような立ち呑みの店だ。いつも人でごった返していて、悲喜こもごも、人生の哀歓に満ちている。涙で酒を呑む者もいれば、喜びに満ちた表情で呑んでいる者もいる。傷を舐めあい、互いに励まし合う、そんな光景も珍しくはない。そんな吹き溜まりのような店だが、友を慕い、友を慈しむ気持ちに満ちている。シゲやんの深刻な病状を前にして、三人はもとより、えびす亭の他の面々やマスターまでもが気に病んでいた。
「わしは、命が尽きるのを怖いとは思わへん。ただ、女房が心配なだけや。わし、今でも女房のことが大好きや。そやから女房を悲しませたくない」
シゲやんは、そう言って、その日、一杯の酒も口にせず、三人の呑み代を支払って店を出た。
みっちゃんもゴロゴロも、タナボタも何も言えず、店を出て行くシゲやんの背中を黙って見送った。
どんな言葉も、その時の崇高なシゲやんの背中に似つかわしくないと三人は思っていた。シゲやんもまた、三人の気持を充分すぎるほど受け止めていた。言葉など、単なる蛇足に過ぎない。そう思っていた。
――秋晴れの雲一つない空の下で、シゲやんの葬儀が行われた。みっちゃんもゴロゴロも通夜、葬儀に出席し、手伝いをした。タナボタは、出張があって葬儀の終わりの方になってようやく列席することができた。
えびす亭にシゲやんが顔を出したのは、あの日の夜が最後になった。三人は、その後、何度かシゲやんを見舞ったが、徐々に生気を失って行くシゲやんを見るのが辛く、また、シゲやんも弱って行く自分の姿を見られるのが嫌だったようで、三人は会いたい気持ちを堪えて、家に行くのを極力、控えた。
余命九十日とされた日の前日、シゲやんの奥さんから三人は、それぞれ連絡をもらった。
「主人が会いたいと申しております。申し訳ありませんが、来ていただけないでしょうか」
落ち着いた口調の奥さんの言葉に、三人はすぐに承諾したものの、それほど深刻な事態だとは考えていなかった。
三人揃ってシゲやんの家に行くと、玄関で奥さんが出迎えてくれた。奥さんは丁重に出迎えの挨拶をすると、シゲやんの部屋に三人を通した。
部屋の中央に敷かれた布団の上にシゲやんが目を瞑って横たわっていた。三人がシゲやんの周りに座ると、気配に気づいたシゲやんが目を見開いた。
「シゲやん、どないや?」
みっちゃんが聞くと、シゲやんがゆっくり頷いた。
「また、一緒に呑みたいなあ、シゲやん」
ゴロゴロの言葉にシゲやんが笑みを見せた。
「シゲやんがおらんと寂しい。早う、ようなって帰って来てくれ。えびす亭のみんなもそう思うとる」
タナボタが泣きべそをかいたような表情を見せると、シゲやんの眦から涙が零れ落ちた。
シゲやんはもう言葉を交わす力もないようだった。シゲやんらしい温かな笑みを漏らすと、三人を交互に眺め、すっかり細くなった手をそれぞれの元に差し出した。
力のない手を握ったみっちゃんは、こらえきれずに、
「シゲやん!」
と叫んで泣いて突っ伏した。ゴロゴロは、握った手を力強く握りしめ、涙で溢れた眼でシゲやんをじっと見た。シゲやんの手に頬ずりしたタナボタは、肩を震わせ、その手に涙を滴らせた。
それが、三人のシゲやんを見た最後の姿になった。家を出ようとする三人に、シゲやんの奥さんが、深く頭を下げてお礼を言った。
「ありがとうございます。主人は、本当に嬉しそうで、いい笑顔を見せてくれました」
笑顔で話すシゲやんの奥さんに、みっちゃんがいたわりの言葉を返した。
「奥さん、シゲやんは、自分の命より奥さんのことが心配だと話していました。奥さんもどうか、お体を大切になさってください」
「ありがとうございます」
奥さんはそう言って再び頭を下げ、三人が家を出て行くまで顔を上げなかった。
葬儀の途中、みっちゃんが何度も嗚咽して泣いた。ゴロゴロはそんなみっちゃんの肩を抱いて、「泣くなよ。シゲやんが見ているぞ」と励ました。しかし、みっちゃんは泣きやまなかった。
遅れてやってきたタナボタは、シゲやんの遺影を見つめて放心状態でいた。みっちゃんとゴロゴロが傍に来ても気付かない様子で、じっと遺影を見つめて身動き一つしなかった。
人の死は、いつも悲しみしか与えない。走馬灯のように脳裏を巡る故人の思い出が、悲しみをさらに増幅させた。
大学病院の医師の努力の甲斐もなく、シゲやんは余命九十日と宣言された、ちょうどその日に亡くなった。奇跡は起きなかったが、シゲやんは満足した様子だったと、三人は、四十九日の法要の日、奥さんから聞かされた。
「精一杯、生きる努力を主人と二人三脚でしました。残念ながら主人は亡くなりましたが、私の心は満たされています。人生とは何かと聞かれた時、かつての私は何も答えることが出来ませんでした。でも、今ははっきりと答えられます。人生は愛を見つける旅だと。私は、この三カ月、主人の死と向き合って暮らしてきました。何とか少しでも長く生かせてあげたい。その一心でした。でも、大学病院の医師から、主人が亡くなる一カ月前、言われました。『努力をしてもどうしようもできないことがこの世の中にはたくさんあります。その一つがご主人のご病気です。一生分の愛情をこの一カ月間、ご主人に注いであげてください。それがご主人の死への恐怖を救う唯一の方法ですし、それがあなたのこれからの糧になります』と。その通りだと思いました。主人は最期に、私に言ってくれました。『愛しているよ』と。その言葉がこれからの私の生きる糧になります。本当にありがとうございました」
奥さんはそう言って三人に再び深く礼をした。
法要の帰り道、三人は、黙したまま駅に向かった。三人は、心の底からシゲやんを羨ましく思った。愛に満たされた死は、愛のない長い人生を歩むよりどれだけ幸せか、そう思っていたからだ――。
<了>