キラリの目指すもの
高瀬 甚太
K建設は、突出した成績を誇る上場企業のゼネコン会社だ。橋本希来里はこの春までその会社の秘書課に勤務していた。希来里は美人でスタイルがよく、おまけに気立てがいいと評判の女性であった。明るくて誰にでも好かれ、会社の中に男性社員の親衛隊ができるほど彼女の人気は高かったが、不思議と希来里のことをやっかんだり、妬んだりする女性はいなかった。彼女なら仕方がない。そう思わせるものがあったからだ。
橋本希来里がこの四月、突然、会社に辞職願を提出した時、彼女を知る社員の殆どが驚きを隠せなかった。太陽が消えた――、そんな風に評して嘆き悲しむ男性社員が少なくなかった。希来里の上司である秘書室長は、かなりの時間をかけて彼女を慰留したようだが、彼女の決意は固く、翻意させるに至らなかった。
なぜ、希来里は退職することになったのか、その事情を知っているのは同期の笠井美恵子だけであった。
昨年の秋のことだ。笠井は、北新地の高級クラブ『サファイア』でアルバイトをしてみないかと橋本希来里を誘った。高級な店が立ち並ぶ北新地でも『サファイア』は最高級と言われるクラブであった。その頃、笠井はその店のオーナーである近藤英輔と懇意にしていた。
「店のナンバーワンがスカウトされて他の店に行ってしもうた。おかげで売り上げが落ちて困っているんや」
と、オーナーの近藤から相談を受けたのがきっかけで、同期の希来里に夜のアルバイトをしてみないかと誘いをかけたのだ。
K建設は社員の就業規則で社員の副業を厳しく禁止している。橋本希来里は当然、笠井の誘いを断った。しかし、笠井はあきらめなかった。笠井には笠井なりの事情があったからだ。
『サファイア』のオーナーである近藤は他にも数店の飲食店を経営するやり手の経営者だった。笠井は二年前、羽振りのいい近藤と肉体関係を持ち、愛人関係になった。近藤は五二歳という年にも関わらず、妻の他に数人の愛人を抱える艶福家で、笠井はそんな近藤を利用して、いつか店を持ちたいと野心を持っていた。その野望を実現するためにも、近藤の寵愛を一身に受ける必要があった。橋本希来里を『サファイア』に送り込むことは、笠井にとって近藤に貸しを作る最大のチャンスと言えた。
橋本希来里は、愛媛県の進学高校を卒業して大阪の国立大学に入学、エリートコースを突き進んできた才女で、大学時代も英語の他、フランス語、中国語など数か国語をマスター、教授からも一目置かれ、大学院に進むよう勧められたが、それを固辞してK建設に就職を決めた経緯がある。
希来里の父は愛媛県在住のM大学の教授で、母もまたM大学の准教授であった。兄はT大学を卒業して大学院に入り、現在はアメリカに渡り、宇宙工学の研究所で研究を続けている。
何の不足もない生活と、秘書として高給を得ている希来里に、いかに高級とはいえ、バーで男を相手に働くことなど考えられなかった。
だが、笠井はあきらめなかった。希来里の写真を見せた際の近藤の反応が鋭く、近藤は、一日も早くこの娘を『サファイア』で働かせてくれ、と笠井をせっついた。その際、近藤は笠井に対して、うまく行けばお前に店を持たせてやると甘言を授けた。笠井が必死になるのも無理はなかった。
高校時代、希来里は学校中のマドンナであった。大学に入ってからも同様で、常に男たちに取り囲まれ、交際を申し込む男も多かったが、希来里はあえて特定の男と付き合ってこなかった。希来里には、常に理想の男性像というものがあった。彼女はまだ、その理想に叶うような男性とは出会っていなかった。
希来里と同期入社の笠井は、希来里が好きであった。その反面、何の欠点もない完璧とも思われる知性と美貌を兼ね備えた希来里を壊してみたいと思うサディスティックな欲望も心の内に有していた。
希来里は秘書課だが、笠井は営業課で主に事務を担当していた。そのため、希来里と接触するタイミングは少なく、唯一、希来里と会えるのが昼食の時間帯であった。
社員食堂で笠井は希来里を待った。希来里が現れたのは昼休みの時間が30分を切ったころであった。いつもは秘書課の同僚とやって来るのだが、その日は一人だった。チャンスと思った笠井は、希来里に近づき、「久しぶりね」と声をかけた。
希来里は笠井に笑顔を向け、アルバイトの誘いを断ったことをまず詫びた。そして、「一緒に食べようよ」、と言って笠井に自分の隣の席に座るよう勧めた。
希来里と一緒にいると、男たちの視線が自然に集まって来る。笠井はそれを感じていた。笠井も決して不美人ではなかった。スタイルもよく、肉感的でセクシーな姿態を持っていた。それを近藤に認められ、彼の愛人になったほどの魅力的な女性だ。その笠井でさえ、希来里と一緒にいるとくすんでしまう。それほど華やかな魅力が希来里にはあった。
「この間の話だけど、やっぱりダメかな?」
食事をしながら笠井は希来里に尋ねた。
「ごめんね。でも、アルバイトは会社で禁止されているし、私、男の人と一緒に酒を呑むのはあまり好きじゃないの」
やっぱりだめか――。そう思いながらも笠井は希来里をあきらめきれないでいた。そこで一計を画策した。
「ねえ、橋本さん。仕事が終わってから一緒に食事に行かない?」
と、希来里を誘った。希来里は少し考えるそぶりをしたが、
「そうね。また行きましょううね」
と、愛想よく答えて席を立った。追いかけるようにして席を立った笠井は、
「一度だけ付き合って、お願い!」
と、希来里に向かって手を合わせた。希来里は、困ったような顔をして、
「じゃ、一度だけお付き合いしますね」
と返事をした。それを聞いた笠井はすかさず、
「今度の金曜日開けておいて。お願い」
と畳み込むように言った。希来里は苦笑して、わかったわ、と頷いて承諾した。
K建設の始業時間は午前9時半、終業時間は午後5時半。金曜日のその日、笠井は社の入口で希来里を待った。用ができたと言って断られないかと気が気ではなかったが、約束通り、希来里はやって来た。白いスーツに身を包んだ希来里の美しさは、同性の笠井が見てもほれぼれするほど美しかった。
笠井は、おいしいお店があると言って、東心斎橋にある行きつけのフレンチレストランに希来里を連れて行った。安くはないけれどそれほど高くもない、その店の料理の味は洋食好きのキラリを十分満足させた。一時間程度その店で食事をして過ごした後、笠井はスイーツの美味しい店があると言って、希来里を心斎橋近くの店に案内した。
「今日はありがとう。とても美味しかったわ」
希来里のスイーツ好きを以前から知っていた笠井は、希来里の満足した表情を見て甘えるようにして言った。
「ね、もう一軒だけ付き合ってくれない」
と、希来里を誘った。時間はまだ八時を過ぎたところで十分時間はあった。腕時計を見た希来里は、
「じゃあ、もう一軒だけね」
と念を押すように言って笠井の後に従った。
笠井は、希来里を近藤の経営する北新地の高級クラブ『サファイア』に案内した。すべて笠井の計画通りに進んでいた。多少の後ろめたさはあったが、店を持つという野望の前にはすべてのことが小さなことのように思えた。
一流の紳士が利用するというふれこみの店だけに店内は高級感にあふれ、ホステスたちの応対は気品にあふれていた。
十人ほどが座れるカウンターと、広々とした豪華なボックス席。そのボックス席に案内されたキラリは場違いなところに来たと思い、早くこの店を出たいと笠井に訴えた。
「この店のオーナーがもう少ししたら来るから、その人が来たら出るね」
笠井は希来里をなだめすかすようにして席に座らせると、酒を勧めた。だが、希来里は笠井の勧める酒を一滴も口にしなかった。一刻も早くこの店を出たい、希来里の気持ちが笠井にもひしひしと伝わってきた。
「いやぁ、いらっしゃい。よく来てくださいました」
酒焼けした嗄れ声が聞こえ、一人の男が希来里の前に立った。五十過ぎと思われるその男は、独特の風貌といかつい体で初対面から希来里を圧倒した。
「お噂には聞いておりましたが、ほんま、おきれいな人ですなあ」
希来里と対面するようにして座った男は、希来里を上から下まで無遠慮に眺めまわすと、露骨に舌舐めずりをしてみせた。
「紹介するわ。この店のオーナーの近藤さん。近藤さんはこの店の他にもたくさんの店を経営していらっしゃる有名な実業家なのよ」
笠井が近藤を紹介すると、近藤は、希来里を見据えたまま、いくつもの店を経営する経営者とは思えないほどの低姿勢で挨拶をした。希来里は「初めまして」と小さな声で挨拶をしたものの、居心地の悪さは隠せないでいた。それを察知した近藤は、
「どうです。この店を出て一緒に食事に行きませんか」
と希来里を誘った。希来里は笑顔で、
「食事は済ませましたので、今日はこれで失礼します」
と近藤の申し出を丁重に断った。
「そうですか。仕方がありませんな」
意外にも近藤はあっさりあきらめた。希来里は席を立つと、座っている笠井に、
「ごめん、明日早いから、今日はこれで失礼するね」
と断って店を出ようとした。すると、近藤が希来里の後を追いかけてきて、
「せっかくですから送って行きまひょ。車を回しますさかいにそこで待っててください」
押しの強い口調で言った。
「いえ、電車はまだありますし、結構です」
と、希来里は断ったが、近藤はあきらめなかった。
「あきまへん。心配やったらこの子も一緒に乗りますから安心しておくれやす」
笠井を指さして、近藤は軽くウインクをして見せた。笠井はその時になって初めて不安を感じた。近藤が使ういつもの手だったからだ。笠井も近藤の手に引っかかって車に乗せられ、強引にホテルに連れ込まれ、そこでレイプまがいに襲われて近藤の女になってしまった。
「近藤社長、橋本さんは嫌やと言うてます。今日はこのまま帰してあげてください」
笠井が言った。近藤の顔が大きく歪み、一瞬、その表情に凶暴さを覗かせたが、しかし、それはすぐに収まった。
「そうでっか。それは仕方おまへんな。気いつけて帰っておくれやす」
笑顔を浮かべながらも立腹した様子を隠せない近藤は、苛々した様子で店の中へ戻って行った。
近藤の後姿を見送りながら、笠井は希来里と共に店を出た。北新地は夜が更けるほどに華やかになり、一層、賑わいを増す。派手な色のドレスを着たホステスが頻繁に往来する通りを抜け、駅に続く道を急ぎながら笠井が言った。
「ごめんね、橋本さん。私、あの店であなたにアルバイトをさせようと思って、今日、あなたを誘ったの。オーナーが会いたいというものだから紹介したけれど――」
希来里は首を振って、「いいのよ」と笑顔で言い、笠井を責めなかった。
「あなたのおかげで助かったわ。今日はありがとう。これからもお友達でいてね」
手を振って去って行く希来里を見送りながら、笠井はその時、店を持つことはあきらめることにしよう、と自身に言い聞かせ、同時に近藤との別れを決心した。
別離の決心をした笠井だったが、近藤がどんなことを言い出すか不安で仕方がなかった。それでも言わずにおれなかった。心の中に鬱積した塊を吐きだすようにして、近藤に会った笠井は言った。
「今日でお別れさせてください」
近藤は、じっと笠井を見つめ、フンと鼻で息を吐いた。
「おまえの体にもそろそろ飽きがきたところやった。ええで。その代わり手切れ金は払わんからな」
と、うそぶいて、近藤は肩を揺らしながら去って行った。心配したことは何も起きなかったが、落胆の思いが片一方にあった。それでもそれは一時的なものだった。すぐに笠井は元気を取り戻した。
近藤と別れた笠井は将来設計を立て直すことにした。これまで男に寄りかかって生きてきた人生を自力で生きて行く人生に変えて行こうと思うようになったのだ。そのきっかけを作ったのは希来里の存在だった。
近藤の件が収まってしばらく後のことだ。仕事を終え、帰宅途中の笠井は、地下鉄本町駅の構内で偶然、希来里を見かけた。希来里は、スーツをラフな服装に着替え、早足で改札口を抜けた。希来里がどこへ向かおうとしているのか、気になった笠井は、希来里の後を追いかけることにした。
希来里は、本町の一角にある、小さなビルに入って行くと、エレベータに乗り、そのまま降りて来なかった。エレベータの止まった階を確かめると五階になっていた。そのフロアには『みどりの託児所』と案内板に表示されていた。
笠井は希来里を追ってエレベータで五階に上がると、『みどりの託児所』と書かれたドアの前に立った。希来里がなぜこの部屋へ入ったのか、それを知りたいと思った。
ドアの中から幼い子供たちの声が聞こえてくる。泣き声、笑い声、むずかる声――。さまざまな子どもの声を耳にして、笠井はもしかして――、と思った。でも、笠井はその考えをすぐに打ち消した。K建設の秘書課は花形で、誰もが羨む仕事だ。秘書課におれば、それだけで最高の縁談が舞い込んでくる。今までの秘書課の人がすべてそうだった。しかも、彼女はK建設の華だ。放っておいてもいい縁談がやって来る。
笠井はその日、希来里がビルを出て来るまで、ビルの入口で待った。どうしても希来里に聞いてみたかった。――何をしているのかと。希来里は午後10時を少し過ぎた時間になって、ようやくビルから出てきた。希来里を見つけた笠井が、希来里に近づいて声をかけると、希来里は驚いて、「どうしたの?」と聞いた。それには答えず笠井が逆に聞いた。
「橋本さん、ここで何をしていたの?」
笠井に聞かれた希来里は、明るい声で
「勉強をさせてもらっているの」
と答えた。
「勉強?」
笠井が聞くと、希来里は明るい声で答えた。
「『みどりの託児所』は、働くお母さんが幼い子供を預ける施設なの。三歳ぐらいまでの子供をここで預かって世話をしているの。預けているのは、離婚して一人で子育てしているお母さんが大半で――」
「でも、あなた、そんなところで一体何を勉強しているの?」
希来里は、笠井の疑問にすぐには答えなかったが、しばらく沈黙した後、
「誰にも言わないでくれる」
と、断って説明を始めた。
「私、ずっと自分のためだけに頑張って来たの。成績を上げる、いい学校に行く。いい会社に入る――。でも、会社に入ってしまったら、目標がスッと消えてしまったわ。会社の中で自分に出来ることは知れている。この先、自分は何を目標に頑張ったらいいだろうか。そんなことを考えているうちに、いつしか自分のために頑張るのをやめよう、そう思うようになったの。自分のために頑張ることをやめて、人のために頑張ろうと思うようになったわけ。そうすると私の中に新たな目標が生まれたわ」
「人のために頑張る――?」
「そう、それが私の今の目標になったの。そうすると、人生がすごく楽しくなってきた。こんな自分でも人の役に立っている、そう思うと生きていることが楽しくなってきたの」
希来里の目の輝きが、今の希来里の心境を言い表しているように笠井には思えた。
だが、笠井には、それがどうしても解せなかった。いい男を見つけて、結婚して、家族を持ち、主婦になり、母になって幸せに暮らす、それが女性の幸せであり、真の目標だとしたら、彼女はそれを問題なく手に入れることのできる稀有な人間だった。そんな彼女が人のためになどと言い出すなんて――、なぜだろう、一体、何があったのか。
「橋本さんは、結婚を考えていないの?」
笠井の質問に、希来里は笑顔で答えた。
「考えないことはないわよ。だって女ですもの。でも、そのためだけに生きたいとは思わないの。いつかいい人が現れて、恋をして結婚して――、でも、それは縁であり運命だと思うから、神様にお任せするしかないと思っているの。大切なことは、自分が生きてきた、その証しを見つけたいということ。そのために私は頑張りたいと思っているの」
希来里の強い志を見て、笠井は思わず自分を恥じ入った。近藤のような男に体を許し、その男に取り入って店を持ちたいと野心を抱き、キラリを男の毒牙にかけようとした。自分のエゴのためなら簡単に他人を騙し、利用しようとしていた――。
でも、と笠井は思う。口でどんなに立派なことを言っても、そんなもの欺瞞ではないか。本心は自分が可愛いはずだし、自分に利益のないことなどしようとは思わないはずだ。希来里だってきっとそうだ。人のためになんて、きっと、自分の本心を誤魔化しているだけに過ぎない。
笠井はそう信じて無理やり自分を納得させていた。
どうせすぐに通わなくなる――。そう思っていたが、その後も希来里は、仕事を終えるとスーツからラフな服装に着替え、『みどりの託児所』に向かう。それは季節が変わっても変わることはなかった。
希来里が、会社へ辞表を提出したという噂は社内中にすぐに広まった。
結婚するらしい、いや、もっといいところへスカウトされた――。ありとあらゆる噂が社内を駆け巡ったが、誰も希来里の退職の真の理由を知っている者はいなかった。
唯一、笠井だけが希来里の退職を予想し、その後の進路を予感していた。だが、笠井はそのことを誰にも口外していない。
希来里の思いが単なる思い付きではないことを、笠井は希来里を観察する中で感じていた。人のために生きる――。簡単な言葉だが実現することは難しい。笠井は、希来里の生き方に刺激を受け、仕事を終えた後、週に二度、造園設計の専門学校に通うようになった。
希来里が退職する時、笠井は希来里に会った。その時、笠井は、一つだけと断って希来里に質問をした。
「橋本さんに一つだけ聞きたいことがあるの。いいかしら?」
「ええ、どんなことでしょうか?」
「一年間、あなたずっと託児所に通い続けていたでしょ。人のためと、あの時、あなたは言ったけれど、あなたのような立場の人がどうしてそんなことを考えるようになったの? それが私にはわからない」
「本当の自分の生き方を見つけたい。そう思ったのは確かだけれど、自分にやりきれるかどうかなんてわからないわ。大地にしっかり根を張って生きる、それが出来れば嬉しいけれど――」
希来里の言葉はいかにも頼りなかった。笠井は、もっと情熱的な言葉を期待していたが、希来里は笠井の期待に応えるような言葉は吐かなかった。でも、それだけに、希来里は本気で将来のことを考えているのだ、と笠井は確信した。
希来里は、四年間務めたK建設を退職した後、子育て支援の法人を立ち上げ、『あいうえお保育園』を開設した。希来里の立ち上げた保育園は市内の中心地のビル群に囲まれた地域にあった。市内の中心地にマンションが続々と建ち並び、人口が増加するに従って、託児所や保育園、幼稚園の不足が叫ばれるようになった。それを察した希来里は、都心の中央に三階建てビル一棟を銀行で借金をして購入し、そのすべてを保育園にした。
一階は砂場と芝生のある運動場にし、二階と三階は教室、屋上は特設の温水プールにした。幼児が自由に遊び学ぶ場にしたいと考えた希来里の思いが結実した保育園だった。
開設すると同時に、都心の真ん中にあるにも関わらず園児を募集するとたちまち満杯になった。
働くお母さんのために、早朝から午後十時まで、幼児を預かるという献身的な保育を行った希来里が次に考えたのが幼児の食のことだった。
成長期の幼児にとって食は何よりも重要な位置を占めていた。健康ためにも新鮮で体に害のない野菜を獲得する必要があった。市場やスーパーで購入する野菜や果物でも事足りたかも知れなかったが、希来里はそれに満足することが出来なかった。いつしかオーガニック野菜を現地から直接購入したいと考えるようになっていた。
希来里は休日のある日、新鮮なオーガニック野菜を求めて三人の女子職員と共に地方へ向かった。
専門家の紹介を得て、その地域にあるオーガニック農家を訪ねたのだが、期待していたほど満足の行く結果を得ることが出来なかった。希来里たちの期待が高過ぎたこともあるが、対応する農家のオーガニックに取り組む姿勢に疑問を感じたこともその一因だった。
最後の農家の訪問を終え、希来里たち一行が駅に向かうバスに乗り込もうとしていた時のことだ。
「オーガニック野菜をお求めになられて来られた方々ですか?」
と大きな声がして呼び止められた。
声に驚いて希来里が振り返ると、真黒に日焼けした、いかにも農夫といった感じの青年が麦藁帽を被って立っていた。
希来里が、「そうですが――」と答えると、
「じゃあ、よかったら、うちの野菜を食べていただけませんか?」
と、唐突に言う。驚いた希来里が返事を返さないうちに、男は、さっさと田舎道を歩き始めた。バスに乗るのをやめた希来里が仕方なくその男の後を追いかけようとした時、職員の一人が希来里に小声で尋ねた。
「あの人、大丈夫でしょうか?」
専門家から紹介されたこの地域のオーガニック農家をこの日キラリたちはすべて訪問していた。専門家のリストから外れた農家の中に、本物のオーガニック農家がいるとは思えなかった。職員の疑問は至極当然のことだった
「訪問したどの農家も私たちの思っている作物とはかけ離れたものだったよね。今度もそうかも知れないけれど、あの口ぶりでは相当、自信のある様子だったわ。時間はまだ十分にあるし、行ってみましょうよ」
希来里は、先を行く男の後を追いかけた。
男が案内したのは、一軒の農家とその庭に広がる大きな野菜畑だった。
「ご存じだと思いますが、オーガニック(有機)とは、農薬や化学肥料に頼らず、太陽や水、土地、生物など、自然の恵みを生かした農法を言います。人や動植物、微生物など、すべての生命にとってやさしくて健全な自然環境、社会環境を作り出すことがオーガニックの大きな目的です」
男がいきなりオーガニックの薀蓄を語り始めたことに希来里は驚いた。すべて知識として理解していることとはいえ、男の語り口調は少年のように熱かった。
「自然環境や土壌、すべてにおいて微生物や植物が存在しなければ、人間は生きていけない。微生物が自然界にある有機物を分解し、それを植物が吸収して育ち、光合成で栄養を作る。私たち人間を始め動物たちは、それを食べて生きているのです。地球上の生命すべてが食物連鎖でつながっています。オーガニックとは、化学農薬や化学肥料、環境ホルモンや遺伝子の組み換え技術を避けて、自然なままの健全な食物連鎖を目指すものです」
オーガニックと言っても、実際にはよりよく美しく育つためにオーガニックの大切な部分を捨て去ったエセオーガニック農法が大半で、徹底したオーガニック農業を追及し、実践しているところは案外少ない。実際、希来里たちが訪れた、この地の農家もオーガニックを謳いながらも突き詰めればそうではなかった。
「ご高説は承りましたが、私たちはあなたのお話をお聞きするためにこの家にやって来たわけではありません。あなたが、子供たちに本物のオーガニック野菜を提供できるのかどうか、それを知りたくてやって来ました。そこのところ、どうなのですか?」
希来里がしびれを切らして質問をした。これ以上、男の話を聞くのは無駄だと思ったからだ。
「まずは、私の作った野菜を食べてください」
男はそう言いながら、今朝、獲れたばかりのキャベツ、レタス、トマトをきれいに洗い、生のまま希来里たちの前に差し出した。
希来里は早速試食を開始することにした。朝から数軒の農家を訪れ、実際に味見もした。味はともかく、化学的危害リスクの圧倒的に低い野菜を期待したが、実際はそれほどのものではなかった。
「おいしい!」
トマトを口にした女子職員が一口食べただけで大声を上げた。希来里もレタスとトマトを味わった。確かに美味しかった。しかもすべて自然に近い味がした。
「オーガニックは、可能な限り化学的なものを排除しているとはいえ、化学物質不検出を保証するものではありません。危害リスクが皆無の食品など存在しませんから。それでも最大限の努力は必要です。利益を追求するよりも食物の安全を追及することに比重をおけば、自ずと商品も違ってきます。私は、こんな野菜もあるのだということをあなた方に知っていただきたくて、お呼び止めしました」
男は日焼けした顔に笑顔を浮かべ、希来里たちが食べた後の野菜を片づけ始めた。
すぐにビジネスの話が始まるものと思っていたキラリは、男が野菜を片づけた後、さっさと畑へ向かい、水をやり始めたので驚いた。
「私たちに野菜を売って下さる話をしないのですか?」
希来里が声を上げて尋ねると、
「取引をするかどうかは、そちらで決めてください。それよりもこの時間になると水をやらなければならない野菜がありますので、もし、取引するようであれば、しばらく待っていてください。しないのであれば、どうぞお帰りになっていただいて結構です」
と、男は素っ気なく言って、頬に汗を滴らせながら乾いた土に水を撒き始めた。
男は丁寧に土に水をやり、芽を出した野菜をまるで我が子を愛でるように労わりながら扱っている。そんな男の様子を眺めながら希来里は、なぜか胸の鼓動がざわめくのを止めることが出来なかった
希来里の元にK建設時代の同僚であった笠井美恵子から電話がかかって来たのは、希来里が『あいうえお保育園』を開設して三年目の秋のことだった。
――元気にしている?
笠井の明るい声が耳元に届いた時、希来里は笠井の現在の様子が目に浮かぶような感じがした。
――お久しぶり。あなたこそどうしているの?
笠井とはK建設を退職して以来、一度も会っていない。
――退職してすぐに造園会社に就職して、設計の仕事に就いて働き始めたわ。
そういえば、と希来里は思った。笠井が造園設計の専門学校に通っていたことは知っていた。
――あなたのおかげよ。あなたに『自分が生きてきた証しを見つけたい』と聞かされたせいで私の人生が変わったのよ。
そんなことがあったのか、ずいぶん偉そうなことを言ったものだと、希来里は後悔した。確かにあの頃はそう思っていたかも知れない。今は、人の役に立てる存在になりたいと思っているが――。
――造園設計をやりながら、いろんなことをたくさん考えたわ。環境のことや一本一本の草木のこと、地球全体のこと、人の暮し――。自分のことしか考えなかった私がそんなことを考えているなんて驚くでしょ。これもすべてあなたと、そして夫のおかげよ。
――夫って、笠井さん、あなた結婚したの?
――造園会社に就職してすぐに出入りする造園業の男性と知り合い、一年後に結婚したの。子供ももう二歳になるわ。
――よかったわね。おめでとう。
――働くお母さんだからね。子供を預ける場所を探していたら、あなたの保育園の評判を聞いて、それで電話をしたわけ。
――ありがとう。でも、来年の春まで空きがなくて、申し訳ないけど……。
――いいえ、私は郊外に住んでいるから、あなたの保育園には通うことが出来ないけど、北区に住んでいる友だちの話を聞いて嬉しくなって、それで電話させてもらったの。
――ごく普通の保育園よ。他とそう変わりがないわ。
――あなたの保育園にお世話になっている友だちが言っていたわ。あなたの保育園に通うようになって子供が元気になったって。好き嫌いが激しくて困っていたのが、何でも喜んで食べるようになった。周囲の人間に対して思いやりが深くなった――。きりがないほど褒めちぎっていたわよ。
加藤英二の作った野菜のおかげだと、笠井の話を聞いていて希来里は思った。加藤の野菜で作る給食は子供たちに大人気だった。美味しくて体にいい。加藤の作物に対する情熱が伝わってくるような野菜の数々が保育園に送られてくるたびに、希来里は胸が熱くなった。
――希来里はまだ独身のようだけれど結婚はしないの?
笠井の質問に希来里は一瞬、言葉に詰まった。
――結婚ねえ……。まだ先のことだわ。
希来里の脳裏に加藤の顔が思い浮かんだ。会う機会が増え、話すことも多くなった。だが、まだ何の進展もなかった。仕事に懸命な加藤は、ひたすら理想のオーガニック農法を求めて邁進していて、希来里に対する感情を見せることはなかった。
希来里はと言えば、暇さえあれば加藤のことを考えている。自分の思いが伝わらないもどかしさに悩みながら、保育の仕事に励み、子供たちの養育に力を注いでいるといったところだ。
――そろそろ自分のための人生を生きてもいい頃じゃない。いい人がいたら決断することね。いいニュースを期待しているわ。
笠井はそれだけ言って電話を切った。
希来里の保育園の噂を耳にした笠井は、つい嬉しくなって希来里に電話をしてきたのだろう。付き合いが途絶えているとはいえ、彼女の気持ちは十分、希来里に伝わって来た。
進学校に合格するために頑張って、望みどおりの大学に入学すると、今度は大手企業の秘書課を目指した。秘書課に入ると、後は何もなくなった。目指すもの、目標とするものがなくなると希来里は不安になる。そんなこともあって新しく目標にしたのが保育園設立と運営だった。しかし、それも軌道に乗ると、希来里が目指すものは何もなくなった。
保育園運営で、希来里が最大の目標に掲げていたのが、子供たちの食だった。だが、それも加藤という協力者を得て、希望を叶えることが出来た。
希来里は幸運に恵まれていたと自身を取り巻く環境に感謝していた。それと共に今はもう何も目指すものがないことに落胆していた。以前なら次々と目標が目の前に現れたものが、今はもう何も浮かばない。
――どうしてだろう……。
と、希来里はそのことを不思議に思った。
――そして気が付いた。愛する人の存在が、いつの間にか希来里のすべてになっていることに。
何もかもすべてを失ってもいい。愛する人と添い遂げることが出来るなら――。
いつの間にか希来里は愛を叶えるために、自分は生きて来たのだとさえ思うようになっていた。
オーガニック野菜を求めて農家を訪れたあの日、希来里は加藤英二に初めて出会った。子供を愛でるように土を愛し、野菜に愛情を降り注ぐ加藤の姿が、長い間、希来里の脳裏を支配し続け、消えることはなかった。
しかし、それが愛だとは、希来里は思ってもいなかった。
仕事を通じて、希来里はこれまで何度か加藤に会って来た。希来里に会うたびに加藤は、今、苦労して育てている野菜の品種の話をした。気候の話をし、土の状態など、希来里が聞いても理解できない話を熱心に語った。
「加藤さんは本当に百姓バカですね」
と、そんな加藤を見て、職員の一人が希来里に言ったことがある。その時、希来里は、職員に同調しながらも、そんな加藤に好感を持っていた。
自らの気持ちに気付いたのは、加藤と出会って三年目のことだ。
その日、加藤が病気になって野菜を届けることが出来ないと早朝に連絡があった。
――大丈夫ですか?
と、希来里が尋ねると、加藤はひどく咳き込んで、
――大丈夫です。
と答えたので、その日の野菜は、希来里自らが加藤の元へ取りに出向いた。
車で加藤の元に向かうと、玄関先に、段ボール箱に詰められた野菜が入っていた。
加藤は起き上がることもしんどい様子で、家の中から「申し訳ない」と掠れ声で言った。
その声を聞いて、希来里は、相当、重症なのではないかと察し、「上がらせていただきます」と声をかけて家の中へ入り、加藤の部屋を見舞った。
布団の中で顔を真っ赤にして震えている加藤を見た希来里は、あわてて救急車を呼んだ。加藤の状態は、一刻を争うほどの切迫した状況だった。
救急車に同乗して病院へ向かった希来里は、加藤が高熱にうなされながら何度も自分の名前を呼んでいることに気が付いた。
医師の診察を受けた加藤は、肺炎一歩手前であったことがわかり、一週間の入院治療を必要とした。
その間、希来里はずっと加藤の傍で看病した。
野菜は、駆け付けた保育園の職員の手によって保育園に運び込まれ、加藤が入院中の急場をしのぐことが出来た。熱が下がった加藤は、救急車で運び込まれたことも希来里がその世話をしたことも何一つ覚えていなかった。
平熱に戻った加藤は、すぐに病院を退院し、家に戻ると言い出したが、希来里に強く諭され、医師の許可が出るまでの期間、大人しくベッドに横たわっていた。
「家族はいらっしゃらないのですか?」
ベッドに横たわる加藤に希来里が聞いた時、加藤は、両親が早くに亡くなったこと、妹や弟を一人前にするために大学を中退して家を継ぎ、農業に従事するようになったことを淡々と希来里に話して聞かせた。
「妹さんや弟さんは今、どうしていらっしゃるのですか?」
希来里が尋ねると、加藤はようやく笑顔になって、
「二人とも無事大学を出て、弟は仙台の方で、妹の方は福岡で世帯を持って幸せに暮らしています」
と言う。それを聞いた希来里が、
「加藤さんは結婚をなさらないのですか?」
と、聞いた。すると加藤は、天井を見上げて目を瞑り、急に押し黙って何も言わなくなった。希来里は、悪いことを聞いてしまったのだろうか、と後悔し、気まずくなって加藤の傍から離れようとした。
「お願いです。ここにいてもらえませんか」
加藤の声が背後から聞こえ、思わず希来里は立ち止まった。振り返ると、いつの間にか加藤がベッドの上で正座していた。
「橋本さん。こんな私ですが、お付き合いしていただけませんでしょうか」
加藤の言葉を聞いて希来里は絶句した。言葉の代わりに、涙の粒が溢れ出て来て、それはなかなか止まらなかった。
一週間後、加藤は無事退院した。退院の日に、報せを聞いた加藤の妹と弟が病院へ駆け付けた。その妹や弟に、すっかり全快した加藤は、明るく大きな声で希来里を紹介した。
「お前たちの未来のお姉さんになる人だ」
弾むような加藤の言葉を聞きながら、希来里は再び新しい夢、目標が生まれたことに一人静かに胸を高鳴らせていた。
〈了〉