カシスオレンジの微笑みが、苦しそうだったから
そういえば君、小説書いてるんだってね。
知ってるよ。というか、ここのbarに来てる人はだいたい貴方のことを知ってる。背の高くて、目つきの悪い小説家の男の子が来るんだって、マスターがいつも言いふらしてる。
そんな顔しないでよ。いいじゃない。有名ってことは、それだけ貴方が人の感情を動かしてるってことでしょ。素敵なことだわ。
実はわたし、君を探してたの。だから今日、逢えて嬉しいの。
あはは。別に待ち伏せていたわけじゃないし、一日千秋の思いで待ってたわけじゃないよ。いつか会えたらいいなって感じだった
君はいくつ? 28歳? じゃあ、わたしの方がちょっぴりお姉さんだ。
会いたいと思っていたのはわたしの話を訊いてほしかったから。ううん、違う。小説にしてほしい。文字に起こすだけでいいから、文章にしてほしいの。
そうね、じゃあ依頼料として今日の飲み代はわたしの驕りにしましょう。
別にそんな仰々しい話じゃないよ。
わたしの元カレがね、結構ズボラな人だったていうお話。
20代前半のときのなんて、普通に生活してればある程度、自分の性別と若さの優位性に気付くじゃない? セックスも覚えたあたりから、周囲との優劣を意識するようになった。けっこう男脳だったかも。わたしはまさしくそういう女だったのよ。
こういうことをSNSで言うとね、まあ炎上しちゃうかもだけど、女ってめちゃくちゃラッキーな性別だと思うんだよね。ラッキーっていうのは別に全体的な幸福度の話じゃなくて、稼ぎやすい性別っていうか。まあ、分かるでしょ。つまりは男に貢がせる楽しさに気付いたっていうかね。
水商売って今はあんまり言わないよね。まあラウンジのキャストで働いていたときにね。色んな男の人からブランド品もらえたの。それを大学に持っていくわけよ。普通に働いていたら手に入らないものばっかり、持ち歩いてさ。
友達に見せびらかしたりするような性格の悪いことはしなかったけど、高価なものを身に着けて学校の施設を歩くっていうのは、わたしにとっては快感だった。
ふふ、性格が悪いって言われると興奮するから逆効果よ。
そういうときに付き合っていた彼氏はね。大学の同級生だった。
そいつが、ズボラな元カレ。
なんでかなぁーって思ってたけど、最初は顔が好みだったの。ほんとにそれだけ。学生時代に別に深い関わりがあったわけじゃないけど、たまたま住んでるアパートが同じで、授業が被ってたらよくバイクで送迎してくれたし。都合がよかったし、顔がよかった、話はつまらなかったけどね。
まぁ、ズボラな人っていうか。だらしがない人だったのは確か。とにかく皿洗えないの。あと風呂掃除もできない。部屋のフローリング拭いたりできるのに、お皿とか風呂とか水を使う洗いものができなかった。
だから皿洗いと風呂掃除はぜんぶわたし。あれがほんとに嫌だったなぁ。ネイルとかさ、爪もケアしてるのに。水仕事とかしたくないわけよ、こっちは。水商売はしてんのに(笑)
それでも料理は上手いわけ。だから料理はつくるんだけど、皿洗いはわたしなわけ。まあ、わたしが主に食べてたわけだから。わたしが洗うのが当然なんだけどね。あのときは「もっと奉仕しろよ」って思ってた。
生活スタイルというか、こうしたら相手が傷付くかもしれないとか、そういうことを考えるのが、とにかく下手くそな男だったと当時は思ってた。
彼とディズニーランドに行ったときとか「人がたくさん並んでるから、別々のアトラクションに並んだらいいんじゃないか」とか言われたときは笑ったなぁ。それじゃ意味ないじゃん!って突っ込んでも、分かんないの。
20代前半の恋というのが、どういうのが一般的なあるべきカップルの姿なのかなどは知らないけれど。ちぐはぐな時間だったなぁと思う。
驚いたのは、わたしと付き合ってるのに、前付き合っていた彼女の写真を財布に入れていたことかな。それも、わたしが誕生日にプレゼントした財布に。
あのときは、怒ったな。うん。なんていうか、悔しいと思った。わたしたちって恋人だと思ってたけど、わたしの方が立場的には上だと思ってたのに。
あのときの傷付き方って、これは浮気だー!みたいな感じじゃなくて、どっちかっていうと、わたしはなんて思い上がった生き方をしていたんだろうって気が付いた恥ずかしさみたいなものがあったんだよね。
まあ、それをうまく言語化できなくて、さんざん彼に怒鳴り散らして、相手の方から「別れよう」って言わせた。
1年くらいかな。それくらいの短い時間だったよ。でもなぜか鮮明に覚えている。
忘れたいとは思うけど、別に憎んでるわけじゃなかったんだよね。お互いお金なんてなくて、旅行なんていけなくて、ご飯はいつも割り勘だったし。ズボンはなんでか七分丈だし。
でも彼の生き方にどこか安心してた。
マーブリングって知ってる? そうそう、水の上に絵の具を垂らして紙に映すやつ。あれが彼は好きでね。あの水の上に模様をつくる彼の少し寂しそうな猫のような丸まった背中が好きだった。
その元彼はさ、親から虐待をされて、養護施設に預けられてた時期があったの。虐待ってどんなことって聞いたことはあったけど、絶対に教えてくれなくて。でもそれって、冷水を浴びせられたり、風呂場に閉じ込められたりしたんじゃないかなって、今さらみたいにすごく考えるときがあって。たぶんその予想は正しいんだよね。でも彼は絶対に言わなかった。わたしには言わなかった。本当は、わたし以外の誰かには言っていたのかもしれないけれど、わたしには言わなかったんよ。
あの寂しそうなマーブリングはわたしが感じる以上の感情がたくさんあって、出来上がったはがきサイズ絵画には、もっと色んな感情があって、もしかすると、リハビリのような気持もあったのかもしれないとか。
人の気持ちに無頓着なのは本当は、どっちか分かんないよね。
少なくとも、今やわたしは彼にとって有象無象の一つでしかなくて、特別な存在じゃなくて。そう思えることって大事だと思ったんだよね。このブランド品を買ったって、わたしは特別なんかないんだーって思うようになった。
大切なのは、価値あるものを身に付けることではなくて、価値を汲み取る心を持てるかってこと。
そこは「お前がいうな」って笑うとこよ。
まあ、わたしの価値観をつくった人だから。これを感謝というのは嫌だけれど、もちろん憎んでもないんだよね。彼の寂しそうな背中を思い出す度に、満たされているわたしもいたから。
でも、わたし結婚するの。
だから、わたしもきちんとお別れとごめんなさいを言いたいなって思ってるんだけど、もうどこにいるかも分からないから。
わたしでは満たすことのできなかったあの背中を、誰かに託して生きたいの。
わたしは先を歩くけど、見えなくなるけれど、いつか君の書いてもらった文字があの人に届いたら、それって素敵なことじゃない?
ロマンチストなんて、とんでもない。わたしはいつだってリアリスティック街道を悠然と歩いて生きてる女よ。
ふふ、君の背中もずいぶん寂しそうだね。
悪い男の子になったらダメよ。
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