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小説:ふたりの翠玉(エメラルド)エピソード1物語りのはじまり

「ちょおっとー、待ってよ、パパ。ほんとせっかちなんだから」

ヒカルは、セカンドバッグを小脇に抱え、マンションの玄関ドアーの下に足を引っ掛けてドアーが閉まるのを防いで、もうエレベーターのほうに向かって歩いてる仁に向かってそう言って呼びとめた。

ふたりが目指すのは、西梅田にあるニコンフォトサロン。ここで、仁の友人の知り合いが写真展を開催していた。ひとしきり会場の写真を見終わると、

「ほんじゃ、ヒカル、お茶にするか」

「えー、もう行っちゃうわけ。もうちょっとゆっくりしようよ」

大阪で、外出して「お茶する」といえば、喫茶店に行ってコーヒーなどを飲むことだ。

「泉の広場近くの茜屋さんにいくぞ」

「パパ、またあそこ。ここは西梅田で茜屋さんがあるのは、東梅田のもっと先で、ウメチカの真反対じゃん」

ウメチカは、梅田地下センター街のことで、梅田には巨大な地下街がある。茜屋珈琲店は、泉の広場近くにあるが、少々わかりづらい場所にある。

昭和の香りがする純喫茶スタイルの珈琲店だ。仁は、1978年、大学を卒業してから、梅田やその当時難波にあった茜屋珈琲店に通っていた。どうやらその当時付き合っていた彼女とよく「お茶」してた店らしい。

作者注:茜屋珈琲店は、2024年9月現在ウメチカで営業している実店舗

娘のヒカルには、そのことを漏らしていたが、妻の麗子にはなぜか口止めされていた。

仁は、いつものマンデリンを注文。ヒカルもそれに合わして同じものを選んだ。目上のひとと一緒に喫茶店に行った時、その人のオーダーに合わせるというのが礼儀と仁に教わっているヒカルは、実の父親と一緒に喫茶店に入っても、そのことを守っている。

ヒカルにとって、仁は実の父親であり、宝石については師匠だからだ。

ヒカルは、仁に奢ってもらったとき、ときどき「おっ師匠さん、ご馳走になります」と言ってぺろっと舌をだして笑う。そんなひとり娘を可愛く思うのは、仁ばかりではあるまい。仁は、マンデリンコーヒーをうまそうに口に含んでいる。

仁が、娘のヒカルにお茶に誘ったのは、東京にカボション・カットのルースを受け取りに行く大役を頼むためだ。
仁は、カボション・カットのエメラルドのペアを知り合いの業者に依頼している。

ジュエリーコーディネーター1級であり未生流の 師範である北条理恵の「北条いけばな教室」に通っている美容室を経営する伊藤佐和子の夫からのオーダーで、帯留めに使うカボション・カットエメラルドだ。

(注)カボッション・カット cabochon  
cut
ドーム状にふっくらと局面に仕上げられたカット。主に、半透明、不透明石に用いられる。宝石の量感をだし、艶や表面に現れる模様を強調するのに向いている。

「ジュエリー用語事典」社団法人日本ジュエリー協会発行 より引用。

ただ、業界では「カボション・カット」と表記する場合が多い。ここでは、こちらを採用。

さて、伊藤佐和子が経営している「なつめ写真美容室」は、本店が豊中市の西緑丘にあり、支店が2店舗ある。ひとつが箕面市に、もうひとつが高槻市にある。夫の伊藤岳(たけし)は、フォトグラファーであり、なつめ美容室本店の二階で写真館を切り盛りしていて、なつめ美容室とは別会社にしている。屋号は、「なつめ写真館」。

岳は、両方の会社の経理を担当している。 本店だけに写真館があるが、他の2店舗は純粋に美容室のみである。

写真館を増やすとなると、カメラマンとともに常駐スタッフが必要になり、そのための家賃や人件費が馬鹿にならないのだ。だから、他の2店舗は、美容室だけであり「なつめ美容室」という屋号にしている。

伊藤岳は、学生時代、ニコンの一眼レフカメラを買って、趣味で風景写真やポートレート写真を撮っていた。しかし、大学を卒業後、一流カメラマンのアシスタントを経験したことがないうえに、お客様からお金が取れる撮影技術は、結婚当時持ち合わせていなかった。

なんとなく周りからの押しとふたりの勢いで、美容室の一人娘と結婚することになった岳は、いわゆる「髪結いの亭主」になりたくなかった。

そこで、結婚後、妻の佐和子やその両親に懇願して、写真専門学校に通うことにした。もともと写真センスがあったことと、必死な思いから、1年でポートレート撮影技術とともに暗室作業も難なくこなせるようになった。

カメラ雑誌のコンテストに応募して、佳作などの賞を取ることもできた。

自信をつけた岳は、満を持して写真館を開業することになった。ちょうどそのとき、「なつめ美容室」が入っていたビルの2階が空くことを知り、そこで写真館を開業することを即決した。

妻の佐和子は、着物の着付けもおてのもので、毎年、成人式の前々日から、「なつめ美容室」は、予約で満杯になる。

着付けを終えて記念の写真を2階の写真館で済ませることができ、お客様の好評を得た。

口コミで学校の卒業写真を請け負ったりして、岳の写真館も経営の軌道に乗っていった。ただ、バブルが弾けたこと、阪神淡路大震災で受けた痛手は、北摂で商売をしていた店舗であれば、多かれ少なかれ受けることになった。

「なつめ美容室」もその例外ではなかった。

「なつめ美容室」は最盛期、北摂に5店舗展開していた。調子のいいとき、投資型マンションにも手を出して、バブルが弾けて、購入当時の3分の1まで価格が下がってしまった。

資産売却、店舗縮小などで岳と美和子はバブル崩壊を乗り切った。

阪神淡路大震災では、本店が半壊した。パーマ機などが転倒、使い物にならなくなったものもあった。本店改装、理容機器の買い替えなどの費用もなんとか捻出して一年後、リニューアルオープンした。

そういう苦労をふたりで乗り越えて今がある。

岳と佐和子は、結婚して来年30年の節目にあたる。妻の佐和子にエメラルドをプレゼントしようと岳は、妻に内緒で宝生仁に相談してきたのだ。

宝生仁と伊藤岳(たけし)は、実は幼なじみである。小学生の頃、岳のあだ名は「ガク」。

家が近所であった仁と岳は、少年野球の練習で大声でお互いの名前を呼び合うようになり、「ガク」が次第に「ガックゥ」になっていった。「ヒトシ」のあだ名は、そのころから「ジン」だった。「ガックゥ」は、ストレートの速さが持ち味の投手であったが、緊張すると試合中手が縮こまり、ファーボールを連発する悪い癖があった。

サードを守る「ジン」は、そういう時、「ガックゥ、ドンマイ、ドンマイ、気にすんな、リラックスや、リラックス!」とわざとニタニタ笑ってみせた。ただ、緊張がピークに達していた岳には、そのニタニタ笑いは、逆効果であったらしい。

実は、仁と岳は、関西学院大学商学部の入学オリエンテーションで学内でばったり会い、学内でコーヒーを飲みながら、当時のことを話題にしたとき、岳からはじめてこう告白されたのだ。

こんな時に何ニタニタしてんねん、アホちゃう。

そう岳は思っていたらしい。

仁は、豊島小学校から豊中市立第1中学校に、そして府立箕面高校に進学。

一方、岳は、同じく豊中市立第1中学校から府立桜塚高校に進学。通っていた高校が違い、ふたりは高校時代、近所に住みながら疎遠になってしまっていた。

岳は、中学生になっても野球を続け、桜塚高校でも野球部だった。

いっぽう、仁は、中学からテニス部に入り、高校でもテニスを続けていた。

お互いの部活の種類が違い、中学、高校の大阪府大会でふたりが出くわす機会がなかったことも疎遠になった一因だ。

さて、ふたりが豊島小学校6年生の時、「第1回豊能地区少年野球大会」があり、豊島小学校からは、「豊島小学校A」と「豊島小学校B」の2チームがエントリーした。トーナメント形式の大会で左のブロックからAチームが順当に勝ち上がり、右のブロックからBチームが接戦の末勝ち上がってきた。

共にベスト4に残り、いよいよ両チームが準決勝を迎えるにあたり、監督から、決勝戦は、豊島小学校どうしで戦えるよう頑張ろうと檄を飛ばしていた。

豊島小Bチームが対する相手が、「桜塚小学校」。そのチームのファーストを守っていたのが、現在のジェム・クラフトのオーナー、浅見透だった。浅見は、小学校低学年の時、すでにクラスのなかで一番背が高くノッポだった。透はキャッチングがうまく、手前でワンバウンドするボールをファーストで華麗にさばいてみせた。

小学校程度の守りの野球では、うってつけの一塁手である。

1回の表、攻撃は、桜塚小。守りについたとき、ピッチャーの江波(結婚後、伊藤姓に)岳は緊張のせいで、マウンドでピッチング練習しているときからボールが手についてなく、制球が定まらなかった。

嫌な予感がした仁が、「ガックゥー、リラックス、リラックス」と声をかけたが、岳にはそれが聞こえなかったようで、しきりに右腕をグルグル回していた。アンパイアのプレイボールのコールとともに岳の投じた第一球は、キャッチャーが取れないような大暴投だった。

結局、その試合、岳の制球は定まらず、豊島小Bチームはベスト4で敗退。

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