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仁澪126号

巻頭言 大阪公立大学 誕生

公立大学法人 大阪
( University Public Corporation Osaka )

 3年前の2019年4月1日、「公立大学法人 大阪」が誕生、理事長に西澤良記先生(市大医学部第19期、昭和45年卒)、市大学長には荒川哲男先生(市大医学部第24期、昭和50年卒)が選出されました。新法人は大阪市立大学(市大)、大阪府立大学(府大)、大阪府立大学工業高等専門学校(高専)の2大学1高専を運営することになりました。

大阪公立大学
( Osaka Metropolitan University)

 2022年4月1日、新法人は市大 と府大の2大学を統合させ「大阪公立大学」を誕生させました。両大学は市大が142年、府大が139年の長い歴史を持ち、多くの課題もありましたが、新大学の辰巳砂昌弘学長
(府大学長)の下で一つの大学に融合しました。
新大学は経済学部・法学部・商学部・文学部・現代システム科学域・理学部・工学部・農学部・生活科学部・看護学部・獣医学部そして医学部の 12学域・学部からなり、学生数約1万6千人の総合大学となっています。学部入学定員は約2,850人となり、東京大学、大阪大学に次いで国公立3位の大規模な大学となりましたが、職員1人あたりの学生数は 8.4人と少なく、余裕のある大学となっています。

医学部医学科

 大阪公立大学の医学部は医学科とリハビリテーション学科からなっています。後者は理学療法士・作業療法士を4年間で育成し、超高齢社会の中で、国際的にも活躍できる人材を育成するとしています。
「医学部医学科」は、府大に医学部がないことより、市大医学部がそのまま 継承しました。
1・2年次は「基幹教育」が杉本キャンパスで行われますが 、 3年後は新しく建設される森の宮キャ ンパスに移る予定です。3・4年次からは今まで通り阿倍野キャンパス で「医学教育」、「臨床医学」が行わ れます。5・6年次は「臨床実習」を現場で経験し、技術を身に着けることになります。また、希望者には大学院に進学し、最先端の研究を進め、基礎的・臨床的研究をリードする指導者となる道もあります。

市大医学部の歴史

 市大医学部は、第二次世界大戦中 の1944年(昭和19年)創設の「大阪 市立医学専門学校」から始まります。戦後の1948 年(昭和23年)に旧制「大阪市立医科大学」となり、1952年(昭和27年)には新制「大阪市立医科大学」に引き継がれました。そして、1955年(昭和30年)大阪市立大学に編入し「大阪市立大学医学部」となり、今年で78年目となります。大学院医学研究科は、1958年(昭和 33年)に設置されています。2006 年(平成18年)地方独立法人となり、2019年(令和元年)に公立大学法人大阪に移行し、2022年(令和4年)4月1日大阪公立大学医学部医学科となりました。

智・仁・勇

 市大医学部が掲げてきた基本理念「智・仁・勇」は、新大学にも 引き継がれそうです。医師に必要な高度な医学知識を学ぶ「智」、人の悩みや痛みを深く温かく受け入れる慈愛の「仁」、勇気をもって信念を貫く技術と行動力を学ぶ「勇」は、医療人の全人的な育成をめざすものであります。また、「智・仁・勇」は論語で三徳と言われ、「智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない」の説話で紹介され、先輩、同僚、後輩、患者さん、ご家族を尊敬し、自らは謙虚であり続け、倫理観あふれる人間性を持ち合わせた医療者の育成に全力を尽くすとされています。

市大医学部医学科同窓会(仁澪会)

 大阪市立大学医学部同窓会(仁澪会)は、「大阪市立医学専門学校」
( 医専)第1期生83名が卒業した 1949年(昭和24年)3月の卒業生83名から始まります。医専卒業生は3学年計267名でありました。1952年
(昭和27年)3月からは、旧制・新制「大阪市立医科大学」の卒業生から今年の「大阪市立大学医学部」学部第71期83名まで、学部の卒業生は4,974名となり、医専卒業生267名を加えると総計5,241人となっています。
 仁澪会は2018年(平成30年)「一般社団法人」となり、事業として苦学生に対する奨学金制度、若い研究者への海外渡航援助、かかりつけ医支援等を行っています。しかし、年会費5千円の収入では限界があり、会費の値上げを検討するとともに、寄付金に対する税優遇のある「公益法人」を目指しています。

新入生 入学

 今年4月、大阪公立大学医学部医学科の1期生95名が難関を突破し、 入学してきました。コロナ禍のため、後輩と話し合う機会が少なくなっていますが、クラブ活動や研修会等で 早く会いたい。そして、学生の間はよく遊び、よく学び、広い知識を獲 得しで欲しい。一生勉強し、技術を 磨き、患者にやさしく、家族に親切な医師を目指して欲しいと伝えたい。

理事だより

 医師法や薬機法(旧薬事法)、診療報酬制度などの改定には法改正や中医協での審議が必要で、その変更には長期間を要す。一度決定すれば改定されるまでずっと守らなければならないルールとなる。一方、厚労省が発する通知や事務連絡は管轄する部署の課長や局長が決定でき、法的拘束力のないルールより緩い規定(レギュレーション)である。北京オリンピックスキージャンプ混合団体競技で着用していた競技用スーツが違反とされ、5人の女子選手が失格になったのはルール違反ではなくレギュレーション違反であった。スキージャンプ競技において、スーツやスキー板の規定は毎年のように変更されているらしい。これらのレギュレーションの決定も運用も担当者に委ねられている。
 私たちの医療の現場でも「えっ!」と驚いたレギュレーションの変更がコロナ禍で行われた。令和2年4月 10 日に厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策推進本部が各都道府県 衛生主管部に宛てた事務連絡である。
「今般、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴い、 N 9 5 マスクの需要が高まっております。こうしたことを受けて、使い捨てとされているN 9 5 マスクについて、再利用するなどN 9 5 マスクの例外的取扱いにより効率的な使用を促進する際の留意点等について、別添のとおり取りまとめました。」
 ディスポーザブル製品で あるマスクの再利用を黙認するどころか再利用の方法についてこと細かく解説し、再利用を促進してきたのだ。しかも再利用は1回ではなく再々利用まで認めるというものである。医療用器具や製品を再利用しない理由は、1) 再利用で破損や性能の低下が危惧されること、2)再利用で感染症を媒介する危険性があることであろう。 新型コロナウイルスの感染力の高さは周知されており、最高レベルの感染対策が求められている現場でマスクが不足しているとはいえ、お上が再利用を認めたことに驚愕した。不織布のサージカルマスクはコロナ禍 以前には1枚5円以下であった。し かも手術や処置以外の場面ではマス クなしでの対応が通常であったので使用枚数も今の1/10以下で済んだ。コロナ禍で値段は10倍以上に、使用量も激増したのでマスクに掛かる経費は100倍近くに膨らんだ。そのタイミングでの再利用許可は嬉しかった。
 しかしである。コロナ禍以前の平時にディスポーザブル製品を再利用したとしてマスコミに取り上げられ、医療機関が糾弾されたことは枚挙にいとまがない。医療機関が経費を浮かして患者を危険に晒しているというのがマスコミの論調である。コ ロナのような感染力の強い疾患と対峙している危険な状況で、マスクの 再利用が例外的とはいえ認められた ということは、確実に再滅菌を行え ばマスクを介してのコロナウイルス の伝播は起こらないと判断されたのである。ならば平時に感染症のスクリーニングを行ってから施行する処置や手術に使った器具や製品を、再 滅菌の上再利用しても次の患者に何らかの感染症を伝播することは考られない。一流メーカーの工業製品 が2回や3回の使用で壊れることも 性能が低下することもあり得ない。 詰まるところディスポーザブル使用としている本当の目的は、製造しているメーカーの擁護、すなわちメー カーの利益の確保、この1点ではなかろうか。このようなメーカーに厚 労省の役人が天下っているのではないか。
 「もったいない」は日本人の矜持ではなかったのか。地球資源の保護、医療費の削減、環境保護、SDGsか らディスポーザブルについて再考する時期ではないだろうか。「昔はこの器械1回使ったら捨ててたんやで」と笑って言えるような時代は来ないのだろうか。

(注:令和2年4月10日の厚労省の事務連絡は現在取り消されています)

大阪市大医学部78年と附属病院98年の歴史- ⅩⅩⅩⅡ 内科第二教室

繪本正憲(昭62年卒)・稲葉雅章(昭54年卒)・西澤良記(昭45年卒)

初代石井 潔教授と黎明期

 1950年(昭和25年)10月に初代石井 潔教授により開講された。石井潔教授は、北海道大学医学部卒、1950年(昭和25年)2月に大阪市立医科大学に赴任されたが、当時の大学病院には、新講座のスペースが十分になかった。 同年10月に当時伝染病や感染症診療が中心であった桃山病院(鶴橋駅と桃谷駅の間に位置)の中に一般市民病院として桃山市民病院が併設され、大阪市立医科大学の分院として運営されることになり、石井教授は、その実質的責任者として診療にあたり、第二内科学教室が開講された。 開講時は、教授以下8名、入院患者30人程度から始まり、その後は、常に200人以上の入院患者の診療を担当し病院経営にも大きく貢献された。 当時の時代背景のなか診療や研究機器も乏しく、医局員が苦労して研究費を捻出しつつ、学会発表は活発に行われた。 1955年(昭和30年)4月に大阪市立大学に移管され、 1956年(昭和31年)6月に、阿倍野学舎での新病棟完成とともに、現在の附属病院の住所に移転された。石井教授は、一貫して肝疾患の研究を行われ、特に、実験的アレルギー性肝硬変症に関する研究は、当時の国際消化器病学会や肝臓学会において大いに注目された研究であり、その後の肝臓研究グループに引き継がれた。1960年(昭和35年)発行の石井内科同門会誌創刊号 『石井 潔教授開講十周年記念』 に掲載された 『十年間を回顧して』 と題する回顧録のなかで、次のように述べられている。 「およそ一つの団体が発展するには内部の人の和というものが大切である。 これがなくては、その団体は不安定なものであって、空中分解の危険性を包含する。 人の和はお互いが信義をもって結合することである。 私どもの教室が極めて平和であった、変なトラブルなど全然起きないことも、まことに有難いことと感謝している。」 この石井教授のお考え・想いは、現在の第二内科学教室にも受け継がれている。

二代和田正久教授(写真③④)と『糖尿病と合併症、患者中心の医療』

 二代和田正久教授は、1964年(昭和39年)4月から1984年(昭和59年)3月までの二十年間にわたり第二内科教授を務めた。 和田教授は、大阪大学医学部卒業後、軍医としても活躍ののち、大阪大学第一内科にて、糖尿病、肝臓病、腎臓病などの研究グループのリーダーとして活躍、その後本学第二内科学講座教授に赴任された。 当時、戦後の感染症にかわり、糖尿病、高血圧、動脈硬化などの成人病にも早くから着目された。 現在の第二内科学教室の主要な分野である糖尿病とその合併症における治療の重要性を提唱され、多くの医局員の臨床・研究指導にあたられた。当時の教室には、その後、大阪市環境保健局局長、大阪市長を歴任された關 淳一や藤井 暁など、その後の大阪の医療を担われた多くの先生方がおられた。 和田教授は、 「患者を大切にすること、検査でも治療でも医療サイドの考え方ではなく、患者サイドで物を考える」 という原則を常々強調され、現在の国内外の糖尿病学会が提唱している 『患者中心の糖尿病診療』 を当時からいち早く指導されていたことになる。 特に、詳細な患者の生活習慣などの病歴のとり方や全身をくまなく診察することなどを厳しく指導された。
 1972年(昭和47年)に第15回日本糖尿病学会会長、1974年(昭和49年)International Diabetes Federation の日本代表、1983年(昭和58年)糖尿病性細小血管病変の疫学に関する国際会議世話人など国際学会においても活躍された。 また、日本糖尿病協会常任理事、糖尿病協会近畿支部理事長として、糖尿病の啓発活動にも尽力された。 1991年(平成3年)2月和田教授の急逝を追悼し、同年8月に三代森井浩世教授会長のもとで、 『疾病と栄養』 をテーマに 『和田正久メモリアルシンポジウム』 がホテルニューオオタニにて開催され、ご厚誼のあった本学の教授や関係者が多数列席され盛大に開催された。

三代森井浩世教授(写真⑤⑥)と『カルシウム骨代謝学で国際レベルの研究』

 1984年(昭和59年)7月から1999年(平成11年)3月末まで第三代教授を務められた森井浩世は、1971年(昭和46年)1月に東京大学第三内科(沖中重雄内科)から本学第二内科学教室の講師として着任された。第二内科学教室に、その後の四代教授となる西澤良記らとともに、初めて内分泌グループを発足させ、当初、カルシトニン、カルシウム代謝の研究を始めた。 1984年(昭和59年)7月に第二内科学教室の教授に就任、ビタミンDや副甲状腺ホルモンのカルシウム代謝から、さらに骨粗鬆症、腎不全、透析医学へと研究分野を広げた。 教室では、特に若手医局員に国際的なレベルでの研究をめざすように指導され、その結果、多くの若手医局員が大学院を修了後に海外留学を行うようになり、その後の教室の研究発展に大きく貢献された。1990年(平成2年)にカルシウム調節ホルモン・機能と作用に関する国際会議、 1994年(平成6年)第3回国際PTH新作用学会、1997年(平成9年)第2回国際骨粗鬆症学会を相次いで主宰され、当時の医局員は世界トップレベルの研究者を招いた国際学会の主宰という貴重な経験を積むことができた。 1994年(平成6年)には日本透析医学会会長、1996年(平成8年)日本骨代謝学会会長などを歴任、医学部附属病院病院長、日本透析医学会理事長などの要職も務められた。 このような超多忙な中ではあったが、本学就任以来、一貫して、若手教室員の臨床教育や研究指導には大いに情熱をもって取り組まれた。 東大や米国留学経験から、特にベッドサイドでの内科教育には力をいれられた。 病棟回診では、手厳しく質問をあびたり、回診につけないときは回診ボードに赤ペンで指導がなされたりと、当時の新入医局員(ノイヘレン)にとっては教授回診の対策が病棟業務中の最大の関心事となっていた。 一方、患者にはやさしく接し、患者目線での診察の大切さを説かれた。 ノイヘレンと時間を共有することを惜しまず、教授と新入医局員とだけのノイヘレン1泊旅行、医局全員での医局旅行、ご自宅に招かれて森井先生自らの調理によるカレーをふるまうカレーの会などは毎年行われ、医局員にとっては忘れられない思い出となっている。

四代西澤良記教授(写真⑦)、五代稲葉雅章教授(写真⑧)と教室の発展から現代へ

 1999年(平成11年)5月には、森井浩世教授のもとで教室運営を主導された西澤良記(現大阪公立大学法人理事長)が第四代教授として、2010年(平成22年)3月まで教室を主宰された。 就任翌年には大学院の再編により、第二内科学教室は、代謝内分泌病態内科学・腎臓病態内科学として再スタートし、糖尿病・脂質代謝・内分泌、骨代謝、腎臓、透析医学分野などさまざまな分野で幅広く活躍し、教室は大きく飛躍発展した。 西澤教授の指導のもとで、2001年(平成13年)第3回国際腎不全学会に始まり、第5回日本内分泌学会近畿支部学会、第7回骨粗鬆症学会、第23回骨代謝学会、2010年(平成22年)第47回日本糖尿病学会近畿地方会等まで12の国内・国際学会を主宰し、教室は大きく飛躍した。 特に、2007年(平成19年)には参加者1万5000人を超える大規模な第52回日本透析医学会を成功させ、同医学会の理事長も2006年から2年間務めた。 2002年(平成14年)には医学部附属病院副院長、 2006年(平成18年)からは医学研究科長・医学部長を務め、教室員の指導や共に過ごす時間は減っていく中でも、常に、新入医局員歓迎会、毎年恒例の秋の医局旅行、同門会行事なども盛大に継続された。 特に、医局員が楽しみにしていたのは、毎年夏に行われる西澤教授のご自宅でのバーベキュ―パーティだった。 ご自身の手作りの案内状から始まり、大量のアメリカ仕様の巨大な肉のブロックを中庭で巨大なバーベキューコンロで自ら焼いていただいている間、医局員は美味しいワインを勝手にのみあけるという楽しい状況が毎年繰り広げられた。
 2010年(平成22年)4月から西澤良記教授の本学理事長兼学長に就任、同年7月に代謝内分泌病態内科学・腎臓病態内科学講座に五代稲葉雅章教授が就任した。 稲葉教授は、ビタミンD・カルシウム骨代謝学、甲状腺学、リウマチ学と幅広い分野を専門として、森井教授、西澤教授の教室の伝統を引き継ぎ、2020年(令和2年)第65回日本透析医学会を主宰、講座として3代の教授が同学会を主宰されるという偉業を達成された。 また、新たな分野としてリウマチ学、睡眠学の分野の診療・研究をさらに展開し、多くの専門家も育成された。 西澤教授、稲葉教授の時代には、両教授の指導のもと、全国レベルの大規模介入試験であるJ-DAVID試験やVICTORY試験などを関連病院の同門会会員の強力なバックアップのもと、庄司哲雄研究教授(血管病態制御学)中心に教室員一丸となって進めることができ、JAMAなどの世界のトップジャーナルへの発表をなしえたことは教室員の誇りとなっている。また、三代森井浩世教授以降、第二内科学講座の同門からは、本学の老年内科学三木隆巳教授、分子病理学鰐渕英機教授、血液腫瘍制御学日野雅之教授、ゲノム免疫学植松 智教授、産業医学林朝茂教授、兵庫医科大学の糖尿病内分泌・免疫内科学小山英則主任教授を輩出している。
 2020年(令和2年)4月に、五代稲葉雅章教授の退職をうけて、六代教授として繪本正憲(写真⑨)が就任、代謝内分泌病態内科学・腎臓病態内科学を継承した。 医学部附属病院では、生活習慣病・糖尿病センター、腎臓内科、骨・内分泌内科を担当している。糖尿病・代謝疾患、腎臓病、透析医学、内分泌疾患を中心に、これまでの教室の伝統を継承しつつ、教室員・同門会の和のもとに、2022年(令和4年)4月からの大阪公立大学の一員として、世界に通用する診療、研究、教育をめざして日夜奮闘している。

*本内容は、第二内科同門会の歩み(第一巻~第三巻)、大阪市立大学医学部第二内科開講50周年記念誌、森井浩世・西澤良記・稲葉雅章の各教授業績集の内容に基づいて、繪本の知りうる範囲で執筆した。

(繪本正憲 記)

 繪本教授室に電話をすると秘書嬢が「こちら第二内科教授室でございます」と答える。機能別科名を省略して旧姓を名乗っているだけのことだが、同窓会員の一人としては耳に快く大いなる共感とノスタルジーを感じています。 次回は同じく第二内科に関して關 淳一氏よりの寄稿と直接話をお聞きする機会が得られたので「内科学第二教室 その2 」を掲載します。

(田中祐尾 記)

大阪市医学会 鈴木衣子賞(会長賞)の設立について

 大阪市医学会では、令和4年度より大阪市立大学が大阪府立大学と統合して大阪公立大学になるのを記念して、これまで67回の歴史のある大阪市医学会会長賞を「鈴木衣子賞」という新たな賞として改訂することに致しました。  
 鈴木衣子先生は、1959 年に大阪市立大学医学部を卒業され、立川米軍空軍基地病院でインターンシップを行ないました。 1961年に渡米され、ニューヨークの Montefiore病院においてDr.Zimmermann の元でレジデントを行いました。 1965年に Albert Einstein College of Medicine のRobert D. Terry教授の研究室で神経変性疾患における神経組織の超微細構造の研究を開始し、1969年には University of Pennsylvania の教員に就任しました。 1968年に University of North Carolina at Chapel Hill の病理学・臨床検査学の主任教授に就任し、臨床、教育、研究を主導されると共に、神経病理学の分野で長年にわたり国際的にご活躍され、その発展に大きく寄与されました。 本賞は、鈴木衣子先生のお名前を頂き、大阪市医学会の関係者で学内外に関わらず、国際的に評価される優れた業績を上げている若手医師、研究者を表彰します。これまで、会長賞は応募者の研究グループを表彰していましたが、本賞は応募者の代表的論文3報の業績を中心に応募書類を総合的に審査した上で選考し、受賞者個人を表彰し、副賞として賞金100万円と賞状が授与されます。 なお、大阪市医学会学会賞に関しましては、例年と同様の選考方式となります。 令和4年10月3日(月)必着で応募を行いますので、奮ってご応募下さい。 また、鈴木衣子賞の候補者がいらっしゃいましたら、大阪市医学会事務局(E-mail:shiigakukai@ med.osaka-cu.ac.jp)までご推薦下さい。 本賞が次世代を担う若手医師、研究者を大きく鼓舞し、大阪公立大学医学部の更なる発展の起爆剤となる様に、仁澪会の皆様のご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

令和3年度医学部医学科「白衣授与式」報告

仁澪会副理事長/医学部医学科教務委員長 首藤 太一 

 令和3年12月18日に、令和3年度医学部医学科「白衣授与式」が開催されました。 6年間の医学部教育のうち、最後の2年間は臨床実習が行われます。 かつてはポリクリ(Poly Clinical Study)、SGT (Small Group Teaching)などと呼ばれていましたが、現在は Clinical Clerkship(参加型臨床実習:CC)と呼称することになっています。 現在 CCに臨むには、共用試験実施機構が全国一律で行うふたつの試験、すなわち、CBT(Computer Based Test;知識試験)とOSCE (Objective Structured Clinical Examination;実技試験)の両方にパスして、全国医学部長病院長会議から Student Doctor として認められる必要があります。 今年は本学4年生102名がこの試験にパスし、年明けからの CCに参加できることとなりました。
白衣授与式は White Coat Cere-mony とも呼ばれ、本学では6年前から開催しております。 2つの試験をパスして Student Doctor として臨床実習に臨む彼らの motivation を大いにあげる効果があります。 河田則文医学部長の次に登壇いただいた生野弘道仁澪会理事長からは 「清潔な白衣を身につける心構え」 を例年以上に熱く語っていただきました。 その後CBTの成績優秀者3名に河田、生野、首藤によって白衣をはおらせ、学生代表から決意のあいさつがあり、滞りなく式が終了いたしました。
コロナ禍以前は、ご家族にも参列いただき、厳かな中にもアットホームな時間が流れるのですが、来年はそんな会が戻ってくることを心から期待しております。 ありがとうございました。

令和3年度大阪市立大学医学部医学科感謝の会

 令和4年3月24日、華やかな未来をお祝いするかのように桜の開花宣言があり、これから満開に向かっていく大阪市立大学の卒業生83名は、第71期の学位記授与式を迎えました。学位記授与式に続いて、昨年同様に謝恩会として「感謝の会」が開催されました。教員56名と学務課職員2名が招かれて学舎の大講義室において華やかで和やかに行われました。
 藤田亜也様の司会のもと開会し、荒川哲男学長から「センスを磨いてよりよい選択ができる医師となるように」との激励の言葉に続いて、生野弘道仁澪会理事長(同窓会)の祝辞がありました。「研修医として自分で一生懸命考えて、指導医を困らせるぐらい質問すること」「5200人の卒業生が支えていること」「コロナから逃げずに自分自身の信念をもって進むように」「医療・介護が重要な高齢化社会を迎える日本の医療の中心として支えていくこと」というッセージが熱く伝えられました。
 催し物は、ビンゴ大会です。ビンゴは数字ではなく、参加している教員の名前です。歓談の時間を利用して学生自らが教員の元に出向き、ビンゴカードに名前を書いてもらいます。学生は少なくとも9名の先生方と話す機会があり、大いに盛り上がりました。ビンゴが始まると、シークレットの景品を含む豪華景品とともに温かいコメントが添えられ、すばらしい企画でした。司会の上野あおい様、森井大智様の名司会で大いに盛り上がり、楽しませていただきました。
 ビンゴが終了後、河田医学部長の謝辞があり「夢を持ってほしい」そして「夢に向かって楽しんで活躍してほしい」とのメッセージがありました。
最後に、後輩に向けた卒業生からの記念品の贈呈、そして卒業生代表の挨拶がありました。記念品はグループ学習室で使用するための空気清浄機とハンガーラックです。吉田真未様から首藤教務委員長に目録が贈られました。卒業生の代表として藤井厚一郎様から謝辞がありました。6年間、智仁勇の精神で学び、その重要性を実感していること、仲間とともに高いレベルで社会に貢献していく決意が述べられました。感動しました。
代表の松丸直裕様を中心に実行委員のみなさまにはすばらしい会を開催していただき感謝申し上げます。多くの先生方の熱いメッセージを時々思い出して、立派な医師として社会に役立っていただきたいと思います。    (文責:栩野吉弘)

【卒業生より】
 この度、謝恩会委員代表を務めさせていただきました松丸直裕と申します。本年度もたくさんの方々にご出席いただき、盛大な会となりました。ありがとうございます。大阪市立大学での6年間は、先生方のご指導、そして学務課のスタッフの方々のサポートがあり非常に有意義で価値のあるものとなりました。お世話になった方々への感謝の気持ちを忘れず、71期生一同これから世の中のために尽くしてまいりたいと思います。この度は本当にありがとうございました。大阪公立大学のさらなる発展を祈念しております。 
文責:松丸直裕(令和4年卒、謝恩会委員代表)

『第44回卒後研修会』開催報告

一般社団法人仁澪会 副理事長 昭和57年卒 増田 博

 令和4年2月19日(土)に大阪市立大学医学部第44回卒後研修会が医学情報センター(あべのメデックスビル 6F)で開催されました。

主催:一般社団法人 仁澪会(大阪市立大学医学部医学科同窓会)
共催:大阪市立大学医学部附属病院 卒後臨床研修センター

 今年も昨年同様 憎いコロナの感染拡大が終息しないため、対面ではなく、ハイブリッド形式で行われました。仁澪会副理事長の板金先生の司会ではじまり まず仁澪会理事長の生野先生の挨拶がありました。その後仁澪会副理事長首藤先生の座長の下4人の臨床研修医の先生から症例提示がありました。
 それぞれ興味のある内容でしたが、演題1では糖尿病のため、下腿切断を余儀なくされた患者の1例、演題2は菊池病をリンパ節生検によって診断した症例、演題3では浮動感を主訴に来院された30代男性が精査の末、ギランバレー症候群と診断できた症例、演題4では腰痛を主訴で救急受診した20代女性が糖尿病性ケトアシドーシスだったという症例でした。演題1の症例は残念ながら下腿切断という結果になってしまいましたが、あとの3症例は簡単に診断をつけることが難しい症例だったと感じました。研修医の先生方がいろいろと思いを巡らせて診断にたどり着くプロセスを拝聴させていただいてとても参考になりました。
 休憩を挟んで その後あおばおうちクリニックの北田雄太先生から「Advance Care Plannning(ACP)と社会復帰支援」という演題で特別講演をしていただきました。在宅医療では いろいろなケースがあり個々の対応については 可能な限り患者さんの意向を尊重してあげることが大事であることを強調されました。閉会の挨拶を仁澪会副理事長の増田が行い、終了しました。
 本年4月に大阪市立大学と大阪府立大学の統合が行われ、来年から大阪市立大学という名称が消えてしまうのでとても残念です。

第116回 医師国家試験結果

大阪公立大学医学部 IR 室 (平成9年卒/仁澪会理事) 栩野 吉弘

 大阪公立大学 *医学部IR室の栩野(平成9年卒、仁澪会理事)です。恒例の大阪市立大学の医師国家試験の結果を報告させていただきます。
 第116回の医師国家試験は、 2022年2月5~6日に行われ、 3月16日に合格発表がありました。大阪市立大学の新卒者の医師国家試験の受験者数、合格者数ならびに合格率を全国平均と比較して過去7年間、別表にまとめています。
 大阪市立大学医学部医学科6年生の83名は全員が2022年3月24日に卒業式を迎えることができました。新卒者83名中82名が合格し、合格率は98.8%と全国平均の95.0%を大きく上回るすばらしい結果でした。また、既卒者(いわゆる国試浪人)を含めた受験者数89名中86名が合格し、合格率は96.6%でした。
 今年の6年生は医学分野別認証評価への対応のために新カリキュラムとなった学年であり、カリキュラムの移行期で苦労があったことと思います。そんな中で、誇らしい成績を残してくれました。
大阪市立大学の卒業生として先輩後輩とのつながりを大事にして活躍してくれることを祈念しています。

第116回 医師国家試験結果

*医学部IR室:I R は Institutional Research の略です。教育に関わるデータの収集と分析を行い、大学の医学教育改善につなげるために2018年4月に発足しました。

大阪の医史蹟めぐり―29
大坂の町と医人たち

昭和44 年卒  田中祐尾

麻田剛立(あさだ ごうりゅう) (1734~1799)

【はじめに】

 1615年大坂夏の陣で滅亡した豊臣氏の一大城下町大坂が数年間で見事に復活し「水運と商業の町」(写真②) として急速に発展した約二世紀の間、この地で活躍した医師たちの「封建制度下での各藩の藩医や町医者」とは一味違った生き様・史蹟を追ってみたい。

 急速に膨張したこの一大都市は、幕府の直轄地で大坂城代は徳川直参のエリート官僚が着任し、とくに優れていたのが家康の外孫松平忠明で、伊勢亀山城主から抜擢されて摂津・河内の内十五万石で初代大坂城主に据えられた。彼は先ず町屋の建設に安井道頓・淀屋个庵(こあん)・河村瑞賢安治らによる掘割・架橋・船便のための河川港湾の開発を並行させ、ほぼ灰燼に帰した街を二年で生き返らせる。そのほか東西両町奉行所による厳しい階級社会を起ち上げ、末端の同心(警察官と官吏を兼ねた武士) たちは大坂独特の「ほぼ自由な人流」を許す反面、階級外の非人や犯罪人を大きく市内四カ所に分けて「長吏」を置いて自己管理をさせたうえ、商都・水都の底辺を支える労働力としてその数約一万人が明治まで存続した。それ以外にも農村や地方集落の次男三男たちが「無宿人」として商都大坂の肉体労働を支えるといった雇用の促進があった。禁制のキリシタンたちも「転びバテレン」として「天王寺垣外」に潜り込んで闇の生活を強いられていたが、彼らの持つ教養はオランダ語・英語・ポルトガル語・スペイン語といった外来語と西洋の貴重な文明の発信源で、結果的に大坂が封建制度内での自由都市に育つ下地になったのである。バテレンの利用目的はもう一つあって「犯罪人の情報」を「御かみの犬(密告者)」として囲っていた。自由都市の闇の世界を巧みに操っていたことになる。以上が大坂の社会事情であって、この方式は幕府のお膝元江戸ではうまく行かなかった。

【好奇心の化身麻田剛立】

 脱藩とは藩主から俸禄された武士が、無断で他国へ移住することで封建体制の確立に懸命だった安永元(1772) 年というこの時期には重罪だった。家断絶、家族の追放、俸禄剥奪などが普通だったが杵築藩五代藩主松平親盈はこの藩医であり武士でもあった男の脱藩を、見て見ぬふりをしたばかりか、のちに援助までしていた。剛立の天才ぶりを看破していた名君で、脱藩を許したことが国の暦を替えさせ、のちに伊能忠敬や高橋至時そして間 重富といった日本的学者となる剛立の弟子たちを生むことにもなった。


 ところで脱藩者を容易に受け入れた大坂という土地の文化的風土はというと、享保九 (1724) 年今橋に創設された官許「懐徳堂」(写真③) へ全といった国からの逸材が集まり知能集団が醸成されて各地へと半世紀、水運を利用した商都大坂には、全国からの人材が多く増えて、あらゆる人材や文献資料を選べる商都でもあった。懐徳堂へ寄宿した剛立は長崎経由の中国の暦学書や西洋 (主にオランダ)の望遠鏡、天文学書を手に入れて、毎夜天体観測に没頭する。雨天曇天には人体解剖の予習として小動物の死体解剖を、そして木津川河口、今木新田の処刑場に赴き、刑死体の部分を入手して人体解剖にのめり込む。のんびりと筆記する暇が惜しく、中井履軒が聞き取って写生した『越俎弄筆』は未刊行のまま三部が残っている


【天体観測と同志たち】

 麻田剛立は大坂本町四丁目に居を構えて本格的に太陽と月の運行を追い、ほぼ正確な日蝕と月食を予測して大坂の人を驚かせる。安永年間
(1772~1781) に10回の日蝕と月蝕を記録した『麻田家両蝕実測』が遺っている。驚くべきことに彼が初めて天体望遠鏡を使ったのは安永九 (1780) 年のことで、それまでは全て肉眼による観測だった。使用した器具は磁石 (方角)・自己で改良した渾天儀 (天体の軌跡を追い経緯度を定める球形観測器) (写真④)・象限儀 (星の仰角俯角を図る分度器)・太陽を見るためのサングラス(眼鏡に煤を塗ったもの) (写真⑤)・そして長崎経由で当時最新の中国書と蘭学書の膨大な天文記録書 (天体の暦)・それらを基礎にした過去の軌跡を計算する高度の数学的才能などなど、「日本のコペルニクス」と言われた所以である。何時しかこの天才のもとへ間重富・高橋至時そして伊能忠敬らが入
門、「先事館」を結成し、大坂城内・長堀中橋・本町四丁目・心斎橋・坂町難波橋・道修町・上本町二丁目・富田屋町など先事館社中による八カ所での観測記録が残っている。

【幕府寛政暦の採用】

 剛立の高度の数学的才能と天体観測に賭けた忍耐力は並みはずれたも
ので、誤差だらけだった幕府の天文方 (江戸の天体観測所) に至時と重富が採用されて以後精密な観測の積み重ねと新しい計算法の発見により、遂に我が国の暦が改善され、寛政八(1796) 年現在のグレゴリウス太陽暦に近い暦が国の暦として採用された。忠敬は少し遅れた寛政七年に至時に入門して幕命によって日本全土の地図作成のための測量遍歴の旅に出るが、その先々から計算法と天体の動態の数字を「先事館」問い合わせている。今のように電信はないので一々飛脚による人力の伝達だったので大変な努力が要った。寛政十二(1800) 年、「大日本沿海輿地全図」が完成。現在の日本列島全図の輪郭線と寸分変わりがない。
 一方、正確な暦を作るということは天体の軌跡から地球の公転自転の動態を計算して予測図を作ることで、観測の継続と高度な三次元数学が必須条件であるのは現在も同じ。しかし乍ら太陽も地球も器械のような軌跡は描かず常に修正 (正確な計算) が必要なことは自明の理。まして当時の数学 (和算) による計算方法がどのような精度であったかが推論される。
剛立は球面三角法を用いていた。和算にはなく起源はギリシャ時代でそれが中国へ渡り翻訳されたのが『崇禎暦書』。この数学には三角法が必要条件だったが、剛立は既に球面三角法を使いこなしていて (写真 ⑥) 弟子の至時たちがこの剛立の数学の基礎を受け継いだのであった。

学会主催者報告

第38回日本毒性病理学会および第1回アジア毒性病理学連盟学術集会

会 期: 2022年1月26日~28日
場 所: 神戸国際会議場及びWEB配信
主 催: 大阪市立大学大学院医学研究科分子病理学
会 長: 鰐渕英機(昭和59年卒)

 日本毒性病理学会は、化学物質の毒性・発がん性リスクを評価する上で重要な毒性病理学を研究対象とする学会で、これまで多くの研究成果を生み出すと共に、その成果を基盤として医薬・農薬・化学物質などのリスク評価について社会に多大な貢献をしております。今回、アジア地域における毒性病理学分野での国際交流・協力を目的に日本、中国、韓国、インドの毒性病理学会の交流団体としてアジア毒性病理学連盟(Asian Union of Toxicologic Pathology)を立ち上げ、第1回学術集会を第38回日本毒性病理学会学術集会との合同国際学会として神戸国際会議場で開催いたしました。
 学術集会の準備は、現地開催を切望するも新型コロナ感染のまん延状況を勘案しながら進める必要があり、現地とWEB配信のハイブリッドでの開催とし、会場規模や企業展示規模などについても国内の感染状況を想定しながら進めてきました。開催直前にまん延防止等重点措置が関東地区のみならず、大阪・兵庫・京都にも指定され、海外や遠方のシンポジストにはWEBで講演いただくことになりましたが、現地にも思ったより多くの参加者の出席をいただき、活発な意見交換と交流を行う場として学術集会を執り行うことが出来ました。
 本学術集会では、「毒性病理学の未来を切り拓く技術と創造性」をテーマとして掲げ、また国際的な毒性病理学教育の取り組みを考えるにあたり、日本、中国、韓国およびインドでの毒性病理学教育や資格認定についても講演がなされました。一般演題はポスター発表とし、オンデマンドで約1ヶ月間配信しました。中国、韓国、タイおよびエジプトから50演題と国内を合わせ121演題が発表され、国際化を進めるとともにアジア諸国への研究や教育の発展に貢献をすることが出来ました。本学術集会には、合計672名のご参加を頂き、活発な意見交換と交流を行う場として成功裡に終えることができたと感じております。
 最後に本会に参加頂きました関係各位、協賛企業・団体および運営に尽力してくれた本学分子病理学スタッフに深謝するとともに、本学会主催報告の機会を与えていただいた同窓会の先生方にこの場をお借りして厚く御礼申し上げます。

第13回日本レックリングハウゼン病学会

会期:2022年2月20日 
場所:オンライン開催(配信会場:大阪市立大学医学部学舎会議室)
主催:大阪市立大学大学院医学研究科臨床遺伝学教室
会 長:瀬戸俊之(平成5年卒)

 この度、第13回日本レックリングハウゼン病学会学術大会会頭を拝命し、新型コロナウイルス対策下完全オンライン形式(全live配信)で開催できましたこと報告させていただきます。
 レックリングハウゼン病(neurofibromatosis type 1 : 以下NF1)は出生時よりカフェオレ斑、小児期から全身性神経線維腫、そして悪性末梢神経鞘腫発症のリスクと患者さんご家族にとってたいへん厳しい遺伝性疾患です。症状のみならず、皮膚症状に由来する差別や偏見にも多くの方が苦しまれています。治療困難な本疾患の研究と診療の発展に取り組んできた本学会の歴史を鑑み、今回はテーマを「未来のために努力を重ねる」としました。コロナウイルス蔓延下にもかかわらず、一般演題は例年通り集まり活発な質疑応答が交わされました。特別講演はNF1研究・診療の第一人者である米国ユタ大学 David Viskochil 博士に Changing Care in NF1 with the Advent of MEK Inhibitors として最新の話題提供がなされました。また昨年6 月、本学会発展に寄与された東京慈恵医大新村眞人名誉教授がご逝去されました。追悼企画では門下生である谷戸克己先生、新村先生と長年交流のある UCLA名誉教授 Vincent Riccardi 博士、特別講演の Viskochil 博士から米国から liveで追悼プレゼンテーションをいただきました。一生涯にわたって全身症状を有する本疾患には多診療科・多部門・多職種の医療者がチームとして臨む必要があります。教育講演ではNF1 診療ネットワーク構築に尽力されておられる本学会理事長西田佳弘先生にNF1診療における多科連携及び診療ネットワークの重要性についてお話いただきました。小児では乳幼児健診でみつかるカフェオレ斑に端を発し、保護者の方々は大きな不安を抱かれます。NF1診断後も全く治療法のない難病という扱いで行き場のない思いで彷徨される方が多い現状です。「患者・ご家族の不安とどう向き合うか」というシンポジウムでは医師、遺伝カウンセラーに加えて、NF1の診断を受けた小児のお母様にもご登壇いただき熱い議論が交わされました。
 今回、NF1という一つ疾患を対象にした学会を主催させていただき、過去最高の参加者のもと、この疾患にかかわる医療者の熱意と患者・家族との協力関係の重要性をあらためて実感しました。私が学生時代に不治の病と教わった他の様々な遺伝性疾患で新規治療が試みられています。同様にNF1も地道な研究者の努力の積み重ねが希望の光となり差し込みつつあるのではないかと感じる学会でした。

第96回大阪透析研究会

会期:2022年3月6日
場所:Web開催
主催:大阪市立大学大学院医学研究科泌尿器病態学
会長:武本佳昭(昭和60年卒)

 令和4年3月6日に第96回大阪透析研究会を主催させていただきました。本研究会は第1回学術集会が昭和49年3月17日に故田村峯雄大阪市立大学医学部教授(当時)を大会長として開かれ、その後学術集会が毎年2回開催され、参加者数も2,000名を上回る国内最大規模の地方透析研究会となっています。 
 本研究会は医師以外の多職種の会員から成り立ち、非常に開かれた研究会として、活動してきております。また、透析治療にかかわる医療人が職種を超えて、透析医療の成績向上のために集うことが本研究会の目的であり、今後もこれまで同様に本研究会が透析医療と透析学の進歩のために国内外に情報を発信する拠点として学術集会は開催されてきております。
 大阪透析研究会においても covid-19 による影響で第94回・95回の研究会が1年延期になり Webでの開催となりました。そこで今回は現地での開催を目指し準備をしてまいりましたが、2022年1月からの急激なオミクロン株の増加に伴いやむなく完全 Webでの開催となりました。元々現地開催を目指すため従来よりもスリムな形での開催を企画していたためシンポジウムなどの主要演題などを企画していなかったためか参加者は500名程度でありました。
 ただ、今回の研究会では透析療法・腹膜透析療法のみならず医療の未来に大きく寄与するAIの活用について日本腎・血液浄化AI学会理事長花房規男先生に『腎・血液浄化領域でAIは何ができるか ~その現状と課題』という演題名でAIの開発から医療におけるAIの現状までをわかりやすく講演していただきました。具体的に我々医療者にとって今後AIの活用により診断の正確性・治療方針の適格性などが将来的に向上していくことが予想されることが実感できました。
 また、教育企画委員会セミナーにおいては高齢化が進む透析患者において大きな問題となってきているサルコペニア・フレイルに関して大阪市立大学大学院医学研究科 腎臓病態内科学 准教授 森 克仁先生にサルコペニアの診断および対策に関して『サルコペニア対策 ~一日にして成らず~』という演題で詳しく解説いただきました。
 このようなご講演で私たち透析療法に携わる者が透析患者を全人的にケアーしていく戦略について有意義な討論ができたと考えております。最後になりますが covid-19 を克服し、対面で多くの先生方と討論できる日を待望しております。

受賞報告 医療功労賞 五谷寛之先生(昭和63年卒) 

 昨年12月に読売新聞社主催(後援:厚生労働省他)の第50回医療功労賞に地域医療の発展に貢献した人として大阪府からは大阪掖済会病院上席副院長五谷寛之先生ら2名が選ばれた。
 五谷先生は切断手指の治療で多くの患者の社会復帰に尽力。大阪市大医学部卒業後フランス留学、大学教員を経て大阪掖済会病院に着任し、手外科・外傷マイクロサージャリーセンターを設立。専用器具を開発し損傷した指を伸ばす「手の造形手術」を多数手がけてこられた。海外からの留学生も積極的に受け入れ指導されてきた。

貴重な史料 ~伯父の生物画~ 

昭和33年卒  大谷 遷

 2021年10月に市岡高校から、 「大谷謙之助の生物画が見つかったのでお持ちしましょうか ?」 という電話があった。
 大谷謙之助は父の長兄で、大阪府立医学専門学校(現在の阪大医学部)の学生時代に流行したスペイン風邪(1918年~1920年に流行)で死亡したと聞いている。

 父の兄弟は謙之助、龍雄(神戸高等商業)、象平(市大生化学教授)、卓造(京大 生理学教授)、 憲吉(父)、 篤蔵(大阪府立女子大 国文学教授)、縫子(白旗信夫:寺田病院院長と結婚)の7人兄弟だったが、謙之助が亡くなった時には、次男の龍雄は商業の方に進んでおり、医師は象平、 卓造、 憲吉の3人だった。 父は5番目だったが、 象平、卓造の両名共基礎医学の方に進んだので、憲吉が多聞の後を継ぐことになった。 父の兄弟は全て市岡高校の前身の旧制市岡中学出身である。
 市岡高校の先生には、 持ってきてもらうより、 学校に史料として保管してもらって、写真でも送って下さいとお願いしたら手紙とCD が届いた。 

 実物は畳半畳位の大きさとのことだが、非常に緻密に描かれているのに驚いた。旧制中学の4年生は今の高校1年生である。 当時、顕微鏡の光源は反射鏡で、今のように電気ではなかったし、性能は随分悪かった筈である。有毛虫類というのはよく分からかったが、描かれている左上の画を拡大して見ると Lamblia である。Lambliaは私が第一内科に居た頃(昭和35頃)に、 下痢で衰弱が激しい受け持ちの入院患者が居た。 当時は腸チフスもあったが、原因が分らずに困っていた。 小田教授回診の時に、 Lamblia の検査をするように言われた。 未だ内視鏡は無い時代である。 細い十二指腸ゾンデをベッドサイドで話をしながら2時間位かけてゆっくり飲んでもらって、十二指腸液を採取するのであるが、早く飲ませ過ぎて、胃の中でゾンデが渦を巻いてしまうと、その日は諦めることになる。 次回の教授回診までにと思って頑張って、3回目位にやっと Lamblia を見つけた。 顕微鏡で虫体を見つけた時、これは生涯忘れないと思った。 上図 Lambliaの拡大この虫体の絵を、会ったことがない父の兄が、中学4年生の時に、描いていた。 これは父の兄弟も見たことが無いはずである。

 現在、診療所は長男が継承してくれているが、曽祖父の時代から、130年に亘って代々医家を継承しているとこんなこともあるのだと感無量であった。
 他の虫体の図に興味のある方は、メールを下されば、史料をギガファイルで送りますのでご一報ください。

学生クラブ活動紹介

ギター・マンドリン部

医学部 3 回生  市村篤義

 我々大阪公立大学医学部ギターマンドリン部は毎週火曜日、木曜日に週2回阿倍野キャンパスで練習しています。総部員数は15名であり大半の部員が楽器初心者です。普段は17時から19時の2時間、コンサートが近い時期なら17時から20時までの3時間、明るく楽しんでゆるゆると練習しております。ギターマンドリン部には5種類の楽器があり、クラシックギター、コントラバス、マンドリン、マンドラ、セロで合奏練習をしています。マンドリンは弦が8本あり、同じ音の弦を二本同時に弾いて演奏します。部活動の内容としては年2回行なわれるコンサートである新歓コンサートと定期演奏会に向けての練習になります。新歓コンサートは毎年新歓の時期である4月もしくは5月に行ないます。3曲から4曲程度新入生の前で演奏します。一方、定期演奏会は毎年12月頃にホールを借りて行ない、三部構成で演奏しております。大変壮観ですので是非一度聞きに来てください。

男子バスケットボール部

医学部 4 回生  仁司知希

 こんにちは。医学部男子バスケットボール部です。現在プレイヤー26人、マネージャー7人が所属しており、毎週月・水・土の週3回、杉本キャンパスの新体育館にて練習をしています。一年を通しての大会はいくつかありますが、中でも8月に開催される西日本医科学生総合体育大会(通称西医体)での優勝を目指して、日々の練習に取り組んでいます。私たちバスケットボール部では、その競技の性質上、選手同士で話し合う場面も多く、学年を超えてプレイヤー・マネージャー問わず仲が良いのが特徴です。春からの新入生も加わると、より一層活発な部活になるだろうと思います。私たちバスケットボール部に興味のある方は是非一度、杉本キャンパスでの練習にお越しください。

陸上競技部

医学部 4 回生  藪野貴斗

 医学部陸上競技部は男子13人、女子7人の計20人で活動しています。部の雰囲気としては、学年間の仲もよく和気藹々とした風通しの良い部活だと思います。練習は週1~2回程度、短距離・中距離・長距離・跳躍・投擲など各パートに分かれて、長居公園の外周や杉本のグラウンドで行っています。最近の大会は新型コロナウイルスの影響によって中止されていますが、通常通りであれば年に4回大会が開催されます。大学から陸上を始めた部員も、全学の陸上部と兼部して大会で結果を残している部員も、それぞれが自身の目標を持って仲間と切磋琢磨しながら練習に臨んでおり、以前の関西医科学生対抗陸上選手権大会では男子総合優勝を成し遂げることができました。今年も大会で良い結果を残せるよう部員一同頑張りますので、応援よろしくお願いします。

2021年度定例理事会議事録

大阪市立大学医学部三丘会開催報告

平成5年卒  榎本 大

会期:2022年1月29日
場所:リモート
幹事:榎本 大 (平成5年卒)

 2021年度の大阪市立大学医学部の三国丘高校卒業生による「三丘会」の定例会は、2022年1月29日リモートで開催されました。昨年はコロナ禍のため中止を余儀なくされましたので2年ぶりの開催でした。当初はホテルでの会食を含めた対面の会を予定しておりましたが、年明けからのオミクロン株の予想を上回る急速な感染拡大のため、急遽10日程前にリモートに変更せざるを得なくなりました。関係の先生方にはご迷惑をお掛けいたしましたが、出席予定の先生方のメールアドレスが把握できていたことと、デジタルネイティブ世代の学生の活躍により開催にこぎつけることが出来ました。またリモートに変更になったことにより参加が可能となった先生もおられ、新しい生活様式における新しい開催の形を発見することができました。
 前半は学生(敬称略):西別府駿幹事M5)、奥村一仁(幹事M5)、鶴身知史(M3)、上田聖也(M3)、森光 穂(M3)、山田紘河(M3)、服部 茜(M2)から自己紹介がありました。後半は友田昭二先生(S48卒)よりスペイン語学習、料理、マラソンなどの近況ご報告、根来伸夫先生(S55卒)より症例呈示を含む膠原病のご講演、深井和吉先生(S58卒)より大阪市立総合医療センターのご紹介、内田潤次先生(H5卒)より泌尿器科学教室のご紹介と腎移植についてのご講演、中前美佳先生(H10卒)より血液内科、臨床検査専門医としての歩みと近況についてお話がありました。リモートですと話も弾まないのではないかと心配しておりましたが、大いに盛り上がり、あっという間に2時間が過ぎていました。とは言え来年こそは新型コロナ感染が終息し、多くの先生方と対面で歓談できることを祈っております。

人と医の絆 ヒポクラテスの木 ― 脈々と ―

大阪公立大学附属植物園 (きさいち植物園)
『ヒポクラテスの木育成プロジェクト』

公立大学法人大阪 理事長補佐(元植物園改革担当)  松尾 繁廣

 医学の父と呼ばれる古代ギリシャの医師ヒポクラテスは紀元前460年~375年頃ギリシャのコス島にあるプラタナスの木陰で、弟子たちに医学を教えたと伝えられており、その教えは科学に基づくもので、患者の利益の優先、守秘義務など医師の職業倫理を示した「ヒポクラテスの誓い」は、現代医学に通じるものとされ、医学教育の場で受け継がれているのはご承知の通りです。そのプラタナスの子孫はギリシャに現存しており、その遺伝子を継承したものが、『ヒポクラテスの木』として世界中の病院や大学で育てられ、医師や医師を志す学生を見守り、ヒポクラテスの誓いを思い返すよりどころとされている。
 国内でも100本ほどが確認されており、大阪市立大学医学部附属病院でも育てられています。
 2010年に当時の原病院長が退任される折、もともと新潟の蒲原医師が、1969年にコス島から球状果を日本に持ち帰り播種し発芽させ、緒方富雄博士宅に植えられていたものが、虎ノ門病院に受け継がれ、その木から株分けした苗木を医学部中庭に植樹されました。立派に育っておりますが、大阪公立大学の看護学舎建設のため今は病院の西側斜面に移植されております。
樹木は倒木などで枯れることはよくあることで、それに備えるため同じ大学の植物園の役割として2017年に『ヒポクラテスの木育成プロジェクト』をスタートさせ、遺伝子を継承しております。


 このプロジェクトを原先生が、虎ノ門病院の広報誌で紹介したことがきっかけで、2020年に当時の北海道大学吉岡医学部長から、「医学部100年記念館」を建設するので、そこに『ヒポクラテスの木』を植樹したいと要請があり、3株を献呈し、元気に育っているとのこと。このことは当時読売新聞にも取り上げられ、北海道でもニュースになりました。 さらに2021年11月に福井大学から株分けの要請があり、2022年3月、雪解けを待って2株献呈しております。 福井大学では医学部を卒業して麻酔・蘇生学教室に入局し活躍していた医師が若くしてお亡くなりなり、ご両親から娘さんの遺志を学友たちに受け継いでもらいたいと、ヒポクラテスの木を、当時の学部長の筆による石碑とともに図書館前に植樹されていたものが、 2020年の大雪で折れて枯れてしまい、代わりの苗木を探していたところ大阪市立大学附属植物園に辿り着かれました。北陸越前の気候の厳しさから2株を並べて植樹される予定です。なお、献呈した『ヒポクラテスの木』は、これまでの株を代々受け継いで来られた先生にちなんで、『蒲原株4号(緒方株B)(冲中株30号)(原株1~8号)』と株名がつけられております。 原先生から受け継いだ植物園のプロジェクトが北大や福井大のようにこれからも多くの医学を志す皆さんのお役に立てることを願っております。今回投稿の機会を頂いたことに感謝申し上げます。ありがとうございました。 

編集後記

 2022年4月1日付で大阪公立大学医学部医学科という正式認可が文部科学省から下り身分が確立した我々の立ち位置を眺めてみたい。大阪府立大学と大阪市立大学が「公立大学法人 大阪」に移行したのが2019年(以下月日略)、遡って大阪市会で統合を議決されたのが2018年、府議会での議決が2017年でありました。そもそもこの統合という考え方の発端は大阪府知事を経て市長に立候補当選した橋下徹氏の「大阪都構想」でありました。この都構想の源流が2008年知事時代の1100億円の予算削減案、ひいては「府庁の解体(当時)」「市への一本化」であったのです。そして2014年市長の退職金や特別職の報酬を廃止など「身を切る削減」に徹した政策の一つとして府大と市大統合のゴーサインがありました。2019年西澤良記氏が理事長に就任、以後順調に調整作業進行中という経過を期待していますが、何しろ丁度並行して3年目に入ったコロナ禍の波がブレーキとなっていて、森ノ宮における基礎学舎の建設など、諸計画が遅延していることは否めません。医学部同窓会という外野席からの風景は概ね次のようなもの。府大の農学部・獣医学部など、市大の生活科学部・商学部そして医学部といったそれぞれ独自の学部群。一方両者に共通の経済学・法学・文学・工学そして理学部といった学部群とのちがいについて、どのような統廃合の構想があるのか。何れにせよ府と市の官吏が直接間接に手腕を振るうことになるのでしょうが、行政機構上の従来の格差、市が持つコンプレックス即ち「国と直結する府の官僚が市の存続に関する住民投票で辛うじて生き延びた)市の吏員を牛耳る」という構図・・・・・医学部付属病院にも府の官僚が派遣されて人事を司り、その体質が国立大阪大学(第二)病院へと大きく変貌するのではという、以前誰かが申されていた余り嬉しくない筋書きが見えます。

(田中祐尾 記)

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社会医療法人 弘道会

医療承継という選択肢

大阪公立大学医学部附属病院 先端予防医療部附属クリニック MedCity 21

 我が国は世界有数の長寿国ですが、日常生活が制限されることなく生活できる期間を意味する健康寿命と平均寿命との差が10歳程度あり健康寿命の延伸は重要な課題になっています。
 この今日的な健康課題の解決には、健診によるガンや生活習慣病などの早期診断と発症高リスク者の拾い上げが重要であります。先端予防医療部附属クリニック MedCity21では、高度な専門性と技能を有する大学限属病院現役医師による質の高い健診·人間ドック業務を行っています。
 さらに、大学や企業など様々な機関との共同により AI を含めた画像診断機器の開発を進めており、診断精度の更なる向上にも取り組んでいます。
 健診や人間ドックで異常が発見された場合には、大学附属病院や連携医療機関に紹介いたしますが、疾患の種類や重症度によっては MedCity21 総合診療部門で継続的に診療を受けていただくことも可能です。
総合診療部門では、各専門内科に加えて婦人科、泌尿器科および皮膚科も併診しています。
 診療は大学附属病院の医師が担当しており、専門性の高い医療を実践しています。MedCity21は、皆様がより豊かで充実した人生を送れるように、健診·人間ドックと診療の両面から健康をサポートしてまいります。
MedCity21所長
 渡邉 俊雄(平成元年卒)


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