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楽趣公園(ルーチー・コンユァン)-HANABI 後編-
ゴールデンウィーク明けから間もない皐月のある夜。
真由美が目を開けると男の顔があった。
「ぎゃーッ」
ガバッと彼女が上体を起こすと、目の前で腰を抜かして座る白装束の林太郎が居た。
「お、お父さん…」
「真由美。驚かさないでくれよ。心臓が止まるかと思った」
「それはこっちのセリフですよ。それにお父さんの心臓は止まってるでしょう」
「あぁ。そうだった」
「もう…」
二人、苦笑。
「どうしたんです。急に現れたりして」
そう言いながら真由美は、林太郎の両脇で甲斐甲斐しく世話をする美女たちを見た。
「最近、元気が無さそうだから様子を見に来たんだよ」
鼻の下を伸ばして呑気にそう言う林太郎を、真由美は溜息混じりに眺めて言った。
「お父さんは随分と元気そうですね」
「まぁね」
林太郎、デレデレ。
もう一度、今度は疲れた溜息をついて真由美。
「そろそろ、あたしもそっちへねぇ…」
林太郎は困った顔つきで彼女を見ながら言った。
「それはダメですよ」
「どうしてですか。今、あたしがそっちへ行くと困るんですか?」
林太郎は首を左右に振って言った。
「違うよ。だって真由美は、私の遺言を果してくれてないじゃないか」
「えっ」
「そんなに急がなくたって。お迎えなんて、その内に嫌でも来るからさ。待ってて」
「でも…」
林太郎、両脇の美女たちとまたイチャイチャ。
「それにさ。もう直に、こっちに来たくなくなるくらい楽しくなるからね」
「楽しくなるって。お父さん…」
林太郎たちの姿が乳白色の霞の中にフェードアウト。
「お父さんッ」
*
真由美は突然目覚め、上体を起こした。
「あっ。夢…」
そこは寝室として使っている居間。
まだ弱い朝日にほんのりと照らされた部屋は普段と何一つ変わりなく、その一つ一つを見て確認すると真由美の昂っていた気持ちが落ちついた。
真由美は布団を抜け出すと襖を隔てた隣にある仏間へ行く。
仏壇の前に座ってチャリーンと一叩きして手を合わせる。
気分が落ち着いて目を開けると彼女は、経机の隅に置かれたプラスチック製の小箱を手に取って眺めながら呟いた。
「もう。林太郎のやつ。あんな遺言残して…」
*
真由美が話した夢の話と中国語を勉強しようと思い至った経緯を聞いて、サミーと純太は腹を抱えて笑った。
「ちょっと、お前さんたち。笑い過ぎだよ」
「それが中国語を勉強しようと決心した理由だったなんて」
「だって。悔しいじゃないか。若い美女二人に挟まれて。デレデレ楽しそうにして。何であの人だけが好い思いするんだい」
「でも、その美女二人。本当に中国人だったんですか?」
サミー、ニヤニヤしながら真由美に尋ねる。
「大陸か台湾かは知らないよ。でもあの二人、確かに中国語を話していたよ。だからさ。私だって流暢に中国語を話せるようになって、大陸か台湾のイケメンをゲットして亭主の奴を見返してやろうと思ったんだよ」
「済みません。そんな矢先に会っちゃったのが自分で」
純太、ちょっとお道化た様子。
「パッと見良かったから、当たりだって思ったんだけど。開口一番、僕はゲイですなんてカミングアウトするもんだから調子狂っちゃったよ」
「純太。ちゃんとカミングアウトしたんだ」
「まぁね」
「サミーも良かったんだけどねぇ…」
「彼を狙っても無駄ですよ」
純太はサミーと腕を組んだ。
「バカ云ってるよ」
*
数日後、事件が起きた。
純太とサミー。
真央と仁美。
中国語レッスンの面々だったが、その日は珍しく真由美が中々姿を現さない。
「珍しいですね。真由美さんが遅刻するなんて」
仁美がそう言い終える間際で、真央が不安クライマックスに声を上げた。
「先輩。きっとトラブルに巻き込まれたのよ」
「そんなぁ。真央さん。心配のし過ぎですよ」
「そんなことない。そんなことない。ねぇ、どっちでも良いから電話して」
「またぁ。真由美さん、直に姿を現すから。真央さん落ち着いて」
「そんなぁ。仁美は先輩が心配じゃ無いの?」
「そんなことはありませんけど。真央さん。ちょっと騒ぎ過ぎ…」
「まぁ、まぁ。お二人とも落ち着いて。僕がちょっと電話してみますから」
そう言ってスマホを取り出した純太の顔が曇った。
「あっ。真由美さんからメッセージだ」
彼女からのメッセンジャー見て、純太は思わず腰を浮かした。
「えっ。どうしたのよ」
「真由美さんが…」
「どうしたの?」
「階段から落ちて足を挫いたって」
「えーーーーッ」
仁美と真央、ほぼ同時に声を上げる。
「純太。早く行かなきゃ」
彼は頷く。
「僕も一緒に行くよ」
二人は公園の出口へと向かう。
「えっ。ちょっと待って」
真央、慌てふためく。
「あたし達も行くから…」
仁美は、オロオロする真央を立たせて二人の後を追った。
*
坂本園。
「真由美さんッ」
店に入るなり純太が彼女を呼ぶ。
「あぁ。来てくれたのかい」
「直ぐ行きますから」
純太とサミーは、階段の降り口で挫いた足を摩りながら座り込んでいる真由美を見つけるや彼女の横へ駆け寄った。
「痛みますか?」
「はぁ。ちょっとね。でも、大したことないよ。でも、立てなくてねぇ」
「純太。病院」
「そうだね。真由美さん。かかりつけのお医者さんとかいます?」
純太が尋ねると、彼女は近所で救急外来のある総合病院の名を言った。
「娘がね。そこで内科医をしててね」
「じゃあ。そこへ急ぎしましょう」
両脇を二人に支えられ、漸く真由美が立ち上がったところで真央と仁美が来た。
「先輩…」
「仁美さん。済みませんが病院へ連絡して下さい」
純太、真由美の娘が勤務する総合病衣の名前を言った。
「あぁ。じゃあ。私、病院へ連絡するから、真央さんはタクシー呼んで」
二人が手配している間、左右の純太とサミーの顔を見ながら真由美は笑った。
「どうしました?」
「イケメンの若い男たち二人に抱きかかえられて。この様子を死んだ亭主に見せたら、奴さんヤキモチ妬くかねぇ…」
純太は、こんな状況でも冗談交じり強がりを言う真由美を見て少しホッとした。
*
「軽い捻挫ですね」
医師は真由美の処置を終えると続けて言った。
「だからと言って無理は禁物ですよ、坂本さん。最低、一週間は安静にして下さい」
「一週間」
「あくまでも最低の期間です。こう申してはなんですが、お歳なんですから。完治されない内に負担を掛けると、治る捻挫も治らなくなりますよ」
「挫いただけで大袈裟だねぇ」
真由美は、プイッと横を向いた。
「お母さん。先生の言う事聞かないと歩けなくなるわよ」
ドアに真由美の次女の蘭子が、腰に手を当てて立っていた。
「あぁ、坂本先生」
「済みません。母が我がまま言って」
「いえ。そんなことはありませんよ。軽い捻挫ですから安静にして頂きさえすればよくなりますよ」
蘭子は真由美の傍らに立つ純太とサミーに声を掛けた。
「純太さんとサミーさんですね」
「あっ。はい…」
「母がいつもお世話になっております。今回も病院まで連れて来て頂いて。本当にありがとうございました」
恐縮する二人。
「お二人のことは母から聞いてます。気難しい年寄の相手をして下さって感謝してます」
「気難しい年寄って誰だい?」
純太とサミー、苦笑。
「あんたたちも何笑ってるんだい」
「まぁまぁ。坂本先生。お母さまもそれだけ元気でしたら大丈夫でしょう。湿布の薬は少し多めに出しておきますから」
*
病院のロビー。
「本当に申し訳ありません。何から何までお世話になりっぱなしで」
「大丈夫です。家も坂本園から近いですし。サミーは、この後出社なんで僕だけで真由美さんを家までお送りします」
「お母さん。家で大人しく過ごしてね」
「言われなくても分かってるよ。あんたも忙しんだろ。早く仕事にお戻り」
「もう。宜しくお願い致します」
真由美は、蘭子に声を掛けた。
「えっ。どうしたの?」
「忙しいのに、ありがとうね」
蘭子は笑顔で手を軽く振って、職場へ戻って行った。
*
坂本園、二階。
「真由美さん。本当に二階で過ごす積りですか?」
「だって普段寝起きしているのはここだからね。それにお仏壇もあるし」
線香を上げ、鐘を鳴らすと真由美は仏壇に手を合わせた。
この家の二階に上がったのは初めてだったから、純太は部屋を繁々と眺めた。
もう亡くなってしまったので今は無いが、純太が子供の頃に遊びに行った祖父母の家に雰囲気が似ていた。
「どうかしたかい?」
「いいえ。何だか祖父母の家に雰囲気が似ていたので懐かしいなって思って」
「おじいちゃん、おばあちゃんは元気かい?」
「どちらも亡くなりました。僕が高校生の時でした」
「そうかい。聞いちゃいけなかったねぇ」
「そんなことないです。大丈夫です。二人が住んでいたその家は二人が亡くなって人手に渡り、新しい持ち主が立て替えたので今はありません」
「それは残念だったねぇ」
「僕もお線香を上げさせてもらっても良いですか?」
「どうぞ。どうぞ」
純太は真由美と入れ替わりで仏壇の前に座り、お線香上げる。
鐘を鳴らすと、彼は手を合わせた。
顔を上げた純太を見て、真由美は言った。
「ありがとうね」
「どういたしまして。こちらこそ、ありがとうございました」
「あの人もきっと喜んでいるよ」
純太は、真由美の亡夫の林太郎の遺影を見て言った。
「お幾つだったんですか?」
「83歳だったね」
「亡くなられて随分経つんですか?」
「12年前。生きていれば95歳だね。あたしとは、17歳離れていてね」
「へぇー」
「不思議な人だったね。一緒に居て飽きなかったけど」
柔和な笑みの真由美は、林太郎の遺影を見つめながら話を続ける。
「農業試験場の事務員のアルバイトに行ったら、この人が居てねぇ。上司だったんだけどね、向こうがあたしに一目惚れしちゃって。気がついたら結婚してたよ」
「運命の出会いですね」
「そんなのじゃないよ。向こうはそう思ってたかもしれないけど、あたしの方は全然」
二人、笑う。
「でもねぇ。一緒に居るとホッとできる人だったね。お茶ッ葉のオタクみたいな人だったけどね、あたしにも子供達にも穏やかで優しい人だった」
真由美は遺影を手に取ると、顔の上あたりをハンカチで拭いた。
「湾生って知ってる?」
「ワンセイって、戦前に台湾で生まれた日本人の方たちのことでしょう?」
「そう。うちの主人ね、その湾生の一人でね」
湾生とは、台湾が日本の植民地だった50年間に台湾で生まれた日本人のことだ。第二次世界大戦終結後に台湾が独立し、湾生たちは日本へ帰国した。何年か前に彼らを取材したドキュメンタリー映画をサミーと見たことがあったが、まさかこれほど身近に湾生の一人が居たとは純太の思いもよらなかった。
「義父は、坂本富三郎と言ってね。坂本本家の三男に生まれた。跡継ぎじゃないから気楽な御身分だったらしいけど、東京帝国大学の農学部に入ってね。茶葉の研究をしたんだよ。卒業後、台湾へ渡って茶葉の改良と技術指導をしながら台湾帝国大学で教鞭をとっていたらしい。経歴だけ見ると変わり者だろ。亭主の林太郎は台湾で生まれて、台湾帝国大学の農学部入って父親と同じ道へ進んだんだよ。あの親子、似た者同士だったね」
真由美、苦笑。
「義父の兄弟たちは割と早くに亡くなって、その子供たちが本家を継いだんだけど戦局の悪化で次々に兵隊に取られて戦死。それで富三郎さんが急遽継ぐってことになって帰国したんだそうだ」
「林太郎さんも、その時に?」
「ううん。あの人は大学に入っていたから一人、台北に残ったんだよ。理系の学部だったから学徒動員も外れて。そのまま終戦を迎えたんだけど、帰国に苦労したそうだよ。やっと戻って東大の農学部に入り直して茶葉の研究に戻ったんだけど、大学院の卒業と同時に地元の農業試験場に入ったのさ。東大生が来るような職場じゃなかったもんだから、どう扱って良いのか分からなくて大変だったみたいだよ。ずっと独身でね。見合いとかは何度かやったらしいけど、お茶ッ葉オタクの変わり者だからまとまらなかったね。本人もその手のことには無関心でさ。お茶ッ葉の研究に没頭できる方が良かったから、周りがどう思うが平気の平左。自由気ままだったね」
「それでも、真由美さんと運命の出会いがあったわけですよね?」
「運命の出会いね。あの人が聞いたら、きっと喜ぶよ。まぁ、そういうことにしておこうかね。あたしのことが何だか気に入ったみたいで、周りが驚くぐらい積極的で。人目なんか気にしない人だから、押しの一手で。あの人ね、意外と人の懐に入るのが上手いんだよ。気がついたらさ、あたしの両親がえらく気に入っちゃってて。流石に歳の差があるから好い顔しなかったのにガラッと懐柔しちゃって。惚けた人だよ」
二人、笑う。
楽し気に語り続ける真由美を見ていると、純太は林太郎に会いたくなった。
「最後の最後まで、本当に惚けた人だった」
「えっ。どうしたんです?」
「実はね、この人の遺言に困ってるのさ」
「遺言?」
真由美は頷き、林太郎の遺影を仏前に戻した。
「歳をとってから、生まれ故郷の台湾が恋しくなったみたいで。台北へ行きたいと思ってはいたらしんだけど果たせなくてね。いよいよ最後になって、あたしに頼んだんだよ。俺が死んだら、遺髪を台湾大学の農場の片隅に埋めてくれって。最期じゃないか。あたしも感極まって涙ボロボロ流して。わかったよ。お父さんとの約束、必ず果たすからねって約束してさ。お父さんも、うんうんと頷いてくれてね。穏やかな顔で目を閉じて。あたし、涙を拭きながら、あの人の顔を繁々と見ながら大変な事に気づいちゃったんだよ」
「えっ?」
「あの人ね。写真で見て通り。ツルッ禿なのさ」
「あっ」
「だから遺髪になるような髪の毛が無いんだよ。それで慌てて、あたしは言ったよ。お父さん。目を覚まして。お父さん、お父さん。お父さん、髪が無いッ」
「…」
「でも目を覚ましてくれなくて。そのまま昇天しちゃった」
「はぁ…」
「困ってねぇ。子供達ともどうしようかって。それでね、遺髪は無理として爪なら取れるからそれで勘弁してもらおうってことになって」
真由美は、仏前供えられた濁白色のプラスチックの容器を手に取った。
それは、百円ショップでよく見かける容器である。
彼女は蓋を開けて、純太に中身を見せた。
「林太郎さんの遺爪(いつめ)」
「…」
「時々、あの人が夢枕に立つんだけどね。この約束を果たすまではこっちに来ちゃダメって言われてるのさ」
真由美は、力なく溜息を漏らしながら言った。
「遺言。約束は約束だからねぇ…」
「あっ。もしかして中国語を習おうと思ったのって、本当はご主人との約束を…」
真由美は頷きながら言った。
「実現するなら大学と交渉しなきゃならないだろう。多少、話せた方が良いかと思って」
しょんぼり話す真由美を見て、純太は可愛いと思いつつ苦笑を堪えた。
「いつ実現できることやら」
*
PC画面の向こう側で膝に乗せた愛犬の富富(フーフー)の背中や頭を撫でながら、老板は笑った。
『真由美さん。あんな感じだけどお茶目な人なんだね』
サミーは淹れたてのコーヒーの入ったカップを純太に渡すと、彼の隣に座った。
『サミー。久し振りだね』
「老板も元気そうですね」
老板の隣に太太(タイタイ)が座り、富富の頭を撫でながら純太たちに話し掛けた。
『サミー。ちょっと貫禄ついたかい?』
「それ、太ったって言ってます?」
太太は、ニヤニヤしながら言った。
『幸せなんだね』
富富は甘えるようにクンクン哭きながら太太の掌を舐めている。
サニー、破顔。
純太、赤面。
『ところで、真由美さん。足を挫いたそうじゃないか』
「あぁ。そうなんですよ。軽い捻挫です」
『大変ねぇ。後でお見舞いのメッセージを送っておくわよ』
「太太からのお見舞い。喜ぶと思います」
『私も送ったんだがねぇ』
『あんたのメッセージじゃねぇ』
『ダメかい?』
『だって、あんたは気の向いた時しか送らないじゃない。その点、あたしは普段からやり取りしてるから。真由美さんとの親密度は大だよ』
老板も太太も、真由美さんと結構やり取りしているのかと、純太はちょっと驚いた。
「流石にちょっと気落ちしてて…」
『そうだろうね』
「亡くなったご主人との約束を果たすのがこれでまた、ちょっと遠のいたなって」
『約束って?』
『太太。真由美さんの亡くなったご主人、湾生らしいよ』
『おや。台湾生まれの日本人なんだ』
「そうなんですよ。戦後に引き揚げて以来、台湾へ行けずに亡くなったらしいです」
『そう。生まれ故郷に戻れなかったなんて可哀そうに…』
「望郷の念はあったのか遺言で、遺髪ならぬ遺爪を台湾に埋めて欲しいって」
『ふーん』
『今は無理だろうけど、パンデミックが明ければ飛行機で二時間。直ぐに来れるわよ』
太太以外の三人、苦笑。
『えっ。どうしたの?』
純太は、少し困った様子で言った。
「埋める場所の指定がありまして。ちょっと難しい場所なんですよ」
『どこ?』
『台湾大学。しかも農学部の農場らしいよ』
サミーがそう言うと、太太は気の抜けた表情になった。
無理もない。
日本で言うなら差し詰め、東京大学農学部の農場に個人の遺髪を埋めてくれと言っているようなものである。
『どうしてそこなの?』
「戦中に農学部の学生だったみたいです。お父さんも台湾大学の同じ学部で教鞭をとられていたみたいで」
太太は老板の顔を見て言った。
『あんた。何とかならないの』
『えっ』
『あんたも台湾大学の卒業生じゃない。しかも農学部だし』
太太以外の三人、それぞれに無表情。
沈黙を破ってサミーが言った。
「老板。台湾大学のOBなんですか?」
小さく頷く、老板。
続いて、純太が追随。
「しかも、農学部のご出身?」
『まぁね』
『まぁね、じゃ無いわよ。この人ね、こう見えて同窓会の事務局の一員なのよ。同窓会のパーティの音頭取り。同窓会があると酔っぱらって。毎年、あたしが車で迎えに行ってるのよ。ここ2年はパンデミックで同窓会ないから平和だけど。他ならぬ真由美さんのお願いだよ。亡くなったご主人との約束が果たせるように尽力しなさいよ』
『そうは言ってもねぇ…』
『飲んだくれてるだけの老人連中なんだから、こんな時くらい人助けしな』
富富、太太に歩調を合わすかのように一声軽く吠える。
『そんな、無理いうなよ』
『義が廃るよッ』
頼もしい太太に、純太とサミーは手を叩く。
『参考までに聞くけどね、真由美さんの亡くなったご主人の名前を知ってるかい?』
「確か、坂本林太郎」
『えっ』
老板、驚愕の表情。
「お知り合いですか?」
『ひょっとして。その坂本林太郎さんのお父さんって、富三郎さんかい?』
「はい。確か、そんなお名前でした」
老板、絶句の後に肩を落とす。
そして彼は、諦め顔で言った。
『知合いも何も。林太郎さんは亡くなった親父の親友で、富三郎先生は親父が世話になった恩師だよ』
「ええッ?」
純太とサミーの声が重なる。
『あんた。それなら、解ってるねッ』
厄介なことに突然巻き込まれて途方に暮れつつ、力なく頷きながら小声で言った。
『こりゃあ、もう逃げられんかぁ…』
*
朝の公園。
純太、サミー、真央そして仁美の四人は、真由美の到着を待ちながら会話をしている。
「縁っていうのは、どこで繋がっているのか分からないものねぇ」
真央がそう言うと、仁美は身を竦めた。
「でも、ちょっと怖いですね。台湾と日本。今と昔がこんなに繋がってるなんて」
「だから、悪い事なんかしちゃいけないんだよ。来世で仕返しされるよ」
「ちょ、ちょっと。真央さん。変なふうにくすぐらないで下さいよ」
仁美はブルッと身体を震わせ、自分にちょっかいを出す真央を不機嫌に睨んだ。
「冗談よ」
「それにしても、真由美さん遅いですね」
「そうねぇ」
「それにキジトラも来てないし。何かあったのかなぁ」
*
キジトラキャットは、店と母屋を繋ぐ出入り口に腰掛け、鼾をかきながらその場に座っている真由美に身体を摺り寄せて甘えた。
「ミャーオ」
返事は無い。
その代わり彼女は、首がガクッと項垂れるとそのまま横になった。
真由美の口元に鼻を近づけて彼女の臭いを嗅いでいたキジトラキャットだったが、やがて何かの異変に気がついたのか、二、三歩後退り。
そして、その場から飛び降りると小走りに店の入口へ向かった。
シャッターは開いていて、キジトラは普段しているように扉の縁を何度も引掻いて引っ張る。やがて扉が僅かに開くと、その隙間から外へ出て猛ダッシュで公園へ向かった。
*
噂をすれば何とやらで、真由美を待つ面々の前にキジトラが突然現れた。
「キビ助」
「遅かったねぇ。先輩はまだかい?」
何だかソワソワし、キジトラの様子が普段と違う。
キジトラの背中を撫でようと伸ばしたサミーの手をすり抜けると、キジトラキャットは純太の膝の上へテーブルから飛び降りた。
サミー、小首を傾げてキジトラを見る。
「おっ。どうした。キジトラ?」
純太がそう言い終わるかしない内に激しく鳴きながら彼のTシャツを引掻いた。
「あっ。ダメだって。止めろよ、キジトラ」
サミーがキジトラを抱き上げようとすると、唸り声を上げて威嚇。
「キビ助。ダメ」
仁美の叱責を無視。
「純太。何か様子がおかしいよ」
オロオロする純太。
「ひょっとして、キビ助は何かを伝えようとしているんじゃないの?」
真央にそう言われ、純太は両手でキジトラを持ち上げた。
「ギジ。どうした。真由美さんに何かあったのか?」
キジトラは激しくもがき、純太の手から離れて地面に着地。そして空かさず、純太のスニーカーをTシャツ同様に引掻き始めた。
「小純。坂本園。早点去坂本園吧ッ(早く、坂本園へッ)」
*
「真由美さんッ」
純太は倒れている彼女に駆け寄り、抱き起して彼女へ声を掛ける。
「小純ッ(シャオジュン)」
「サミー。早点叫救護車(早く救急車呼んで)」
仁美と真央が駆け付けた。
「早点叫救護車。救護車ッ」
「えっ」
「何、なに?」
「救護車ッ」
「あっ。先輩」
「早く。救急車」
「あっ。救急車、救急車」
*
サイレンの音。
真由美は脳梗塞で緊急入院した。
*
朝、公園のいつもの場所。
思い空気の中で真由美の話をする四人。
「入院して三日ね。先輩、どうなのかしら?」
「昨日、蘭子先生から連絡があって、手術の方は成功したらしいんですが…」
「重症なの?」
「どちらかと言うと軽いみたいなんですが、どういうわけか意識が戻らないらしくて。このままだと後遺症が出るか、麻痺も残るかも知れないそうです」
「えっ。後遺症。麻痺って。先輩。どうなっちゃうのよ…」
「真央さん。落ち着いて」
「だって。先輩。えっ。どうなるのよッ」
三人、無言。
「誰か。先輩のこと。何とかしてよッ」
*
目覚めた時、真由美は濃い靄の中に居た。
「やっと気がついたかい?」
「えっ?」
声のする方に目をやると、点滅する小さな炎がある。
それは煙草らしく、香煙が時折彼女の鼻をくすぐった。
「誰?」
男の頭の辺りだけ靄が晴れ、船頭が良く被っている麦わらの三角編み笠が見えた。
「死んだの亭主の声を忘れたかい?」
男は振り向いた。
「林太郎、さん…?」
「あぁ、そうだよ。真由美」
彼はニッコリ笑って見せた。
*
真由美が入院してから十日が経った。
彼女が入院している総合病病院の受付ロビーで純太とサミーは蘭子を待った。
真由美が倒れて入院して以降、キジトラキャットを蘭子が預かっていたのだが、彼女の住むマンションはペット禁止。
隠れて預かるのもそろそろ限界で、思いあぐねた末に純太に相談したのだった。
「蘭子先生」
蘭子は猫用のキャリーバッグを持って、二人の前に立った。
「コーヒーでも飲みましょう」
二人は席を立った。
*
「また夢ですか…」
そう言う真由美を、林太郎は少し困った顔つきで見返した。
「えっ。夢じゃないんですか?」
林太郎は、曖昧に頷いて見せた。
「じゃあ、ここはあの世?」
「うーん。近いけど、ちょっと違う」
周囲の靄が少し薄くなり、目の前に川が見えた。
「これって、もしかして三途の川?」
「そうだよ。向こう岸の先が、あの世だよ」
「そうなんだぁ…」
感心しきりに三途の川を眺めていた真由美だったが、ハッとして林太郎を見る。
「えっ。でも。どうして、お父さんがここに?」
「迎えに来たんだよ」
林太郎の頭からつま先まで繁々と見回して。
「でも、何で昔の船頭さんの恰好なんです?」
「三途の川の渡し守だからね」
「また、アルバイトですか?」
「まぁね。雰囲気あるかい?」
二人、笑い。
林太郎は、吸い終えた煙草を吸殻ケースに入れた。
「最近は煙草の投げ捨てすると叱られるのさ。現世みたいに罰金は取られないけどね」
二人、再び笑い。
「お父さんがお迎えに来てくれたんですね」
「まぁね」
「もう二度と会えないと思ってましたよ」
「夢枕で何度も会ってるじゃないか」
「それとこれとは…」
「会えて嬉しいよ」
「私も」
手に手をとって見つめ合う二人だったが突然、林太郎が妙に照れ始めた。
「お父さん。どうしました?」
「実は、ここに迎えに来れた理由があってね」
「理由?」
「つまり。その。あれだ」
「?」
「真由美。俺と一緒になった時。初めてだったろ?」
「初めて?」
「初夜というか、処女というか。つまり俺が、最初の男だったろ?」
「あ、あら。嫌だ。お父さん。何言ってるの」
真由美、初々しくモジモジ。
「どうも三途の川の渡しの決まりで、初めての男が迎えに行くの約束事になっているらしくてさ」
「えっ。そんな決まりがあるんですか?」
「兎も角、俺が迎えに来れて良かったよ」
*
総合病院の食堂。
昼食時を過ぎた時間だったから、蘭子たち三人以外の利用客は居なかった。
蘭子は自販機の紙コップコーヒーを、意識が戻らないで眠り続けている真由美を映した映像を見ている二人の前に置いた。
「良かったら召し上がって」
二人は彼女に会釈し、再び映像を見た。
「症状は幸い軽かったから、意識が戻っていてもおかしくないはずなんだけど。一向に戻らなくて。今日で十日になるわ」
「このまま意識が戻らないってことじゃ無いんでしょう?」
純太の問いに、蘭子は不安気に首を振った。
「それが…」
「えぇッ」
「そんなぁ…」
*
「さぁ、そろそろ行こうか」
「愈々、行くんですね」
そう言って真由美は、靄に沈む殺風景な三途の川の岸辺の風景を見回した。
「やっぱり行きたくないかい?」
真由美、返事を躊躇う。
「少し前までは、あんなに行きたがってたのにさ」
「もう。イジワル」
「気持ちは解るよ。純太さんたちと出会って、世界が広がり。毎日に刺激があって。あの世に来たがってた頃が嘘のように楽しく過ごしていたからね」
「…」
「だから前にも言ったろ。お呼びなんて、来て欲しくない時でも勝手に来るって」
「そうですね。つまんないままでじゃなくて死ぬ前にちょっとだけ、忘れちゃってた人生の楽しみを思い出せたんだから。果報者と思わなきゃイケませんよね」
林太郎は、穏やかに頷いて見せた。
「でも…」
「?」
「純さんたちに、最期のお別れを言いたかった」
真由美は再び振り向き、荒涼たる岸辺をもう一度見た。
「真由美」
向き直った彼女に林太郎が手を差し伸べた。
「一緒に行こう」
*
キジトラが入れられている猫用キャリーバッグを蘭子は、純太たち二人の前に置いた。
「ごめなさいね。こんなお願いして。この猫ちゃん、母の命の恩人だから私の兄や姉のところで面倒見たいんだけど。マンション、どこもペット禁止で。私のところで内緒で預りはしたんだけど、暇持て余した煩いご近所さんが居て厳しいの」
「大丈夫です。うちのマンションはペットOKですから。それにキジトラの奴とは僕もサミーも旧知だし、特に、僕よりサミーに懐いてますから。安心して下さい」
「ホッとした」
二人がキャリーバッグの覗き口から中を見ると、キジトラキャットは眠っていた。
「また眠ってるよ、こいつ」
「猫って眠るのが好きなんだよ。そう言えば、純太も居眠り…」
「サミー。煩いっ」
*
「ねぇ。お父さん」
真由美は、竿を操って舟を進める林太郎に話し掛けた。
「何だい?」
「あの世って、どんなところなの?」
彼女に問いに答えず、林太郎は竿を川から上げて船に置くと、舳先側で彼女に向き合うように座った。
「お父さん。舟、大丈夫なの?」
「もうここまで来ればね。後は、水面が勝手に舟を向う岸まで送り届けてくれるよ」
「そうなの…」
そう言って、真由美は押し黙る。
彼女の胸を寂寥が包んだ。
「そう。そうなんだ…」
林太郎は編み笠を取って膝の上に置くと、そう言って彼女の顔を見た。
「もう。戻れないのね」
柔和だが曖昧な笑みを浮かべて、真由美はポツリと言った。
*
キジトラが目を覚まし、大欠伸をしながらミャーオと小さく鳴いた。
「まだ眠いのかなぁ」
「呑気な奴だ」
二人に気づくとキジトラは、前脚を伸ばしてキャリーバックの入口を撫でる。
「出たいんじゃないかな?」
サミーがそう言うと、純太は蘭子に尋ねた。
「ちょっと出してやっても良いですか?」
「純太。ここ病院だよ」
「ちょっとの間だけ」
「良いわよ。出してあげて。ずっと中に居たから」
純太がバッグの口を開き、サミーがキジトラを抱き上げる。
「キジ。元気だったか?」
「ミャーオ」
サミーが膝の上にキジトラを乗せて頭や背中を撫でてやると、キジトラは気持ちよさそうに目を細め大人しく収まった。
「本当によく懐いてる」
「こいつに出会ったのは僕の方が先で、付き合いもサミーより長いんですけどね。キジトラの奴、サミーがお気に入りみたいで」
純太はキジトラをちょっと睨んで。
「ちょっと妬けます」
蘭子とサミーは、そんな純太を見て苦笑した。
*
「そう言えばキビ助、あたしが居なくて大丈夫かしら?」
「心配しなくても、大丈夫だよ。純太さんとサミーさんの二人が面倒見てるから」
「そう。良かった…」
ホッとしながらもどこか寂し気な表情が、真由美の顔を過る。
「なんだかんだ言っても、キビ助のことは可愛がっていたね」
「可愛くないわよ。気ままで惚けた猫。よく居眠りしてるし。変わった猫よ」
「看板猫だったじゃないか。店にキビ助目当てのお客さんも増えたし」
「一時のブーム。SNSだって、最近サボってるし」
「でも、キビ助のこと気に入ってるだろ」
「そうね。確かに認める」
林太郎は、静かに煙草を吸い始めた。
「変わり者だけど居ないと気になるし、居るとホッとする。お父さんみたいだった」
「えっ。俺って、猫かい?」
「さぁ。どうでしょう?」
*
「キジトラって、不思議な奴なんです」
「不思議?」
「人寄せ磁石みたいな奴で。僕と真由美さんもキジトラが引き合わせたようなもんです」
「この猫がねぇ…」
真由美を初めとして、この数ヶ月に出会って交流の始まった人々の顔が、純太の脳裏に次々と過って行った。
*
「お父さん。初めてのデートを覚えています?」
「よく覚えているよ。八津元スーパーだろ」
「映画か遊園地に連れて行ってくれるのかと思ってたのにスーパーなんて」
「開店したてだったから、見てみたかったんだよ。一人じゃ、何となく入り難かったから。ダメだった?」
「気持ち、分からないでもないけど。あそこ、親戚のスーパーよ。二人の買物の一部始終を叔父に見られちゃってて。後で冷やかされて大変だったんだから」
「そっか。ゴメンね。でも、あの店の店頭で買って食べた焼きトウモロコシ、凄く美味しかったな」
「あぁ。あれは美味しかった。忘れられない味の一つ」
「もう一度、食べたいな」
「ねぇ。お父さん」
「うん?」
「あの世に焼きトウモロコシって、売ってるかしら?」
「さぁ。どうかな…」
*
キジトラキャット、蘭子が出したキャットフードを食べている。
「ところで、午後の診療は?」
「今日は午前中だけなの」
蘭子はコーヒーを一口飲んだ。
「あっ。そうそう。餌代とか、掛かった費用は遠慮なく請求してね」
「別に構わないですよ」
「そう言う訳にはいかないわよ。預かってもらうんだし。本当なら、預り料をお支払いしなきゃならないんだから」
キジトラキャットは、ガリガリ音を立てながらキャットフードを旨そうに食べている。
*
あの世のことが出ると、林太郎は妙に話しを逸らした。
そのことが気になってはいたが、真由美は深く聞くこともせず話題を切り替える。
「そう言えばお父さんから、台湾のことを聞いたこと無かったわね」
「そうだったかい?」
「台北に住んでたんでしょ?」
「まぁね。家は青田街にあったよ」
「あおた…?」
「現在の永康街の隣町だね。軍や政府高官の家が集まってた町だったよ。台湾大学の官舎もあって、親父が台湾帝国大学で教鞭をとっていた関係からウチの家もあったんだ。静かな住宅地で、日本でいうところの青山みたいな感じの町だったね」
「ふーん」
「近所に葱抓餅(ツォンジャアピン)、葱の入った薄焼きの餅なんだけどさ、それを売っている店があってさ。おやつで毎日食べてたんだけど、あれは旨かったなぁ」
「ツォンジャアピン?」
「うん」
「お父さんの台湾の思い出ばなし、初めて聞いた。もっと聞かせてよ」
「うん。話し切れるかなぁ?」
「そんなにあるの?」
「うん」
「大丈夫。あの世に行ってからも、たくさん聞くから」
「…」
*
満腹で眠くなったのか、キジトラキャットはサミーの膝の上で目を細めたり、開いたりしている。
「純太。キジの奴、眠そうだから。俺たちもそろそろ帰ろうか」
「そうだね」
「そう。帰られます?」
「はい。真由美さんの様子に変化があったら、教えてください」
「そうさせてもらうわね」
サミーが猫用キャリーバッグのファスナーを締めようとすると、キジトラの奴が突然目覚めた。
「キジ。どうした?」
そう言ってサミーがキジトラの頭を撫でようとすると、それをスルリと交わしてバッグから飛び出した。
「キジ。おいで」
サミーの声を無視し、キジトラはスタスタと食堂の出口へ向かってキャットウォーク。
「しょうがない奴だ」
二人が立ち上がり、キジトラを捕まえよう追い駆ける。
キジトラキャットは振り向き、二人の顔を見てミャーとひと鳴き。
そして、全速力で走り去った。
「ああッ」
「キジッ」
二人もキジトラキャットの後を追った。
*
霞に煙る対岸が見えた。
「もう直ぐね」
「うん」
「向こうに着いたら、二人で何をしましょうか?」
「…」
「あぁ。そうだ。台湾の思い出ばなし。いっぱい聞かせて貰わないとね」
「真由美ッ」
「はいっ?」
「さっき、あの世ってどんな所って聞いたろ?」
「えぇ」
「正直に言うと、俺も知らないんだ」っ
「えっ…」
「実は俺、成仏しきってないから。あの世へ行けてない。だから知らないんだよ」
「そうなの?」
「でも、あの世に行くとどうなるか。これだけは知っている」
「どうなるの?」
「現世での記憶。きれいサッパリ消えて無くなってしまうんだよ」
*
キジトラキャットは病院の廊下を駆け抜け、階段を昇る。
その後を純太とサミーが追い、少し遅れて蘭子が続いた。
*
「えっ。嫌よ。そんなのイヤっ」
「真由美…」
「お茶ッ葉オタクで、会話なんてろくすっぽしてなかったじゃない。旅行とかもしなかったし。あの家で、二人で過ごした想い出ばっかり。それでも良かった。お父さんは時々夢枕に現れて、おしゃべりに付き合ってくれたし。でも本当は、お父さんのことを何も知らなかったって思うの。子供の頃のことや、台湾での思い出とか。あたしだって、お父さんに子供の頃のこととか、学生の頃の思い出とか話したかった。もっと、お父さんのことを知りたいって、ずうっと思うようになって。お父さんがそっちに行っちゃってから、増々その想いが募って生きていたのよ。夢枕に現れてくれたけど、あたしの聞きたいことには何にも答えてくれないし。知りたいことがいっぱいあるのに話してくれないし。でも、あの世に行って一緒に暮らせたら、お父さんからいっぱい想い出を聞こうと思っていたのよ。それなのに全部忘れちゃうって何よ。そんなの嫌ッ。絶対にイヤッ」
「そうか。済まなかったな、真由美」
林太郎は彼女の背中を摩った。
「真由美はさ、僕にとっての未来だったんだ」
彼女は顔を上げた。
「だから、過去の事は話さなくても良いって勝手に思っていたんだよ。そんなに僕のことを理解しようとしてくれたなんて。生きている内に気がついていれば真由美の知りたい話や僕自身を伝えられたのかもしれなかったね。ゴメンな」
真由美は泣きじゃくりながら言った。
「ねぇ、お父さん」
「うん?」
「どうしても、あの世に行かなきゃならないの?」
林太郎、絶句。
「全部忘れて、成仏しなきゃならないの?」
林太郎、咄嗟に彼女の口を塞いだ。
「そんな罰当たりなこと言っちゃダメだよ」
「でも…」
「成仏できない人の方が多いんだよ。それに成仏すれば来世での縁も繋がる」
「再会できても、何にも覚えて無いんでしょ。目の前にいるお父さんのことをもっと理解したいのに、それは叶わないんでしょ」
駄々をこねる子供のような真由美を見て、林太郎は少しあきれながらも彼女を心底から可愛いと思った。
「俺だって、忘れたくないよ。でも、もう後戻りできないから」
ガタっと小刻みに揺れ、舟が止まった。
林太郎は立ち上がり、竿を握ると真由美を振り切るように船から川辺へ飛び移った。
振り向き、こちらへ移らせようと彼女へ声を掛けようとしたが、舟の様子から違和感を覚えた林太郎は無言でその場に立ち尽くす。
…あれ。舟。停まってる…
岸に乗り上げる筈が、舟は少し離れた水上でピタリと停まったまま動かないでいた。
それはまるで、接岸を舟が拒んでいるようにも思えた。
…ひょっとして、真由美はまだお呼びじゃないか…
林太郎、混乱。
…いや、いや、いや。それならどうして、真由美は三途の川を渡った…
その時、生温かい嫌な一陣の風が、林太郎の周囲を駆け抜けた。
…いや。マズい。懸衣翁(けんえおう)のジジイが来やがった…
三途の川の畔に衣領樹(えりょうじゅ)という木が生えているが、懸衣翁はそこに住んでいる鬼だ。三途の川を渡って来た亡者から衣服を剝ぎ取って木の枝に掛け、重みを調べて上役である十王に報告する。
重みは衣服を剝ぎ取られた亡者の罪の軽重で、重ければ当然地獄行きとなる。
生前の罪の重い連中は川を泳いで渡らされ衣服が水を吸ってその分重くなるから極楽行は最初から無理ということになる。
亡者の中には衣服を着ていない連中も結構多く、川を泳いで渡った連中も衣服を流されて岸辺に着いたりするのだが、そんな衣服を剝ぎ取れない連中の場合、懸衣王は皮を剥がして罪の重みを計るというから、何とも荒っぽい鬼である。
…奪衣婆が最初に来る筈なにの、何で懸衣翁が先に来たんだ…
三途の川を渡った亡者が、真っ先にお目にかかるのがこの老婆の鬼である。
やはり衣領樹に住んでいて、懸衣翁とはワンペアー的存在である。
ただこの二人が夫婦かどうかは、ちょっと怖すぎて誰も真偽を確かめられない。
いいや、誰も関心が無い。
その名の通り、亡者から衣服を剥ぎ取って懸衣翁へ渡すのがこの婆さんの役目。
かなりヤバい容貌で、トップレスと言えば聞こえが良いが胸をはだけていてもお構いなし。なりふり構わない格好で現れる。
ところが最近、エグいホラー映画を見慣れた連中からすると奪衣婆の風貌は物足らないらしい。いいやそれどころか、そうした亡者連中の目にはパンクでファンキーに映るらしく怖がらないばかりか、可愛いだの、カッコイイだの、キュートだの言われる始末。奪衣婆も悪い気がしないらしく、お陰でボケが進んだようで懸衣翁を困らせているらしい。
林太郎は、目の前に立っている懸衣翁に竿先を向けて対峙した。
対峙したと言えば聞こえが良いが、腰はかなり引けていてブルブル震えが止まらない。
そんな林太郎など眼中に無い様子でガン無視し、懸衣翁は真由美の乗っている舟をジッと見つめ、やがて落胆の溜息を漏らして言って頭を抱えた。
「ババアの奴。また、しくじりやがった」
そして、林太郎を見て懸衣翁が言った。
「おい。お前。奪衣婆に迎えに行けって言われたのか?」
「はっ。はい」
*
キジトラ、病院内を疾走。
三階まで階段を一気に駆け上ると、キジトラは踊り場から純太たちの姿をチラ見。
たまたま見上げた純太と目が合うと、三階の廊下へ姿を消した。
*
少し前のことである。
美女二人と川原の散歩を満喫していた林太郎の前に突然、奪衣婆が現れた。
「ちょっと、兄さん。現世名、坂本林太郎さんだろ?」
「はい」
奪衣婆の口臭と体臭が鼻を突き、そう言うのがやっとだった。
「真由美さん、もう直に来るよ」
「えっ」
「ねぇ。船頭のバイトしない?」
「?」
「真由美さんを迎えに行く船頭のバイトだよ」
「時給、幾ら?」
「恋女房にリアルに会えるんだよ。金の問題かいッ」
*
日頃の運動不足が祟ったらしい。
三階の踊り場で純太たち三人は、肩で息をしながら座り込んでいる。
「猫ちゃんは?」
「はぁー。キジの奴、三階」
純太、咳込む。
「小純。キジ、どっち?」
「右」
「右に行った?」
頷くと、純太は蘭子に尋ねた。
「せ、先生。右側。何ですか?」
「えっ。三階。右?」
「キジの奴。そっちへ」
「あっ。お母さんの個室」
「えっ」
「小純。行こう」
「うん…」
*
「あのババア…」
懸衣翁、再び頭を抱えるが両肩が苛立ちで震えている。
「あのー。何か問題でも?」
「ババアが、最近ボケてんじゃないかって噂、聞いてるだろ?」
「はぁ。その噂なら…」
「ボケてんだよ。だからよ、迎えに行かなくても良い連中へお迎えを手配したりして。尻ぬぐいで追われているわけ」
「えっ。じゃあ。真由美は…」
「まだ、お呼びじゃ無いよ」
「でも。彼女、脳小梗塞の昏睡で意識が戻らいんじゃ…?」
「まだ死んでないでしょう。死の一歩手前だったから向う岸に来ちゃったけど、本来なら死んで7日目に来る場所なんです」
「はぁ」
「だから舟だって、岸に乗り上げないで停まったままだろ。ヤバいなぁ。ヤバい。十王様、あぁ、十王様っていうのは俺やハバアのオッカナイ上司なんだけど、バレたらまたどやされちゃうよ」
その時、一陣の生温かくも不快な風が二人の間を吹き抜ける。
「ヤベえ。ハバアの奴、こっちに近づいてるよ。お、おい。お前。林太郎だっけ。持っている竿の先で、舟の舳先を突け」
「はぁ?」
「今ならバレないで済むから」
「突けって言われても…」
「舟を操って来た船頭にしか、突けねぇーんだよ」
「突く?」
「ババアが着たら、お前の女房の衣服を剥ぎ取っちまうぞ。そしたら、俺はそれを衣領樹の枝に掛けなきゃなんねーの。そうなったら、お前の恋女房が死んでないって十王様にバレちまうんだよ。どやされ、始末書。処分。あーーーーー、嫌だ。イヤダ」
懸衣翁、嘆く。
「えっ。でも、僕としては彼女と一緒に居たいわけで」
「懸ちゃーーーーん。どこ?」
「早くやれって。ハバアの奴、強欲だからお前の恋女房を見るなりスッ裸にしちまうぞ」
「ええッ」
「けーんちゃーーーーーーん」
「早く」
「真由美」
「な、なぁーに。お父さん。どうしたの?」
「まだ、お呼びじゃないって」
「えっ?」
「まだ、生きろって」
「ええっ?」
「あっ。けんちゃーーーーーーーん」
「早くッ」
「またな、真由美」
「ええええッ?」
林太郎は、舟の舳先を竿の先で思いっきり突いた。
舟が後ろへ動き出す。
その反動で、真由美が尻餅をついた。
「あっ。真由美ッ。大丈夫か?」
「だ、大丈夫…」
濃い靄の中に真由美を乗せた舟は溶け込み、彼女の声だけが林太郎の耳に残った。
*
「い、居た」
キジトラキャットは、個室のドアを一心不乱に引掻いている。
「あ、あそこ。あの部屋。お母さんが居る個室」
その時、個室のドアが開いて蘭子と顔馴染みの看護師が出て来た。
「あっ。蘭子先生」
キジトラは、開いたドアの隙間から部屋へと姿を消した。
*
キジトラはひょいと飛び上がり、ベッドで眠る真由美の腹の上に乗った。
「ミャーオ」
ひと鳴きすると、眠り続けている真由美の鼻の頭を肉球でポンポン叩く。
「キジ。ダメだろッ」
ドアを開けて部屋に入り、ベッドの上のキジトラを見て純太は強い口調で言った。
「小(シャオ)、…小純(シャオジュン)ッ」
*
…誰だい。あたしの鼻の頭を叩いてるのは…
目覚めると目の前にキビ助の顔があり、真由美はキビ助と目が合う。
『真由美。そろそろお目覚めの時間だよ』
キビ助と林太郎の顔が重なり、真由美の耳に林太郎の声が残った。
「お、お父さん…」
真由美は呟いた、
*
…まったく、こいつは何をやってるんだ…
純太に抱き上げられて真由美から引き離されたキジトラ、ひと鳴き。
「ミャー―――ぉ」
サミーに続いて入って来た蘭子が叫んだ。
*
「お、お母さんッ」
「マユミさんッ」
蘭子とサミーの声が重なる。
「えっ?」
純太が慌てて真由美を見ると、彼女の目が開いていた。
「ま、まゆみさん…」
純太とキジトラの顔を見て、真由美は言った。
「キビ助。ちゃんとご飯食べたかい?」
*
数日後。
真由美の傍らに座って、蘭子は梨の皮を剥いている。
「あんた、仕事しなくて良いのかい?」
「今日、私はお休みの日なの」
「じゃあ、何で白衣を着ているんだよ」
「これ着て無いと叱られるのよ」
「叱られるって、何だい?」
「パンデミック。普通なら面会禁止。でも、これ着てればお医者さんでしょ」
「面倒くさいね」
「はい」
蘭子は、フォークに刺した梨を真由美の口元へ突き出した。
「食べて」
脳梗塞の後遺症で真由美の左半身に軽い麻痺が残った。
会話はできるが、物を噛むのに苦労する。
蘭子が梨の小片を口に入れると、真由美は不器用に口をモグモグさせた。
「美味しい?」
真由美、何度も小さく頷く。
「良かった。もっと食べてね。リハビリを兼ねているんだから」
娘にそう言われて真由美の表情が少し曇った。
「辛いのは解るけど早い内から手足を動かしたりして刺激を与えないと麻痺したままになるから。お母さん、頑張ってね」
真由美は梨をねだり、蘭子が口に入れるとソッポを向いた。
そんな母親を見て蘭子は、溜息混じりにぼやいた。
「まったく。しっかりしてよ、お母さん」
*
『純さん。真由美さんの具合はどうだい?』
老板が純太に尋ねた。
「左半身に麻痺が残ったみたいですけど元気に過ごされているみたいです。リハビリも始まったみたいですし。パンデミックもあって、直接お見舞いに行けないのが残念ですが」
『リハビリって早くないかい?』
「最近は、そうみたいですよ。早く刺激を与えた方が、麻痺も残らず倒れる前の状態に戻る確率が高まるんだそうです。でも、結構辛いらしくて。本人、嫌がってるみたいです」
『励ましたいねぇ』
太太、膝に乗せた富富を撫でながら言った。
『あっ。そうだ。あんた、台北の町をビデオに撮って送るっていうのはどうかしらね』
太太、老板を見つめる。
老板、ちょっと腰が引ける。
「あっ。そのアイディア、好いかもしれません」
『じゅ、純さん…』
『パパ。どうせ暇でしょう』
『えっ。え、えぇぇぇぇ…』
純太と太太は、ビデオ撮りの選定で盛り上がる。
老板は、ちょっと情けない表情で二人のやり取りを見守った。
*
純太たちからのビデオレター。
真由美は、それを黙って見続けた。
励ましてくれる気持ちは嬉しかったが、辛いリハビリを思うと彼女は素直に喜べないでいた。
そんな時、ある風景が彼女の目に留まった。
「蘭子。今さっき映っていた場所をもう一度見せてくれないかい」
「止める所で言ってね」
「あぁ。ストップ。止めた所から再生しておくれ」
巻き戻して再生した映像は、観光客で賑わう永康街の町並みの様子だった。
「止めておくれ」
彼女は静止映像をジッと見つめた。
通りに面して出された店の看板には『葱抓餅』とある。
「ここは、何所だい?」
真由美が尋ねると、蘭子が言った。
「あぁ。ここは永康街じゃない」
「ここが永康街かい」
「台北へ遊びに行ったら必ず行ってる町だから間違えないわよ。ここがどうしたの?」
「この看板のお店へは行ったかい?」
「見掛けることはあるけど、行った事はないかな。このお店がどうかしたの?」
真由美は蘭子に答えず、葱抓餅を買って食べる地元の老若男女を見つめる。
*
『これが、林太郎さんの言っていたソウルフードなんだね』
『そうだよ』
真由美は、そう言う林太郎の声を聴いたような気がした。
『美味しいのかしら』
『もちろん』
『でも。もう食べられないわね』
『もう弱音吐いてる』
『だって』
『真由美らしくないよ』
*
「お母さん…。お母さんったら」
真由美は、いつの間にか眠っていたらしい。
目が覚めた時、テレビでパラリンピックのダイジェスト映像が流れていた。
「お母さん、大丈夫?」
真由美、頷く。
「そう。それなら安心した」
「スゴイね。この人たち…」
「えっ。あぁ、パラリンピックの選手たち」
映像に熱中し、真由美は食入るようにそれを見つめる。
「蘭子。私さ、元気になれるかね?」
「元気なれるよわよ」
「リハビリに励めば麻痺も取れて、元のように歩けるようになるかねぇ?」
「大丈夫。絶対に歩けるようになるから」
「台湾へ行けるようになるかね?」
「行けるわよ、お母さん。だから、リハビリを頑張って見ましょう」
何か月、いいや何年掛かっても良いから、元気になって、歩けるようになって、台湾へ行って葱抓餅を食べたい。
…同じ人間だもの。私にだって出来るはず…
彼女はテレビを見続けた。
*
パラリンピック閉会式の夜。
「真由美さん。僕のことが見えますか?」
純太とサミーは、画面の向こう側にいる彼女へ手を振って見せた。
「真由美さん。キビ助もいますよ」
『キビ助。あたしが分かるかい?』
上体を起し、ベッドの上で座っている真由美はぎこちなく左手を少し振ってみせると、キジトラはミャーオとひと鳴きした。
二人とも口に出しては言わなかったが、入院当初は麻痺で動かせなかった左手を動かせるようになった彼女を見てホッとし。胸が熱くなった。
「真由美さん。今、僕たちは夜の公園に来ています。これから花火を始めます。見せることしか出来ないけど、今夜は楽しんで下さいね」
純太に続いて、サミーも言った。
「真由美さん。一日でも早く良くなって下さいね」
サミーが持つ花火に、純太は火をつけた。
花火。
自分を元気づけると言いながら、子供の様に騒いで楽しんでいる二人。
浴衣姿で花火に興じる藤木親子、恵美と朗の母子の姿も見えた。
真央と仁美は、線香花火をしてどちらの火球が先に落ちるか競っている。
ヒューーーッ。
ロケット花火が打ち上る音が響いたかと思うと、夜空で弾けて散った。
三段花火の炎が、その場にいる面々の顔を明るく照らした。
…来年は、あの輪の中に私も入らないとね…
左手の指を動かしながら、真由美は自分にそう誓った。
盛大に打ち上げられた花火の音が、テレビからも届いた。
パラリンピックの閉会式が始まったらしい。
…私だって、まだまだ…
いつまでも真由美は、純太たちの楽し気な姿を見つめ続けた。
*
サミーは膝の上にキジトラを抱きながら、純太と線香花火をしていた。
二人の間をフッと秋の気配を感じさせる冷気が過り、風向きの加減で煙がキジトラの鼻をつく。
「ミャーォ」
キジトラは不機嫌にひと鳴きする。
その様子を見て、純太とサミーは顔を合わせて笑った。
刹那、サミーが寂しげな眼差しで純太を見つめる。
「サミー。どうかした?」
「純太」
「うん?」
「あのさ…」
「…」
「台北に戻らなきゃならなくなった」
純太の線香花火の火球が地面に、あっけなく落ちた。
(END:「楽趣公園 ―HANABI 後編―」)
(次回作:「楽趣公園 ―最終話 茶油麺線(Tea oil somen noodles)―」)
(次回作アップ予定:2022.2.28予定)