
私の仕事4
『長篠の戦い』の季節ですね。
旧暦の5月21日。
太陽暦だと6月29日なので、梅雨時の盛りに行われた戦ということになります。
織田、徳川連合軍の用意した鉄砲3000丁。
戦国最強を誇る武田騎馬軍団を撃破。
華々しい戦の一つです。
織田、徳川連合軍が38000。
武田軍、15000。
鉄砲のことで言えば、織田、徳川連合軍が3000丁に対して、武田軍も1000丁を備えていたようです。
武田軍も意外と鉄砲を持っているのですが、騎馬ほどの主力戦力と成り得なかったようです。火薬、鉛の主要供給源である堺と鉄砲の主要産地の国友村を押さえていた織田方による統制が効いていたでしょうから、遠戦(敵から遠い場所からダメージを与え、味方の兵損失を防ぐ戦い方)の主力として据えることができなかったと思います。
それでも武田軍団には馬という武器がある。
木曽馬を初めとして、足腰の強い日本固有馬の産地を押さえてましたから。
平地だけでなく、山の登り下りも平気でこなします。
武器という点だけでなく、輸送手段としても有効。
今でいう戦車とトラックを併せ持ったような存在で、当時としては大きな優位性を持っていたと思います。
因みに馬ですが、明治以降の編成でも騎馬隊は主力部隊の一つだったし、これは後に戦車隊へと置き換わっていくのは昭和に入ってからです。
海軍においてトラック等の機動車両の導入は比較的早くから行われるけど、陸軍では馬を使い続けました。
朝ドラの『エール』で主人公の奥さんの実家が馬具作りに関わっていましたが、これは陸軍と馬の関係によるものですし、主人公へ馬の増産を推奨する映画の主題歌を依頼したのも陸軍の馬政局でした。
この馬政局は、馬の品質改良を所掌していた関係で競馬の振興も担っていました。
日本にはガソリンが無かったですから、馬が重宝されたというところです。
古代ローマみたいに領内の隅々まで行軍に有効な道路整備を怠らなかったといわれている武田軍団ですが、馬による迅速な機動性が当時の脅威になっていたのは言うまでもありません。
長篠合戦で何故、武田軍団が負けたのか?
自分の見解です。
武田ファンの皆さんごめんなさい。
武田軍団、負けたのではなく勝てなかったように思います。
この合戦において織田方は、鉄砲を備えた野戦築城戦を展開したと言われています。
連吾川とその川縁の田圃を掘りとし、地形を利用した人口の土塁と三重の馬防柵を設置し、主力部隊は山側に布陣する。
ある種の山城みたいなものです。
攻城戦の場合、守備兵力の3~5倍の兵力は必要となりますが、織田徳川連合軍と武田軍団の兵力格差は何ともし難い。
これだけ取ってみても武田に分が悪い。
野戦築城戦を採用したのは、通常野戦における武田騎馬軍団の機動性に富んだ破壊力を恐れてのことだと思われます。
野戦築城戦に関しては宣教師から聞いた情報を参考にしたとも言われています。
多分、そうでしょう。
ただ、その戦法を採用するに当たっては畿内における石山本願寺、雑賀衆等との合戦経験が活きているような気がします。
武田方を研究した上で有効な作戦を採用したし、当時の織田方にはそれを実現しうる経済力と産業基盤があった。
その意味でこの合戦は、織田方でしかできない特異な戦なのかもしれません。
合戦時期が梅雨時だったことも、採用に至った理由かと思われます。
雨が降ると鉄砲は、ほとんど役に立たないですから。
そのリスクも想定すると籠城戦の方がリスクも少ない。
持久戦に持ち込んだ方が織田徳川連合軍の方が優位な展開となるし、それを見越してこの戦法を採用したんだと思います。
実際、合戦当日を除けば雨模様だったようですから、短期決戦で決着がつくと考えていなかったのではないかと思います。
武田軍団の敗因は色々とあると思われますが、織田徳川連合軍によって予定戦場地を決められてしまったことが大きいように思います。
孫子の『遠近』策でも禁じている。
予定戦場地を先に決めて待ちかまえることが鉄則だと誰もが知っているが、そこへ急ぐあまり兵を疲れさせることを戒めている。故に、本体の居場所は常に攪乱、特定させず敵の情報混乱の内に兵力消耗を押さえながら先んじて到着することが有効なのですが、武田勝頼はそれをさせてもらえなかったです。
予定戦場と設定された長篠でも高稜地を占領され、砦さながらに陣地形成をゆるしてしまいました。
先ず、勝てない状況に陥りましたね。
どちらも孫子の兵法で戒めている禁じ手を犯しているわけですから、この展開を見たら信玄も嘆いたんじゃないかと思います。
こんな風に言うと武田勝頼はダメだってことになるのですが、決してそんなことはない。
武田領の最大版図は信玄の時代ではなく勝頼の時代になってからだし、長篠合戦での敗戦をもってしても7年間は織田信長を圧迫し続けましたから。 敗軍の将となったから評価されていないけど、案外優秀な人間だったかもしれません。こんな状況で最適な戦法は、多分包囲戦なんでしょうが、武田勝頼はそれを選択させてもらえませんでした。
兵力差の問題?
それもありますが、本質ではありません。
織田、徳川方によって、予定戦場地へ行かざるを得ないばかりか野戦をせざるを得ない状況に追い込まれたことに尽きるからです。
包囲戦の場合、敵の補給路を断つことが重要な要素となりますが、この時の勝頼は敵の補給路を断つどころか、自らの補給路と退路をも立たれた状態だったからです。
つまり包囲戦力も十分でなく、何より持久戦に持ち込めなかった。
この時点で彼は、短期決戦で活路を開く以外に方法が無かった。
何故、そんなことになったのか?
それは長篠合戦の前哨戦となった長篠城攻略と鳶ヶ巣砦攻防戦にあります。
長篠城攻略戦。
ドラマに彩られた歴史マニアなら誰もが知っている戦です。
500人の守備隊。
200丁の鉄砲。
難攻不落の砦。
兵糧を失わせ、水の手も切って落城寸前ながら、結局落とせなかった。
この攻防で武田将兵はかなり疲弊したし、結局長篠城が落とせなかったことから彼らの士気が相当下がってしまった。
武田勝頼にすれば、これは相当の痛手だったと思います。
これに続く鳶ヶ巣砦攻防戦。
酒井忠次率いてる別動隊がこの砦を攻め、陥落させただけでなく周辺支城も落としたことにより武田方は補給路と退路を失ってしまった。
この時、武田本隊は既に設楽ヶ原に進出していましたから、織田徳川連合軍と酒井隊に挟まれた格好となってしまった。
そして、長篠合戦です。
『三段撃ちの一斉射撃』が有名です。
でも最近の研究では信憑性がかなり薄れていて、狙撃手の交代を前提とした乱射が行われたのではないかと考えられているようです。
一斉射撃って何となくカッコイイしビジュアル的にもイケてますが、実現するためには統制に長けた指揮官と統制慣れした兵卒が求められます。
明治期以降の軍隊ならそれも可能でしょうが、この時代の将兵にそれを求めるには無理がある。
それに何より、この一斉射撃って実行効果面での合理性に乏しい。
陣配置によると、鉄砲隊や先兵は馬防柵の内側で目立たぬように散開配置されたようですから、全体一斉射撃は難しい。
また各所で一斉射撃が行われたかとなると、群がる敵兵に統制よろしく射撃するよりランダムに撃って撃って撃ちまくった方が安全です。
命令だって、
『目の前に迫る敵を速やかに撃て』
これで終わります。
戦場のことは良く解らないけど戦場を現場と見立てて言及するなら、複雑な命令は混乱を招くだけで良い事はありません。
『シンプル・イズ・ベスト』
現場への命令は、これに尽きます。
それにこの時代の将兵は、解り難い、不合理な命令を出したら従わないでしょう。
戦って出稼ぎみたいなもんですから。
生き残ることが最優先で、その上で手柄を上げる。
まして鉄砲撃ちって、ある意味プロ集団だったから使う方としても死んで 欲しくなかったはずで、当人達にしても自由にやらせろ、任せろ感じだったんじゃないかと思います。
大量の鉄砲投入は、織田徳川連合軍の切り札だったのか?
お天気が、晴れればね。
でも梅雨時だったし、信長って雨男で有名な人だったみたいですから、鉄砲に勝敗の重きを置いたとは思えません。
合戦当日、偶然にも晴れてしまいバンバン撃ったら短時間で圧勝できた。
この結果に、信長と家康が一番驚いたんじゃないかと思います。
つまり鉄砲が有っても無くても織田徳川連合軍は勝っていただろうし、少なくとも負けることは無かった。
信長も、家康も必ずしも勝てなくても良かったわけで、負けないにせよ武田を退けたって結果だけで充分で宣伝効果がある。
それに引き換え、勝頼は勝つ以外の選択肢はなかった。
負ければ、武田の不敗神話に傷がつきますから。
兵力、物量で負けているのに勝つしかない。
辛かっただろうと思います。
何で戦ったのかなぁ?
信玄は遺言で『3年間は死を秘匿しろ』と言い、さらに『織田と徳川が攻めてきたら国境戦の地の利を活かして専守防衛しろ』と厳命していたようです。
長篠合戦の頃には武田勝頼の版図は最大規模になっていたけど、織田信長の版図も信玄の頃から比べれば数段膨脹してしまっている。
信玄は、良く解っていたと思いますよ。
国力差から単独で信長に対抗できないこということだけでなく、自らが作り上げた武田システムの限界のことも。
武田システムなんて勝手に名付けましたが、それは古代ローマ軍のように道路を整備しながら領地を確実に広げていく武田占領方式と優秀だけど曲者揃いの諸将の統制のことで、信玄の命令統率の下でしか機能しないシステムになっちゃってる。
言い過ぎかもしれないけど、独自の進化を遂げた武田システムの中では武田軍団は最強を誇れるけど、そのシステムを維持拡大しない限り威力を発揮できない。
だから信玄は、自分が生きている間に上洛を果したかったのかもしれません。
偉大な父の跡を継いだ勝頼さん、武田システムをどんな風に見ていたのかなぁ?
しんどかったんじゃないかと思いますね。
何よりも負担だったことは、兄の義信が若くして死んだことにより伊那四郎と呼ばれた勝頼が信玄の跡を継いだこと。
母親は諏訪氏。
名家だけど占領先の姫様で、言葉は悪いけど戦利品みたいな存在です。
如何に信玄の寵愛を受けた女性との間に生まれた子供とはいえ、血筋の正当性からすれば見劣りする。
バリバリ正当な後継者と言えない悲しさが、プレッシャーと共に彼自身に圧し掛かった。
版図拡大でしか、彼の存在意義が認められない。
特殊アプリ化し、カスタマイズやマイナーチェンジもできない仕様の武田システムも継承して使い続けなくてはならない。
武田システムって、何だかんだ言っても考える人は信玄だけで家臣の自主的思考を封じる仕組みのようにも見受けられる。
信玄に替わって勝頼がそこに座ろうと思うけど、重臣たちは彼を格下の小僧なんて感じて見ているからどうにもならない。
だから勝頼さんの時代って、彼一人が奔走しているイメージが強い。
孤独だったんだろうな。
長篠の敗戦で信玄所縁の重臣や諸将がかなり討ち死にして大変だったけれども、勝頼さん自身はちょっとホッとした部分もあるように思いますね。
これでやっと、俺のやりたいように出来る。
織田信長さん。
部下の気持ちや心情を理解できない人だけど、部下が望むことは本能で察知できる能力には長けていて、飴と鞭を使い分け、恐怖で洗脳コントロールしながら部下のパフフォーマンスを最大化させてしまう。
更に言うと、対象の本質を冷酷に見抜くようなところがあるから既成の仕組みに乗っかるのが本当に上手い。
最終的には、それを取り込んじゃったりもする。
節操がないくらい吸収力があるし、使い捨ても激しい。
その究極が、室町幕府の官僚機構であり、当時天下と呼ばれた畿内の地縁や血縁から成る奉行衆と奉公衆を明智光秀と結託して見事に使い切ったことですか。
信長本人がというより明智光秀の存在があって初めて成り立った連携だけれども、三好等には到底真似できなかった芸当だったようにも思います。
本能寺の変。
謎が多いし、個人的な想像ですけど、この事件の動機って信長が奉行衆と奉公衆の官僚機構に手を付けようとしたことによるんじゃないかと思ってます。
武田氏が滅亡して織田方の兵員動員の面で余裕が出て、機内の動員兵力に頼らざるを得ない状況から解放されこと。さらには、武田家臣を含めて大量の失業者が発生し、奉行衆や奉公衆を能力的に担えそうな人材獲得が可能となった。
統治機能と自分に従順かつ優秀な奉行衆や奉公衆があれば良く、足らない人材は前期の流動人材でカバーすれば良いなんて考えていたんじゃないか。 それで信長は、既存の人的ネットワークに解体も含めて手を突っ込もうとした。そうしないと、本当の意味で畿内が安定化しないですから。
システムは使えるけど、人的構成要員の問題からシステム限界が見えていて手をつけないでいるとマズいなと信長は感じていたんじゃないかと思います。
システム限界に関しては明智光秀も察していたけど、奉行衆と奉公衆の利益代表みたいなことを担っている都合上、信長の動きには同意しきれない。
だから早晩、決起しないとって光秀は決めていてタイミングを探っていた。
変が成功したのは、そうした動機を秘めながら過ごす矢先に格好のタイミングが現れて、半ば衝動殺人的に動いたから成功したわけであって、陰謀とか何かが複雑に絡んでいるとは思えないんですよね。
まぁ、個人的な想像に過ぎませんが。
織田信長とドナルド・トランプさんのお二人。
最近、この二人が重なって見えて仕方ないんです。
良く似た二人だと思いませんか?
トランプって人も、共和党に上手く乗っかって骨抜きにしちゃったし。
言動や生い立ちなんかも何となく似ている気がするし。
どっちも、心酔者とアンチが拮抗しているところなんかも似てますね。
こんな風に考えるのは、自分だけでしょうか?
結局、長篠合戦って何だったんでしょうね?
鉄砲3000丁?
それだけでも無い気がするし。
ある種分かりやすいし、ビジュアル的にも想像しやすい合戦ではあるけれども、個人であるとか人間模様の側面から捉えると深いドラマが潜んでいる気もします。
本能寺の変も良いけど、長篠合戦も中々興味深い。
そんな風に感じています。
今回のエッセイ、オチもまとまりも無いなぁ…。
スミマセン、こんな感じに終わってしまって…。
次回、頑張ります。
藍宇江魚に愛の手を、そしてお仕事を!!