HINOMARUから考えるべき表現と批評の関係についての当たり前の前提
元スピードの今井絵理子、不倫騒動の後ブログを書いていなかったらしいけど、今話題になっているあるバンドの《HINOMARU》という曲をめぐる騒動について書いたようだ。https://gamp.ameblo.jp/eriko--imai/entry-12383097334.html?__twitter_impression=true
「新曲「HINOMARU」に対して色々な声があがっていることを知り、少しだけ想いを綴ります。
アーティストは作品を通じて純粋に自らを表現をします。
自らを投影したその作品が生まれると、まるで子どものように育み愛します。
受け手である私たちはその作品に共感したり、感動したり、救われたりするものです。
表現の手法は作家の自由であり、言葉遣いや色使いに正しいも間違いもありません。
決して誰かの同意や批判を得たくて作品をつくるわけでもありません。
出来上がった作品がすべてなのです。」
「野田洋次郎という一人の作家の想いや考えをストレートに偽りなく歌詞に綴り、音を奏でることはいけないことでしょうか。
もちろん、受け手の解釈も自由であり、それをSNSで表現することも自由です。
しかし、それは「表現」という言葉こそ同じかもしれませんがアーティストのそれとは全く意味の異なるものです。
受け手の個人的な解釈の拡散により作家に釈明と謝罪までさせてしまう今の社会の風潮には賛成することができません。」
このテキストは、表現行為をめぐる人々の感情とそれとどのように関わっていくのかという問題において、日本が根本的に貧困な状況にあることを明確に示している。そしてそのことは単なる一ミュージシャンの炎上騒動以上の問題をはらんでいると思う。
最も問題なのは、「受け手の解釈も自由であり、それをSNSで表現することも自由です。しかし、それは「表現」という言葉こそ同じかもしれませんがアーティストのそれとは全く意味の異なるものです。」という部分だと思う。
誰かが何かを批評する表現行為とアーティストの表現行為は根本的に意味が違うとこの人は言っている。もちろんそれは作り手と受け手の区分を単に語っているだけではない。彼女が言っているのは、表現の受け手は表現者に対して物申す資格はないということだ。これは作品とその解釈の関係性から言うなら、許しがたい暴論で、19世紀以前の封建主義的な社会とか、メディアに連なっている者に圧倒的な特権が与えられていた時代の感覚としか思えない。つまり強者の論理だということ。(政治的、文化的、経済的)権力を持つ者が主張する事柄を批判的に捉える自由、それを表明する自由はないという発想だ。これは現状の自民党政権の態度および熱烈な支持者たちの態度ときわめて似ている。表現の自由は、弱者には与えられていないという発想である。もちろん容認できるものではない。
素晴らしい表現行為も素晴らしい批評も存在する。そして、下らない表現行為も下らない批評言説も存在する。そのあいだで表現行為の評価が定着していく。そして批判する者の文脈に向き合う気がないのなら、その批判については黙るしかない。前提のずれたやり取りは議論ではなく、感情のぶつけ合いにしかならない。この(いちおう)国会議員であるらしい人物は、批判する側の内容をきちんと検証したことがあるのだろうか。その中で「くだらないもの」と「検討すべきもの」を選り分けて、検討すべきものの背後にある文脈を調べ、様々な立場を想像し、その上で自分の感情を肯定しそれを表明することの妥当性を検証したりしたのだろうか。
この件に関する多くの批評のうち、死ねとかクソとかしか書いていないものは下らないものの代表だ。単に感情に感情をぶつけただけで、何の建設的な局面も生み出さない。しかし、この楽曲で用いられている歌詞、演奏が何かしら不快なものや好ましくない価値とのつながりを想起させることの理由を書いているものも少なくない。そして私たちの国では現在「御国」「御霊」という言葉は一般的に用いられる表現ではないし、それは過去の軍国主義時代に多用された表現でもある。さらに言えば、文語調の文章もまた一般的に用いられるものではなく、結果的にそれを用いることが表現上与える意味は「復古」であり、この文体がつながっている復古はせいぜい明治とか昭和に過ぎない。つまり、その時代の歴史的な意味づけにも関わって来る問題でもある。さぁ、私たちの国日本は、あの時代をそう簡単に肯定できるようになっているのか。もちろんそれは対外的な関係も含めて(特にアジアの国々との関係において)検証されるべきものでもある。
そもそも日の丸にこの歌詞が訴えかけるような意味が与えられたのも本当に「古(いにしえ)」からなのか。古くから存在したことは確かだとしても、少なくとも江戸時代には縁起物だった。少なくとも国家と結びつけられた日の丸が明治以降なのは間違いない。そして、日の丸に、そしてあの復古調の表現に負の記憶を思い起こしてしまう世代はまだまだ存命だ。いや、その世代が亡くなってしまったとしても、その認識を引き継ぐべきだと考える者たちも少なくない。その状況で、そんなこと思い出すやつらが、そんなこと連想する奴らが異常だとか、おかしいとか言えるのか。そういう態度は歴史や記憶の軽視、冒涜だと思う。
これだけ複雑で、重い問題に触れるような表現に対して、この今井という国会議員でもある人物が言うのは、彼らの楽曲に「勇気や感動を与えてもらっている」という個人的な感情でしかない。少なくとも、複雑な感情を抱き、それに危うさや問題を感じ、そのことについて語り、批判する人たちのその背景にある文脈を踏まえた上で、論理的に批判することが求められている。この人物が与党の「国会議員」という明確に権力を有する者だということを考えれば、その責任ははるかに重い。
「作家の想いや考えをストレートに偽りなく歌詞に綴り、音を奏でることはいけないことでしょうか」
もちろんいけなくはない。誰にだってそれは許される。けれども表現は反応を伴うのが当然。それがあっての表現でもある。そこにおいて、反応がポジティブでなければならないと強いられる義理もない。小田嶋隆さんが「言論の自由(あるいは表現の自由)を、「何を言っても他人に文句を言われないこと」だと思っている人たちが少なくないことに少々驚いている。」とツィートしていたが、まさにそうした態度そのものだ。また、表現者のストレートな「想い」が稚拙で浅はかなものだったら、そして、様々な複雑な思いを抱く人がいるような事柄に関してなら、批判が起こることは当然のことであり、それを想像もできないのなら、そもそも表現行為をする資格はない。
もちろん内心の自由はある。なので自分の心の中や、家の中で歌うのは自由だ。ただし、音漏れ無しでやってください。
少しでも外に聞こえるように表現するなら、その反応に応えるのが表現者の責任だ。もちろん「死ね」とか「クソ」には応える必要はないというのは付言しておく。
「出来上がった作品がすべて」
そう、もちろんそう。だから作品は批判されるんだよ。
この件は、論理よりも、歴史よりも、自分の感情が圧倒的に価値があるという人の割合が高すぎる日本の現状がくっきりと映し出された出来事だと思う。表現者は歴史学者である必要はないが、繊細な微妙な事柄に触れるには、それについて語られる立場について調べ、どのような表現をとるべきか思考し、判断するプロセスを経ることは責任としてある。
そんなの関係ねぇと言う先には、感情に基づく無責任な言説が生まれ、それが往々にして偏見や差別を生み出す殺伐とした世界しかない。