最新セキュリティの刑務所から脱走。イスラエル「解放の星」となる政治犯。
イスラエル在住 ガリコ 美恵子
ーー自治政府も「食料や寝場所与えるよう」呼びかけ
9月6日朝、ギルボア刑務所からパレスチナ囚人6人が脱走した。脱走したのは、全員終身刑を科されている政治犯で、ヨルダン川西岸地区ジィニン出身だ。一方、ギルボア刑務所はイスラエル北部にあり、最新セキュリティシステムを持つことで世界的に有名だ。
各国報道機関は、脱走成功の背景とともに、捕獲のために敷いたイスラエル当局の24時間の捜査体制や、各村に対する攻撃を報道し続けた。
報道によると、脱走した囚人は、スプーン、フォークや鉛筆を使って、洗面台の床下に穴を掘削。穴は地下水路に合流し、刑務所外の荒地につながっていたという。
イスラエル大手メディアが「新たなテロ攻撃の可能性もある」と扇動したため、大半のイスラエル人が「怖くて眠れない」と震えた。警察は国民に通報と協力を訴えた。(写真:ザカリヤ・ズベイデの兄)
イ当局は、イスラエル北部のパレスチナ町村を包囲。西岸地区北部に対しても昼夜を問わず侵攻した。脱走囚の実家を襲い、家族を拘束・尋問した。捜査開始から5日経った9月10日夜、2人がナザレで逮捕され、6日目の11日朝、ザカリヤ・ズベイデ(後述)を含む2人がさらに発見された。9月19日未明には、残りの2人も警察に包囲され投降した。この2人をかくまっていたジィニンの青年も逮捕された。
脱走囚の顧問弁護士によると、「捕まった彼らは、留置場への護送車の中で、肋骨を折られるなどの拷問を受けた。ザカリヤ氏は、緊急治療室に運ばれるほどだった」という。
イスラエルは、セキュリティ・システムを輸出し、膨大な収入を得ているが、象徴ともいえる刑務所が突破されたことで、イスラエルの面目は大きく傷ついた。一方、パレスチナ人は、彼らの身の安全と逃走貫徹を祈り、「希望を見た」と口々に話した。
この逃走劇は、分裂していたパレスチナ人を団結させもした。パレスチナ自治政府は、民衆に「脱走囚人を見ても通報せず、食べ物や寝場所を与えるよう」呼びかけた。5人がジハド・イスラミ派で、1人はファタハ派という事情もあるのだろうが、イスラエルの日常的な弾圧と暴力に加えて、無実でも逮捕して不公正な判決を下すことを、熟知しているからだ。
脱走した6人の中で一番有名なのが、ザカリヤ・ズベイデだ。イスラエル攻撃の工作人として知られ、最重要のおたずね者だった。脱走3日目、私は、ザカリヤの兄を訪ねた。兄はジィニンで車の修理屋を営んでいる。アポなし取材だったが、質問に答えてくれ、写真も撮らせてくれた。
―「弟が脱走したニュースを知った瞬間は嬉しかった。でも捕まったら酷い拷問を受けるのではないかと心配で、眠れない」という。
脱走囚人は無抵抗で再逮捕されたが、弁護士を通して、以下のように告白している。
―「老いた母が亡くなる前に、会いたかった。実家が包囲されていて、母に会えなかったのが残念だ」。「脱走中、ナクバでイスラエル領となった元パレスチナ人の農地を歩き、畑になっている果物を食べてしのいだ。あれほど旨い果物は生まれて初めてだった」。
今、パレスチナでは「ザカリヤのスプーン」と称し、スプーンをもってデモに参加する人が増えている。スプーンが未来のパレスチナ解放を象徴しているかのように。
ーーシェイク・ジャラの現状 国際法違反「難民再追放」認める裁判所
今春、ガザのハマス党がイスラエルにロケット弾を連発した。その理由の一つが、東エルサレムのシェイク・ジャラ地区でのパレスチナ人民家を巡る裁判だった。8月に最高裁で調停判決がだされた。
パレスチナは、151
6~1918年トルコの植民地であった(1832~40年のエジプト支配下除く)。1918~48年はイギリス統治下に置かれ、1948~67年はヨルダン政府の支配下に置かれていた。過去の土地台帳は、今も各政府が保管している。
裁判の発端は、イスラエル人入植者団体が、「130年前にユダヤ人も住んでいた」として、シェイク・ジャラの住民に立ち退きを要求したことだ。イスラエルには「不在者財産管理法」(1950年成立)がある。同法は、土地・家屋の所有者が一定期間不在となった場合、政府が没収するというもので、パレスチナ人にのみ適用される。
また、土地管理法(197
0年成立)は、イスラエル建国以前にユダヤ人が所有していた土地・家屋について、裁判で認められれば、居住しているパレスチナ人を追放し、申告者の所有権を認める、というものだ。
パレスチナ側の弁護士は、ヨルダン政府発行の土地所有権売買等登記書類を裁判所に提出した。
シェイク・ジャラは、中央を走る公道で東と西に分かれている。書類に記載されている地図によると、東側は、1950年代まで無人の野原だった。西側には数軒の家があり、ユダヤ人の家もある。この記録に従えば、「130年前にシェイク・ジャラの東側にユダヤ人が住んでいた」という訴えは、虚偽であることがわかる。
しかし裁判所は、書類の受理を拒否した。理由は、①外国書類を証拠に裁判を行えない、②裁判所が設けた期限までに書類が提出されなかった、というものだ。
これらの書類を探し出すために、シェイク・ジャラの顧問弁護士は、トルコとヨルダンに出向し、書類の引き渡し交渉に何年もかけた。トルコ政府の許可はすぐに出たが、探すのに時間がかかり、提出したのは3年前。裁判所が設けた期限(約4年前)には間に合わなかった。
ヨルダン政府は、イスラエルと協力関係にあるため、書類引き渡しを拒否していた。しかし、今春、ガザからロケット弾がイスラエルに飛んでくる理由として大きく報道されたため、ヨルダン政府は書類引き渡しを承諾した。
ところが、今夏の最高裁で裁判官は「入植者側が提出した書類が偽造書類である可能性がある」としながらも、以下の調停案を提示した。―①土地の所有権はユダヤ人にあることをパレスチナ人住民が認め、②入植団体に家賃を払う、③代償として、3代目までは家から追放されない。というものだ。住民側は調停不同意を表明した。
9月初旬には、西側のパレスチナ人民家にも立退命令が出された。住民は「48年以前、ここにユダヤ人が住んでいたことは確かだ。しかしイスラエル建国に際して強制的に家を失った私たちに、国連とヨルダン政府がこの家を提供した。現在、イスラエル人が住んでいる両親の家を返してくれるのなら、家を立ち退くが、補償もない一方的な退去命令には納得がいかない」と、上訴した。
難民を再度追放することは、国際法違反である。