連載 福島原発事故の放射能加害と命の救済⑥ 朽ち果てる庵野秀明と日本人
原発避難者 田中伸一郎
映画監督庵野秀明の作品は、「新世紀エヴァンゲリオン」以来(あえて「トップをねらえ!」は除外する)、「シン・ウルトラマン」に至るまで、倒錯した官僚制権力へのフェティシズムに満ち溢れている。
エヴァンゲリオンでは、「特務機関」ネルフが謎をほぼ一手に握り活躍する。劣等感に苛まれる主人公は、ロボットの操縦者に選ばれ、美少年として設定される。だが、この主観的不具意識の回復行為としての全能感獲得は、今日の日本社会に蔓延するアンチフェミニズムと集合的無意識のレベルで通底している。
「シン・ゴジラ」は怪獣の破壊的迫力シーンよりも、対策に奔走する官僚集団の根回しの分量が多い。退屈どころか、喋りすぎで粘膜の乾いた役人連中の口臭が画面を越えて漂ってきそうで、実に不快な映画だ。福島原発事故の収束に対して役立たずだった自衛隊が、放射性物質を撒き散らす怪獣と戦うなどというリアリティ皆無の場面に、組織をあげて協力し大はしゃぎしているのは、こちらが見ていられないほど恥ずかしい。
対する「シン・ウルトラマン」は、登場する怪獣・宇宙人の種類も多く、一見するとエンターテイメント作品的には退屈させないように思われる。だがここでも、政府組織とその中の一人が変身するウルトラマンが、物語の中心なのだ。地中深くに隠された生物兵器としての怪獣は放射性物質を狙うが、実在しないウルトラマンはともかく、「食べて応援」で内部被曝を拡散させてきた日本政府がそれを懸念するのは、現実との乖離も甚だしい。
これ以上内部被曝を重ねるな
そして、メフィラス星人により生物兵器化することを実証された地球人を滅ぼすべきとして、ゾフィ―が呼び寄せたゼットンに、一人立ち向かうウルトラマン。全て見飽きた古臭い構図だ。
「一億総懺悔」のごとく地球人を均一に扱う、ゾフィ―のニヒリズムの杜撰さは、原発事故を巡って繰り広げられる責任議論にも似ているからだ。
「福島が被害者で東京が加害者」のような対比はよくされるが、福島でも原発招致によって利益を得てきた者はいるし、逆に東京都民の多くにはそんなものはない。実際の被害を食い止めるために求められるのは被曝回避であり、東日本産品を食うことで日本人が均一に被曝することではない。
そして、この当たり前のような事実から目を逸らさずに被曝回避をしてきたのは、ウルトラマンのような「ヒーロー」ではなく、西日本への移住者という無数の大衆だ。
己と己自身の思想を鍛え上げることなく、既存権力に寄りかかり優位性を確保するワンパターンなヒロイズムを複製し続ける庵野。またそのスペクタクルに幻惑されているような多数派の日本人は、一生それに気づかず内部被曝を重ね寿命を縮めていくことだろう。軽蔑以外の何にも値しない。
作家のエレーヌ・シクスーは『メデューサの笑い』で、人間は他者に生成していくものだから、固定的な器(=何者か)には収まりきらず溢れて転化していくとしている。
「何者かでありたい」という幼稚な願いを、庵野作品は疑似的に経験させるが、それは二重の意味においてだ。お前が何者かになることはあり得ないし、そのような何者かは存在しないのだ。象牙の塔の外に放り出されてこそ、思想は試される。