球児への祈り
久しぶりにジムに行った。盆休みにより錆びついた身体は以前よりも動きが悪く、運動したくないと全身が訴えているかのように思えた。楽してしまおうかという心の悪魔と戦いながらメニューをこなしていく。メニューといってもきちんとしたものではなく、自分でもできそう、という基準で決めた簡単なルーティンみたいなものだ。なんとか最後のルームランナーまで辿り着いた。ここまでくればなんとかやり切れる。何故ならばこれにはテレビが付いていて辛いランニング中も気が紛れるからだ。機械の設定を終え、アップがてらゆっくり歩き始めると同時にテレビを付けた。そこには夏の風物詩の全国高校野球選手権の試合、甲子園が放送されていた。
プロ野球の試合は見ていて飽きるが、甲子園はその限りではない。今は準々決勝のようだった。試合は終盤に差しかかった7回裏、0対0で膠着状態のようだ。しかし中継を視聴しはじめてまもなく、それこそ私のアップが終わらないうちに試合が動いた。ヒットによりランナーが出塁、前半の試合展開は知らないが恐らく打線に捕まりかけていたのだろう、すかさず投手が代わった。しかし、投球練習が終わり直ぐに逆転の一打を打たれて待ち望んでいたであろう一点が入った。試合が動くと同時に私もゆっくりとだが走り始めていた。その後、一点を追いかける形になった先攻側のチームだが8回で追いつくことはなかった。後攻側も追加点は入らず、私も走るペースが上がっていく。真夏の甲子園でさぞかし熱く緊張感のある球児たちと比べるのはおこがましいが試合が9回に向かうにつれて私のランニングのペースも上げていき、テレビの向こう側とこちら側、ボルテージは最高潮になっていた。最終回の追いかけるチームの先頭打者の横顔が映る。彼の目はまだ死んでいない。試合を諦めていない様子はフルカウントからファールで粘る様子からも伺えた。その際にベンチが一度映し出される。そこには交代された投手が泣きそうな顔を浮かべて声を出して応援している。そのときに時々手を合わせて祈るようなポーズをしていることを見て野球は祈りのスポーツなんだなと思った。
誤解を与えないように書いておくが祈りのスポーツとは書いたが、運任せの実力は関係ないスポーツが野球、と言いたいわけではない。野球は一度交代されたらその試合には出ることができない。またその瞬間に試合を動かすのはフィールドにいる者、そして攻撃側でそれができるのは打者か走者しかいない。そして特に投手が打者に向かってボールを放る瞬間が、試合が動く起点になる。他のスポーツとは違ってその刹那に観客、選手全員の視線が集まる。その視線の先にいるもの達が試合の行く末を決める。観戦していたり、ベンチにいるものは声を出して応援することしかできないから在らん限りの声を出すし応援をする。少しでも応援するものの力になればと。しかし実際はほとんどが当人たちの実力と時の運が結果を決めるのだろう。しかし中継に映った彼は応援と同時に祈り、願っていた。
普段彼らは血の滲むような努力をしてここまできたはずだ。自分の技術や実力に自負もあって誰にも負けないつもりでやってるはずだ。そんな彼らが結果には関与できないため他者に託すしかない、そうなったら祈るしかない。どうしても倒したい願いに自分のプライドもへったくれもない状態で祈るというのはとても尊いことだと思う。そのことを彼を見て思った。
その後先頭打者は出塁したものの、結局試合には負けてしまった。その頃には丁度私もランニングが終わったので、その後の様子は見ていない。きっと彼らには忘れることのできない夏になっただろう。こんなジムがてらの田舎のおじさんが思うのはおこがましいが、彼らが野球を続けるにしろ、しないにしろその野球人生に光が差し続けることを祈ってやまない。
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