実は日本初の女帝?神功皇后にまつわる『【邇保姫神社】のご由緒』
令和七年一月十三日、年初来の大寒波の狭間にぽつりとやってきた暖かい日、小春日和とまでは言えないまでも陽気の良い祝日、広島県広島市南区の邇保姫神社へお詣りしてきました。
邇保姫神社の主祭神は爾保都比賣神(にほつひめのかみ)とおっしゃられる女神様です。それでは本題を切り出す前にまずは由緒書きをば。
邇保姫神社の由緒書き
主祭神は謎の女神さま
爾保都比賣神は神功皇后が三韓征伐に向かわれる際に航海の安全を守護したという言い伝えがあるそうです。しかしながらこの女神様について詳しく記された記録はなく、記紀にも記載はなかったと思います。一説には播磨の丹生都比売神[にうつひめのかみ]と同義とも言われているようで、太古には黄金山から朱丹(水銀)が取れたのではと想像させるところです。この辺りの説話は以前、摂社の真幡神社の記事でも触れました。
正八幡宮としての御祭神
残り三柱の御祭神は八幡信仰でお馴染みの第14代仲哀天皇、そのお后様の神功皇后、そして御二方の皇子の第15代応神天皇です。仁徳天皇陵(大仙陵古墳)でお馴染みの聖の帝、第16代仁徳天皇のお父上で、その応神天皇が神格化された神様が八幡大神と言われ全国の八幡宮で信仰を集めています。
戌の日の腹帯の起源にもなった神功皇后
神功皇后がホムダワケを身籠っている時に仲哀天皇が崩御あそばされました。仲哀天皇は三韓征伐の御神託をお疑いになられたことで突然病死なされたとのことです。突然に未亡人となられた神功皇后、しかし皇子を宿した状態で三韓征伐の大偉業をなしとげます。そのご出発の際に「帰国したら産まれてくるように」と願を懸けて腰に石を巻き出発なさったそうで、これが帯祝い(妊娠5ヶ月目の戌の日に安産を祈願して腹帯を巻く風習)の起源になったと古事記に記述があります。また日本書紀の仲哀紀にはかなりの紙面を割いてご事績が記載されています。現在では称制(または摂政)としての扱いで最初の女帝は第三十三代推古天皇と習いますが明治時代までは一部の史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)において最初の女帝とされていました。大正時代に正式に歴代天皇から外されました。(皇統譜令/大正15年皇室令第6号)
仁保島を治めていた武将
由緒書きの終盤に『三浦公の特意をもって、社領三十石を附せられ』とあります。黄金山は江戸時代まで瀬戸内海に浮かぶ仁保島という島でした。1198年に三浦大之助平重経という武将が仁保島をもらい受けたそうです。それから1288年に至るまで重経の子孫が仁保島を守っていたのでしょう。
この日の写真
2007年(平成19年)9月に不審火により旧社殿が全焼する火事があり、現在の社殿は2010年(平成22年)に再建されました。
まとめ
四世紀末からという古い由緒を持つ当社。神功皇后のご事績にあやかって安産祈願や交通安全の祈願に訪れる参拝者の方も多いと聞きます。
私が小学生の頃には秋のお祭りで沿道に縁日の出店が賑やかに並び、毎年それを楽しみにもしていました。
社殿が全焼してしまった時には驚きましたが建て替えにより装いも新たになり、今も活き活きとたくさんの人がお参りに訪れる、温かい神威の感じられる神社だと思います。