空が広い銭湯、宮城湯(品川区)の話
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タイトル:『こだわりの空気』
わたし(29)
会社員IT関連(渋谷)勤務の場合
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私にはこだわりがある。
四週に一度の美容院でトリートメント、三週間に一度のまつエクとネイルのメンテナンス、それから、二週間に一度のここ。好きなものは、好きだから仕方ない。可愛いものは可愛い。可愛くなれるなら可愛くなりたい。
『銭湯、教えてくれてありがとう』
休憩中にデスクで友人から来たLINEを眺めていると、何度見返しても頬が緩む。自分が好きなものを、気に入ってくれるのはやっぱり嬉しい。
「先輩って“女子力”高いですよね」
パソコン超しに新人の彼は、私に話しかける。
「聞きましたよ、今流行りの“サ活”、旦那さんと一緒にやってるんですよね?俺も“整い”たいな~」
最近仕入れたであろう情報を駆使して彼は続けるけれど、私は彼の会話の着地点を探るために、空気を死ぬほど吸って吸って、読んで読んで、適当に受け流す。
「都内は銭湯もサウナもたくさんあるし、渋谷にだって―」
「本当、結婚してるように見えないですよね」
私の語尾まで遮って、言いたかったのね。結婚してるようにみえない、ね。それが言いたかったの、ね。
“女子力”の高い私は笑顔で交わす。彼の気が済んだようなので、私は旦那にLINEを送った。
『リマインド、今日は例のとこに行きます。』
旦那からはすぐに『了解、そろそろ俺にも“こだわり”の、場所教えてよ』の返事。
教えたくない。だって一緒に行ったら、私が東京の広い空を見れなくなってしまうもの。
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ハタハタはためく、黄色の旗が目印。入り口前に掲げられた『本日の浴室』をしっかり確認。『女』の赤い文字がしっかり上の『露天風呂』にあるのをみて安心。
この時期はマフラーをした、たぬきがいらっしゃいませ。いつも綺麗な花壇と一緒だけれど、絶対視線を合わせてくれないおとぼけ顔はご愛敬。
今の疲れ切った私には、階段を上がる元気はないので、エレベーター一択。
二階の靴箱に靴をあずけて、ガラス戸をぬける。目の前にある受付前のベンチで、カバンの中をごそごそ。小さなバックだけれど、出すものが沢山ある。
「お風呂?」
「あ、サウナも入ります」
「今日は寒いもんねぇ。サウナマットいる?」
多分、お店の人は慣れっこなんだろうけれど、私はこの優しい軽やかな会話が好き。
私は靴の鍵、都内共通入浴回数券、スタンプカードを渡して、それからPayPayでサウナ追加代100円を支払う。お財布にも、とっても優しい。
お店の人から、サウナの印籠、腕に着けるサウナバンドと、ロッカーのカギ。それから、まぁるい緑のたぬきのスタンプが押されたスタンプカードをお返し。サウナに入ると2ポイントゲット。
―もうすぐサウナ無料だ
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三階のてっぺんめざして、階段を昇って明るい脱衣所。ロッカー番号を確認して、私は“こだわり”のスパバックを取り出す。この前新調したスパバックには、美容室でもらった試供品のシャンプーとトリートメント。それに新品のハートのソープ、更にロクシタンのシャワージェルが『早く使って』と私に声をかける。
そのお隣で、地元のお客さんたちが『今日は冷えるわね』、『おやすみなさい』とくちぐちに声をかける。
交わされては去って、交わされては去る。次々に溢れる会話の洪水。今日も大繁盛、だって二週に一度のお楽しみ、皆考える事は同じ。
明るくて広い八角形の台座のカランが中央に二つ、王様みたいに君臨する。なんていったって、王様だもの、風呂椅子だって普通のサイズの二倍はある、特大サイズの王座。最初は不思議に思ったけれど、左手にある浴槽側のカランと、奥の八角形のカランは台座が高いホースシャワー。
だから椅子も高いのね。私は勿論王座を選んで、さっき『使って』と頼まれたロクシタンで身体を流す。やっぱり、王座での私の“こだわり”は可愛い。
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ショートケーキの苺は最後に食べたい、だからお楽しみはこの後。まずは、正面の寝湯。そっと寝転ぶ。42度の熱めの寝湯はやっぱりあつあつ。けれど、頭に丁度枕があたって、段々熱さに慣れてくる。ぶくぶく、火照る身体に気持ちよく流れる水流。目の前に広がるのは高い天井。
―この建物のつくりはどうなっているんだろう?
寝湯から、はみ出す私のキラキラの足のジェルネイル。我ながら、やっぱり“可愛い”。冬だからこそ見えないところこそ、お洒落したい。それが私の“こだわり”。
そろそろ苺を待ちきれなくて、私は起き上がり隣の露天風呂の扉を開く。
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『東京の、タワーマンションとビル群は、どこか遠くへ大移動しました』
そんなニュースが流れたって驚かないような空の広さ。大きな屋根のない露天風呂。外に出て一瞬ひやっとするのもつかの間。私は右手の暗闇にたたずむ、たぬき目がけて足からゆっくりチャプン。肩までつかってほっと一息。
岩に囲まれた大きな39度の少しぬるめの天然温泉の露天風呂が、カチカチに固まった私の身体と心をトロトロに溶かしていく。
冷たい風が顔をひんやりなでて、首から下だけはじんわりあったかくて、マジックショーみたいに、切り離されてるよう。
岩に腕を重ねて、更にその上に顎をのっけて、こちらのたぬきにもご挨拶。たぬきだってのんびり横になって空を見てるから私も、今度は仰向けに岩に頭を乗せて、たぬきと同じ方向に目線を合わせる。
どんどん埋まる、浴槽。出ては入り、入りは出て。入れ代わり立ち代わり。反対に、空を見上げると、ただただ、何もない、広い、広い夜。
―東京の空ってこんなに広いんだ
この贅沢の為に私は二週に一度、ここに通う。
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パチパチパチ。音を鳴らすサウナストーブは、94度。ここのサウナは人が減ると一気に急上昇して、100度を超える。
今は私と、二人の女性の合計三人。二人のうち、誰かが出て行ってしまったら、多分温度はぐんぐん上がってしまう。私は一段目の入口のそばに、持参したタオルを敷いて、心の中で二人に『出ていかないで』と念を送って静かに座る。
「今日のサウナ熱くない?」
「ここ、一人じゃ入れないもん私」
―やっぱり、皆さん同じこと思ってらっしゃる
東京の空の下でじんわり温まった身体は、すぐに汗を猛烈噴射。ドクドク脈打つ血の流れには逆らえない。耳の奥をツンと塞がれるような熱さが到来したので、今回は“空気を読まず”、お二人には申し訳なさを感じたけれど、私はサウナを後にする。
すぐに、サウナを出て右手にある立ちシャワーで汗を流す。
お湯と水の両方をひねって、足首からゆっくり。ゆっくり。いきなり冷たいシャワーを全身で浴びたら、身体がびっくりしてしまうから。本当はこの後ザブンと水風呂に浸かりたいところだけれど、今日は、シャワーで十分。
弱っている時こそ、自分に優しく、無理はしたくない。
私は、浴室の入口の網棚に置いてきたタオルで身体を拭いて身体を包む。ペタペタ、浴室内を横切ってもう一度、扉を開けて夜空の下。
露天風呂の左手にあるベンチに腰掛けて、一息休憩。目を閉じると、東京の空の寒さが、冷たさが、私を覆う熱をうばっていく。ぼうっとする意識。
ザァァァァァァ。
遠くに飛ばしていた意識を引き戻されるような音。すぐそばで新幹線が通り過ぎていく音。その音は、浴室のシャワーの音と混ざって、今度は私の心をカンカン鳴らし始めた。
これは今日が初めてじゃない。本日、二回目の音。
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ザァァァァァァ。
―トイレの水流音で聞こえないと思っているのかな?
私は明らかに自分の事を話題にされているのに気づいて、トイレの個室から出られずにいた。聞きたくないのに、ここで私の耳を覆うものは何もない。
『あの子、毎朝髪の毛巻いて、ネイルだってしょっちゅう変えてるんだよ』
『“結婚してる”のにまだ“モテ”意識してるのかな~?』
『今日だって、新人に“結婚してるように見えない”って言われてた』
『空気読んで、交わしてたのがマジでうける』
『そういうのが男ウケするんじゃん?』
『いいな~、私も早く結婚したいな~』
私は便座に座って、項垂れた。成す術なし。ああ、もう面倒くさい。もう逃げたい。もう嫌だ。空気読んで何が悪い。結婚して何が悪い。
“私が稼いだお金“で“私の為”に、“可愛い”をつくって何が悪い。
***
「私たち二人でラッキーね」
ゆっくり目を開けると、岩に腰掛けた女性に話しかけられた。ぼんやり周りを見渡すと、さっきまで賑わっていた露天風呂はいつの間にか、ベンチに座る私とその女性だけになっていた。
「さっきまで結構、人いたのにね」
「そうですね」
咄嗟に何か返さなきゃと思ってひねり出した唯一の返事に、おふろの温度のせいで、私の顔は赤面しそう。女性は、私の事なんて何にも気にして無いようで、足をチャプチャプさせながら夜空を見上げる。
「お肌つるつるになりそうじゃない?」
「え?」
「だって温泉でしょ」
この人は、空気を―
私はタオルをベンチに置いて、露天風呂にもう一度浸かる事にした。やっぱり目指すは、向かいのたぬき。浴槽の端から端へ、女性の前を横切っても、彼女は全く意に介さない。
多分サウナの交互浴のルーティンではそろそろサウナに戻って、水風呂に入って―を繰り返す“べき”。
けれどその“こだわり”は、今はいらない。何セット繰り返すより、サウナトランス味わうより、私は“今”を楽しみたくなった。
「おやすみなさい」
たぬきの元に到着したとたん、また呆気に取られてしまった。『おやすみなさい』を私が返す前に、女性は湯気みたいにふわっと、熱気だけを連れて屋内へ戻っていった。
―羨ましいね、自由だね
私はたぬきに話かける。たぬきと一瞬目が合ったような気がして、けれどそれは多分私の気のせいで、誰も私なんか見ていなくて、贅沢に独占できる東京の夜空の下で、私は新しい“こだわり”を、つくった。
空気を読むのに疲れたら、この広い広い東京の空を見上げたくなったら、空気をめいっぱい肺に入れたくなったら、もう疲れきってしまったら。
ここにきて、息継ぎをする為に、もういらないって満杯になるくらいまで、“心”が欲しがる空気を沢山吸おう。身体を芯からあっためて、お肌つるつるになりに、ここに来よう。
―だって温泉でしょ
あの女性みたいに、私も軽やかに空気を纏いたい。
本当はもう何度か、あつあつのサウナと湯船に入りたかったけれど、この独占した露天風呂と星の見えない東京の夜空と、『おやすみなさい』が、今日は私の心を沢山整えてくれた。
***
受付前のベンチで、すっかりぽかぽか。ポカリを飲んでいると、旦那から写真が送られてきた。
『可愛いと思って。今度使って』
一言添えられた、新しいタオルの写真。
―あ、可愛い
この人と結婚して良かった 。更に暖かくなる心と身体。私は受付の横に可愛いく飾られたお雛様の写真を収めて、旦那にLINEを送る。そして、もう一つ、私はこだわりを捨てた。
『今度は来週、一緒に来よう』
その時お雛様はいないし、私は1階で露天風呂には浸かれないけれど、私には初めての1階のお風呂の楽しみがある。それから旦那にもあの、広い広い空の下で、ぽかぽかつるつる温泉と美味しい空気を味わってもらいたい。
おしまい
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【銭湯データ※公式サイトより※】
■住所
東京都品川区西品川2-18-11
東急大井町線下神明駅から徒歩3分
JR京浜東北線大井町駅から徒歩15分
■営業時間
平日:15時~25時
土曜日・祝日:13時~25時
日曜日:11時~25時
※1
一階と三階の入浴施設は毎週木曜日に男湯/女湯が入れ替わります。
※2
定休日が祝日の場合は営業。(前日火曜日は振替休日):営業時間 13:00~25:00
■定休日
毎週水曜定休
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