シンウルトラマンは美術を語るのか。
仕事の疲れを引き摺ったまま、宮古市美術協会展に行ってきた。
暖色の会場で、小さい子供達が走り回ったり、様々な年代の人々が混ざり合ういい展示だった。作品に触れらる距離感での展示は田舎ならではでとても好きだ。会場も私立図書館なので分け隔てなく誰でも立ち入り、無料で見て、好きなだけいられる。誰も排除されない環境というのはどこまでも良い空間での展示だった。
場内は20点ほどの作品が並んでおり、各人1点の出展となっていた。田舎の展示なので、始めたばかりの人からコンペティションで大賞をとる人までが並べられていた。
その中で一番良かったのはやはり成田玄治さんの作品だった。
なぜこんな場所にあるのかわからないような、巨大な作品だった。しかし無駄に大きいのではなく、どこをみても意図が伝わり一つ一つの点描まで息遣いを感じる素晴らしい作品だった。キャンバスの大きさを超えて作品の主張と悲しみと現実が、視覚を通じて流れ込んでくる作品だった。
震災後の美術はどんどん記憶があやふやになるからなのか、街のよくわからない雰囲気に呑まれてしまうのか、変に明るくなったり暗すぎるものになるが、成田さんの作品だけは、震災の日の空気そのもので何も言えなくなってしまった。自分のトラウマを呼び起こしてしまうような恐ろしさがあった。
映画「シンウルトラマン」の中で、ウルトラマンがフランスの人類学者、レヴィ・ストロースの著書「野生の思考」を読んでいる場面がある。宇宙から来たウルトラマンは強い個として地球を守るが、自分より弱い群れの人間のことを捉えきれない。そこで人間の群れとしての側面にフィーチャーし、単体では何もなし得ないからこそ群として強さを発揮する人間を解読しようというシーンだ。強いものは個として成り立ち、弱いものは群れる。サバンナの荒野で狩り、狩られるライオンとシマウマを想像すれば理解にたやすいこの野生を、人間に落とし込むのだ。
そんな「野生の思考」なのだが、実は第1章「具体の科学」の中に美術に関連する記述が出てくる。
美術作品の大多数が縮減模型である。現実の物体を全面的に認識するためには、僕たちはまず部分から認識を始める傾向がある。なぜならば、対象がわれわれに向ける抵抗は、分割することによって克服されるから。
という記述なのだが、ウルトラマンはこの点についてどう思っただろうか。彼が地球に訪れてから美術に触れたのかはわからない。しかし、美術を作る人間というのは知覚が独特かつ抽象的で、群れることができない存在であることが多い。それは野生においては強いことの証左だが、人間社会の中では弱者として扱われがちだ。ウルトラマンの中で野生がむき出しにされた美術作家はどう映るのだろうか。また、作家達の作品をどう受け取るのだろうか。
今回の協会展で良かった作品は、全体の知覚が特に素晴らしかったように思える、細部に我々の思考の余地を残して、宮古での生活を改めて考えさせられるような良い展示だった。
自然の細部を見慣れている宮古の人間が、宮古市内で行う展示だからこそ、全体としての調和を改めて問い直す営みが、自分自身にそう思わせたのかもしれない。絵画本来の持つ力を信じて身を委ねて、発揮させるのはいつだって自分自身を主体とする野生の営みなのだ。
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