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斜陽はドブにも落ちる

砂川文次の作品の面白さは、日常から少しのところにある想像のできない別世界だ。それは簡単な分岐によって起こるのではなく、本来動くはずのものが動かなかったことへのつもり積もった不信感による別世界である。
政府による殺戮や、ジェノサイドは最近の国際情勢を見ていれば本当に起こりうることかもしれない。しかし想像のできない別世界。いや、想像することしかできない隣の世界。いずれにしても、自分自身には降りかかることはないだろうという心理を持って生活している。
簡単な分岐ではないと言うのは、本来これは起こらないことであるからだ。賢明な皆様ならお分かりいただけると思うが、前提を整理するために今一度提示させていただきたい。
砂川の役所仕事の描写は見事だ。自分自身が役所で働いているので、「あるある〜」となる瞬間がとても心地よい。
しかし一点だけ現実と違うのは砂川の役所は「めんどくさいことをしないことに頑固である」と言う点である。実際にはこの辺の描写は間違っているといえよう。お役所仕事と一般には揶揄されるが、その実情は個人情報を扱う都合上、また公共事業という公官庁にしかできない仕事のためには、優位に働いているものである。民間と勝手が違うところは国民や市民、首都民にサービスを提供しなければならない。その中でもちろん仕事であるからめんどくさい事というのは多々出てくる。作中では、Kが仕事を半ば強引に押しつけられたり、暗黙の了解を持って議論が終了したりしているが、実際の会議はそうではないことが多い。(もうひとつのフィクションは定時では絶対に帰れないところだ)その辺りは一般と変わらず、わからない点に関しても説明を求めるし、業務方針に関しても細かく指示が出ている。そして最大の間違いであるのは、専門家の意見を聞かず事務都合で進めたり、市民の声を黙殺に近い形で事業を推し進めているところだ。
この点に関しては、市役所はめんどくさいことをすることにもめんどくさいことをしないことにも両方向に対して頑固なのだ。これが現実であれば、市民から文句が入れば自治体は事実関係を調査し、専門家の意見を持ってリリースを行う。砂川的に描写するのならこの専門家から上がってきた決裁に対して、上司のチェックが「わからないから入らない」「専門家の報告書なので判子を押しておこう」になるはずだ。しかしあえて市民の声を無視するような描写であるのは逆らえない縦割りの描写やK自身が昇進をすることによって、自分自身が逃れることのできない功罪を抱えてしまうという点について、十分に描写されている。
もちろんこれがフィクションであると言うのは私自身も十分に理解している。ではなぜ指摘するのかと言われれば、砂川の文章の与える違和感というものはどこまでも細かいからだ。そしてその違和感の積み重なることで取り返しのつかないパラダイムの転換を迎えてしまう。例えるならば砂漠を構成しているのは、小さな砂つぶだと言わんばかりである。最初は靴の中がゴロゴロするくらいで気にならなかったものが、気づけばあたり一面その砂粒だらけで、小さかったものは地平線を構築するまでになってしまう。気づいた時には手遅れで、水分を奪い、生活を奪ってくる。こうすることによって、自分自身を守る意識が、他者を攻撃する意思とすり替わったり、秩序や平和というものが、人民によって作られているというのがよくわかる。
砂川の作品はフィクションである。しかし取り扱うテーマや、状況は否応なく現実とリンクさせてしまう。読んでいる間は「これはフィクション」と何回も自分自身に言い聞かせながら、読み進めていくしかないので、現実とフィクションの境界をより際立たせていくことになる。しかしそれがフィクションであるという証左は誌面上の文字であるということでしかなく、常に実際に現実にあるのではないかと疑わざるを得ない。この疑いが少し大きくなるたびに、「これはフィクション」と繰り返し呟くことになる。実際に描写されているのはフィクションではなく、目を背けたくなる現実の断片で、我々自体も「小説はフィクションである」というルールを守っていればルールの方が自分自身を守ってくれるという皮肉めいた構造が、この小説には潜んでいる。思えば最初から変なのだ。都庁は首都庁とは言わなかったり。つり革の位置を保持するのは重力ではなく、慣性力だったり。どこか見たことあるものが本当にそうなのか。ひょっとしたら首都庁は正しいのかもしれない。まがちえているのは自分自身かもしれない。政府によるジェノサイドや、浄化して終局的な安全性を病床人に対して与えるのも正しいのかもしれない。政府のジェノサイドも正しいのかもしれない。戦争も国民が望めば正しいのかもしれない。北の地で起こっていることにも照らし合わせて考えるしかないのかもしれない。
区切りをつけることで現実から目を離すことはいつどこに至ってできるのだ。その空気を醸成するのは、臆病な街ではなく、一番目に見えている、臆病な自分自身なのだ。一番目を向けなければならないものから、目を背けているのがいったい誰なのかは、自明であろう。

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