【世界史裏探訪まとめ】防御力最強のはずの「城塞都市」が日本で採用されなかった意外な理由【歴史解説】
今回は「世界史裏探訪」チャンネルの動画の内容をまとめました!
以下は、先ほどの要約を「です・ます」調に書き直したものです。記事としての可読性も意識しながら再構成しています。
日本で城塞都市が発達しなかった理由と、日欧の城の違い
人類は古代から自分たちの領土を守るため、さまざまな工夫を凝らして城を発達させてきました。ヨーロッパの場合は、都市全体を壁で囲う「城塞都市」が非常に強力な防御力を発揮してきましたが、日本では同様の形態があまり見られません。
その背景には、日本独自の地理や歴史、社会体制が複雑に絡んでいます。本記事では、日本の城下町とヨーロッパの城塞都市を比較しながら、両者の相違点や、日本で城塞都市が発達しなかった理由を探ってみます。
1. 日欧の城が担っていた共通の役割
日本とヨーロッパの城は外見こそ異なるものの、下記のような目的を共通して持っていました。
軍事拠点
有事の際に敵の侵攻を防ぎ、牢城戦(こもって戦う方法)の拠点となります。城内には武器や食料を蓄えていました。
ヨーロッパでも産地や河川沿いなど、軍事・交通の要所に築き、支配域を守っていました。
権力の象徴
日本では織田信長の安土城のように、豪華な外観を通じて領民や家臣に威勢を示す手段になりました。
ヨーロッパでも領主が大きな城を構え、権威を誇示した例が数多く見られます。
政治・行政の場
日本では「御殿」を設け、家臣との協議や政務を行う中心機能を担いました。県庁や市役所のような位置づけです。
ヨーロッパの城も、同様に領主や軍司令官の行政拠点になっていました。
住居(生活の場)
日本では天守は倉庫のような用途が多く、本丸御殿などで主に生活していました。
ヨーロッパの城も領主用や来客用、兵士用など、複数の居住スペースを持ちました。
2. なぜ日本では城塞都市が育たなかったのか
2-1. 地理的条件の違い
ヨーロッパ
ユーラシア大陸の西端に位置し、異民族からの侵略が絶えませんでした。都市全体を分厚い城壁で囲んで市民が暮らす「城塞都市」を発達させることで、外敵から身を守っていたのです。日本
四方を海に囲まれた島国であり、大陸ほど異民族の侵略を受けにくい環境にありました。海が自然の城壁の役割を果たしていたため、都市全体を高い壁で覆う必要性が低かったのです。
また、大地震が多い土地柄でもあり、大規模な石造りの城壁が崩れる危険が高かったことも影響しました。
2-2. 堀と自然地形による防御
堀の活用
日本の城は土を掘って堀を作り、水を張ることで大きな防御効果を得ました。大阪城や江戸城、姫路城などでは「総構え」と呼ばれる堀で城下町を丸ごと囲むケースもありました。自然地形を利用
河岸段丘や崖、沼・湿地などを防御に活かして、少数の守備兵でも大軍を防ぎやすく工夫しました。長篠城や上田城が代表例です。
2-3. 城下町全体を使う防御システム
城の近くに武家地を配置して、非常時にはすぐに城へ駆けつけられるように設計しました。
その外側に町人地(商人・職人など)を置き、道路をわざと複雑にする「鍵の手」や「袋小路」を設けて敵が迷いやすくする工夫も見られます。
一番外側には寺社を配置し、侵入をさらに難しくしました。城下町全体が一種の防衛装置として機能していたのです。
3. 城での暮らし――衛生や設備の違い
3-1. トイレ事情
日本の城
トイレの数が少なく、実際はオマルを利用して用を足したあと、排泄物を城外に迅速に運び出す方法をとっていました。
1581年の浜松城では、馬の糞尿を毎日外に捨てる決まりがあったなど、衛生管理に非常に神経を使っていたようです。
ヨーロッパの城
「ガルデローブ」と呼ばれる張り出し式のトイレを多数配置し、排泄物を下に落とす仕組みが一般的でした。
トイレ自体の利便性や数は日本より充実する一方、処理や悪臭対策は必ずしも徹底されていなかったようです。
3-2. 清掃・衛生管理
日本の城
狭い空間に多数の人が詰めているため、汚れが病気を呼ぶと認識していました。小田原城などでは「クルワ(区画)を毎日掃除せよ」といった厳格な規則を設けています。
ヨーロッパの城
床に藁やイグサを敷く風習がありましたが、交換頻度が少なく、汚物が堆積するケースが目立ちました。
エラスムスの記録にも、「20年放置された床には人や犬の排泄物、残飯が混ざっていた」といった生々しい記述があります。
3-3. 建物の構造と寒さ対策
日本の城
木造が多く、大きな窓は取りやすいものの、暖炉のような加熱設備がなく、防寒は衣類や火鉢に頼っていました。
ヨーロッパの城
石造りで分厚い壁は防御に有効でしたが、採光や暖房が不十分でした。12世紀後半以降のゴシック様式で大きな窓が実現する一方、暖炉の普及にはさらに時間がかかったようです。
4. 小田原城に見る“城塞都市”の試み
日本でも唯一に近い形で、城下町を巨大な堀と土塁で囲う総構えを実施した例があります。戦国時代末期、北条氏が守る小田原城です。
総構えの規模
周囲約9kmにわたる堀と土塁で、町そのものを防御しました。一辺が数十メートルを超える大きな堀を築き、城と都市を一体化したのです。狙い
東日本最大規模の都市だった小田原に集まる商人・職人や、広大な田畑をまとめて保護することで、長期の籠城戦を可能にしました。結果
豊臣秀吉が率いる大軍に包囲されましたが、最終的には戦闘による落城ではなく「調略(話し合い)」で開城しています。その防御力は戦国武将たちに大きな衝撃を与えました。
5. 秀吉の「兵農分離」と城塞都市抑止
小田原城の「総構え」が実際に有効だったため、今後城塞都市が増えると権力者にとって脅威になると見た秀吉は、兵農分離(武士と農民・町人の役割を分ける身分制度)と刀狩りを徹底しました。
兵農分離の狙い
民衆が武器を持って城に籠もり、大規模な抵抗をすることを封じるためです。城壁や堀を造ること自体を禁じるよりも、「戦える人材を制限する」ほうが抜本的な対策になりました。結果的な影響
城下町と一体化した城塞都市が広まる芽を事実上つみ取り、日本では大規模な城壁に囲まれた都市が発達しなくなりました。
まとめ
ヨーロッパの城塞都市と日本の城下町には、軍事拠点・政治行政の場・権力の象徴・居住空間という共通点がありながら、防御形態や街づくりは大きく異なっていました。
地理的要因
島国で地震が多い日本は、高い石壁を築く必要性も可能性も低かった一方、ヨーロッパは常に異民族の侵入に備える必要があり、城壁で街を囲む方法が自然と発達しました。堀・自然地形を活かす
日本では石壁を高く積むよりも堀や崖、沼などを効果的に利用する防御方法が生まれました。城下町全体が防御を担う
武家地・町人地・寺社を配置し、入り組んだ道路を作るなどの計画で、外側からの侵入を困難にしました。衛生感覚や暮らしの違い
日本は衛生を重視し、徹底した掃除やオマル運用で疾病を防ごうとしました。ヨーロッパはトイレ設備や暖房など物理的な快適性に寄与する一方、衛生管理は徹底されず、問題が残った面もあります。政治的背景(兵農分離・刀狩り)
民衆が主戦力になる“城塞都市”を防ぐため、秀吉は社会体制を変革し、武士以外は武器を持てないしくみを整えました。これによって日本の城塞都市的な発達は阻まれたといえます。
もし地理条件や政治状況が異なっていたら、日本もヨーロッパのような城塞都市を発展させていたかもしれません。地理や歴史、そして為政者の思惑が交差した末に、日本の城や街づくりは独特の進化を遂げたといえます。歴史の奥深さを感じる視点ではないでしょうか。
参考文献
動画で紹介されていた参考文献もぜひご確認ください!
J・E・カウフマン, H・W・カウフマン 「中世ヨーロッパの城塞」
開発社 「図解 城塞都市」
GQ 「経済圏を城塁で囲んだ北条「小田原城」はヨーロッパと同じ発想だ──世界とつながっている日本の城 第10回」 https://www.gqjapan.jp/lifestyle/arti...
Newsweek 「防犯対策の世界常識が日本に定着しないのは、その礎が「城壁都市」にあるから」 https://www.newsweekjapan.jp/komiya/2...