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【ゆる哲学ラジオまとめ】本当はヤバい朱子学。儒学における捏造・改ざんの歴史。 #93【朱子学4】
本当はヤバい朱子学――捏造・改ざんだらけの歴史
前回までの動画では、朱熹(しゅき)が創始したとされる「朱子学」について、比較的ポジティブな面を中心に語られていました。ところが今回の内容では、朱子学誕生の裏側にある“捏造”や“改ざん”の数々が紹介されています。いったい朱熹はどのような嘘や文章の書き換えによって、自らの学説を“正統”と主張するに至ったのでしょうか。ここではその概要をまとめてみます。
前回の記事はこちら:
朱熹による「家系図」の書き換え
1500年の歴史を覆すという壮大な主張
朱子学は12世紀の宋(そう)の時代に、朱熹という若くして科挙(中国の官吏登用試験)に合格した天才が整備・体系化した学問です。彼は当時「絶学」とまで言われ、停滞しつつあった儒学を再興するため、自分こそが孔子(こうし)や孟子(もうし)の正統後継者であると主張しました。
しかし、孔子や孟子が活躍したのは紀元前数百年。朱熹とは1500年ほど隔たりがあります。それを「自分が直系の弟子だ」と語るには、説得力のある“つながり”を示さなければなりません。そこで朱熹が目をつけたのが、当時ほとんど無名だった地方教師・周敦頤(しゅう とんい)という人物でした。
周敦頤を「復興者」に祭り上げる
周敦頤は『太極図説』という短い文献を著していましたが、当時はほとんど注目されていませんでした。ところが朱熹は、この『太極図説』の中に自分の説(理・気の二元論)と似た要素があると見なしました。さらに、自分の師匠の師匠……をさかのぼると周敦頤に行き着く、と強調することで“孟子から周敦頤、そして朱熹へ”という血統図を作ってしまったのです。
「対極図説」の改ざん
原文の削除で都合よく理論を組み替える
周敦頤が書いた『太極図説』は、もともと道家(道教)的な宇宙観を示す文章でした。冒頭部分には「無極而生太極(無極によりて太極をなす)」という意味の漢字が7文字ほど並んでいたとされます。これは“無から万物が生まれる”というようなイメージに近いもので、儒学というよりむしろ道教寄りです。
朱熹はそこから2文字を削除し、結果的に「無極而太極(無極にして太極)」という文面に書き換えました。すると、道教的な「何もない無(無極)から太極が生まれた」という解釈ではなく、「形のない法則としての理(太極)が存在する」という朱子学的な構図に差し替えられてしまうのです。
こうして、周敦頤がもともと意図していた内容は“改ざん”され、「周敦頤は朱熹の思想を先取りしていた大先生だ」という話にすり替わりました。
「大学」への三段階の改ざん
朱子学の根幹テキストとされる“師祖”の四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)ですが、実は『大学』はもともと『礼記(らいき)』の中の一編にすぎません。作者もわからず、非常に古い文献です。朱熹はこれを「孔子の弟子・曾子(そうし)の作だ」と主張し、さらに大胆な改ざんを加えています。
1. 語句の読み方を変える(訓読の書き換え)
『大学』には「格物致知(かくぶつちち)」という有名なフレーズがあり、もともとは「物にきたして知をいたす」という解釈(=行為の善悪を結果から判断する)を示していました。しかし朱熹はこれを「物に至りて知をいたす」の意に転じ、あらゆる事象を探求して“究極の知”にたどり着くことこそが「格物致知」なのだ、という学問的探求路線へと変えてしまったのです。
2. 漢字自体を変える
三綱領・八条目のうち、「親民(しんみん)」という言葉も「新民(しんみん)」と書き換えられています。
親民:君主や政治のリーダーが民衆と親しく接すること
新民:一人ひとりが学問修養によって“新しく”なること
これによって、もともと政治リーダーのあり方を問う文献だった『大学』が、一転して「個人が学問で自らを高め、周囲へ波及させる」というスタイルに置き換えられました。元来の“リーダー論”が“個人修養論”へと大きく変化したのです。
3. 文章そのものを追加
朱熹は「真の『大学』の冒頭部分は、かつて秦の始皇帝によって焼かれ、失われてしまったのだ」と主張し、勝手に“復元版”を作り上げました。史料としては存在していなかった新文章を追加し、“本来はこうだった”という形で世に出してしまいます。
このように何もなかった文章をゼロから継ぎ足す行為を「格物補伝(かくぶつほでん)」と呼び、同時代の研究者からも批判を受けました。しかし、朱熹の影響力とその後の科挙政策によって、いつしかこの書き換え版『大学』が“正統テキスト”として多くの人に受け入れられていくのです。
なぜ改ざんされた朱子学が普及したのか
科挙への採用
宋が滅びた後、モンゴル系の元(げん)王朝が中国を支配しました。統治のため、元は科挙の科目として朱熹が整えた「四書五経」を取り入れます。もともと『大学』や『中庸』は「礼記」の一部分でしたが、朱子学の体系で“独立した重要文献”として位置づけられると、それに沿った解釈が試験合格のために必要不可欠となりました。
個人修養思想としての魅力
元々の儒学は政治家や官吏向けの「支配者論」が強い内容でした。ところが朱熹による改変後のテキストは「勉強によって個人が自身を磨き、それが広がって世界全体を良くしていく」という、非常にモチベーションを高めるメッセージを含みます。身分の上下を問わず、「自分を変えれば世の中も変わる」と考えたい人々にとっては、むしろ新しい希望の学問として受け入れられやすかったとも推測できます。
まとめ――天才的改ざんと、その後の影響
周敦頤(しゅうとんい)を勝手に“正統の祖”に据え、古い文献を改ざん
『大学』や『礼記』内の単語・文章を削除・変更・追加
科挙に採用されることで、一気に広範囲へと普及
朱熹の行為は、現代の視点から見れば完全に“捏造”や“改ざん”と断じられかねないものです。しかし、「平和な世を作るためには学問が欠かせない」という主張そのものに魅力があったことも事実でしょう。
その結果、朱熹の説は「朱子学」として東アジア各地に受容され、日本の江戸幕府などの政治や思想にも大きな影響を及ぼしました。まさに天才による“歴史の上書き”と言えるかもしれません。
今後、この「朱子学をどう評価するか」という問題は、一面的な“古臭い封建思想”では片づけられないでしょう。壮大なスケールの捏造の一方で、人々が学問を通じて自身を高め、世界を変えられると信じるための思想的土台も提供したからです。
いずれにせよ、朱子学の誕生には相当な“ヤバい”舞台裏があったことは否定できません。本動画では、その捏造の詳細な手法と背景が暴かれることで、朱子学の実態が改めて浮き彫りになっていました。