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石山詣をする

ともだち三人で、石山詣に行った。

夏の盛りで、駅からの道はじりじりと焦げるように暑かったのだけれども、石山寺はひんやりとしていた。していたような気がするだけで、ほんとうは暑かった。けれども、門のむこうの参道は両側からのもみじとか、さくらなんかの葉に覆われて、それがやわらかく光をとおして、黄緑色ですずやかであった。

大河ドラマが紫式部を取り扱っている影響で、石山寺はそこそこににぎわっていた。ともだちとお参りをして、ドラマの衣装などが飾ってある特別展示をひやかし、それから石山寺の門の外で石餅を食べた。よもぎのいいにおいがした。温かいお茶がおいしかった。

石山の駅に戻って、ともだちが予約してくれていたお店で、漬けの手毬寿司を食べた。漬けはおいしかった。赤こんにゃくも瓜のもおいしかった。上にのせられているこまごましたものも、すべておいしかった。
それからどうするかという話になって、電車を乗り継ぎ京都に行った。京阪に乗っていたはずが、降りたら地下鉄の駅にいて、不思議がりながら京阪の駅に向かって歩いた。

平安神宮の近くで、タルトタタンを食べた。タルトタタンはほんのすこし温かくて、ヨーグルトのようなソースがついていて、その酸味がおいしかった。酸味をおいしいと思う年齢になったのだなとすこし驚いたりした。

夕方になったので、ともだちと別れた。琵琶湖の疏水を少しだけ歩いて、わたしも電車に乗って家に帰った。ああ、また来たいなとしみじみと思った。

昔、もっとわたしが若かった頃、いろいろなことに必死であって、仲のよいともだちなどに「温泉に行こう」と誘われるようなことがあっても、とてもそんなところに行ける心持がしなかった。温泉に行くような心の余裕があれば、ひとりで眠りたい。歯医者に行きたい。美容院に行きたい。本が読みたい。何もしたくない。そんな時期があった。

今でも、ときどき「もう誰もわたしとつながろうとしないでください。どうぞわたしのことは、見えないものとして、いないものとして、みなさまお健やかにお過ごしください」と乱暴なことを思うような時もある。

それでも、ほんとうに。
ほんとうにともだちと電車に乗り、ほんとうにともだちとお寺を参拝して、ほんとうにともだちと遠くの街で食事をし、甘いものを食べて、家路につくということができたのだ。そしてわたし自身が「また行きたい」と思った、それを楽しいと思えたということに、しずかに感動する。

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