鎌倉における様々な最後まとめ
鎌倉時代について記事を書くと言いながら、書かない期間があまりにも長いことに愕然としています。
これではここは市民劇場と日々の日記の発表の場になってしまう。
大いに反省です。
ということで今日はかなり久し振りに鎌倉時代について書きます。
今日は鎌倉のいろいろな最後についてまとめます。
鎌倉政権の成立については今度書きますが今日はその終焉について。
元弘3年(1333)5月22日鎌倉滅亡は誰もが歴史の授業で習ったと思います。
新田義貞と足利千寿王(後の室町幕府2代将軍義詮)の軍勢によって鎌倉は攻め込まれ、得宗北条高時以下一門・御内人は東勝寺で最期の時を迎えることになりました。
同じ年の5月7日に足利尊氏らによって京都六波羅探題は滅亡しています。京都の制圧に向かった尊氏が鎌倉に背いて六波羅探題を攻めました。これは鎌倉政権にとってはまさかの出来事であったと思われます。
それに呼応して決起した新田義貞。おそらく東西でほぼ同時期に兵を起こすことを計画していたのでしょう。六波羅探題滅亡に対して何か策を講じる前に鎌倉へ反乱軍が攻めてくることになったのです。このスピード感は足利と新田の連携があったから可能であったとしか思えません。
ではここで鎌倉政権の最後の〇〇について列挙します。
鎌倉殿(将軍):9代守邦親王ー鎌倉滅亡と共に退任。
得宗:(北条氏嫡流):北条高時(執権としては14代)
執権:16代赤橋守時(足利尊氏の妻の兄)22日前に戦死
連署:北条茂時 鎌倉と運命を共にする。
六波羅探題:北方北条仲時。近江番場寺で自害。
:南方北条時益。京都で戦死。
鎮西探題:北条英時。鎌倉滅亡後攻められて自害。
長門探題:北条時直。攻められて降伏。
六波羅探題・鎮西探題・長門探題についてはここでいずれ記事にして書いていく予定です。
六波羅探題・鎮西探題いずれも一族ほぼすべてが運命を共にしているのが特徴です。
長門探題だけは唯一降伏ということで終焉を迎えている。鎌倉武士ならば最後まで戦って散ってほしかったなあというのが、私が現役大学生の時から変わらず抱いている気持ちです。
散る時に散ることの良さがあると思うので。
鎌倉政権の本拠地鎌倉が、西国の機関六波羅探題に続いて滅ぶ。その流れで鎮西探題と長門探題が消える。
鎌倉政権の全国統治の諸機関が一気に滅亡したことによって鎌倉政権は終焉を迎えたのです。
そう鎌倉だけを陥落させるのではなく、すべての鎌倉の機関を滅ぼすことに最大の意味があったのだということをここで強調しておきます。
次回はお待たせしている鎌倉政権の成立について書きます。
何をもって鎌倉政権が成立したとするのか。
そしてその時はいつなのか。
この2点がメインです。
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