「ひとのために」はおこがましいかも


・アジカンの後藤さんと坂本龍一さんが対談している記事を読んだ
・坂本龍一さんのことば
・音楽のちから、なんて表現はおこがましくて、坂本さんはただ自分が好きだからやっているとのこと
・感動するとか救われるとか、そういうのは音楽を聴いた人が決めることであって、発信する側が決めることではないんだなとハッとした
・発信側ができるのは、あくまで結果論的に「救われるきっかけを作ること」ぐらいなのかもしれない

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・OWNDAYS田中さんの「破天荒フェニックス」で読んだ、被災地でメガネの調整や提供をしたという話を振り返る
・被災地でメガネがなくて困っている、など、相手のニーズが明確な場合、「人のためになること」は比較的提供できやすいと言えそう
・ニーズを満たす行動が選択しやすい
・一方で、音楽の力、のように、アートというか芸術的な分野は、明確なニーズがないことが多い
・食べ物が欲しい、飲み物が欲しい、着るものが欲しいというニーズに比べるとニーズが弱い、という感じ
・ニーズがわからない、弱いところで「ひとのために」というのは、提供する側の価値観の押し付けのように感じてしまいがちなのかも
・つまり、ニーズがはっきりしていないところで「ひとのためになにかをしてあげる」は「おこがましい」になりやすい
・そういう分野では、自分の好きをひたすら追求することで、「勝手に救われる」ひとを増やすイメージの方がいいのかもしれない

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・「ひとのためになるかどうか」は結果論である
・ニーズがはっきりしているところでも、「自分のためになった」「救われた」と感じるかどうかはひとによる
・となると、提供する側に求められるのは、想像力かも
・原則は「相手が困っていることを提供する」
・「〇〇で困っているかもしれないな」と想像してそれを提供
・でも救われるかどうかは相手が決めることだということも忘れちゃいけない
・提供する側にできるのは、きっかけづくり
・見返りを求めた瞬間に「これだけしてあげたのに」という感情が湧くから、見返りを求めずに「好きでやってる」というイメージで提供し続けること


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