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こどものころの街の空き地がどこもあそび場としてつかわれていた


はじめに

 むかしすごしていた街。工場地帯の周囲にひろがっていた。街はまだまだ基盤整備が必要で、雨の日には未舗装の道を一列になり、どろんこになりながら通学。そのまわりに空き地がひろがっていた。そうしたあそびの場にできる土地は数かぎりなく、10あげよといわれればつぎつぎにうかんでくる。

当時のおとなたちがこうした「空き地」に関してはこどもがつかうぶんにはおおらかというか、無とんちゃくだった時代。そんなころのようす。

こどもの居場所

 ひまさえあれば寄っていた。そこには時間をもてあますなかまたちがだれかいた。きょうだいをひきつれているとあっというまに3人、4人とあつまる。声が周囲にきこえるとさらに家からとびだしてくる。学年はばらばらだった。

何をやってあそぶかでほんのちょっと合議。あっといまにきまり、没頭する。

いまはそこからとおくはなれた場所にすんでいる。より郊外で中山間地にちかい。ところがあんしんしてこどもだけで遊べる場所はそんなにない。となり近所にこどもたちがいるはずだがそとであそぶようすをほとんど目にしない。

やすらぎの場所

 さて、はなしをもとの住んでいた場所にもどそう。ドラえもんによくでてくる土管のある空き地。そこにみんながあつまる。わたしの世代にはごくありふれた日常のひとコマ。

工場地帯の近隣に住むわたしたちにとって、そこがあそび場。都市としての機能をようやくそなえつつあり、周囲の田畑をうめ山林を切り開きながら街がひろがりをみせた時期。あそび場の土管で下水道がひかれ、どろんこ道はアスファルトにかわっていった。

急速にかわる街のようすを横目に、あらたに置かれた大きな土管のなかにいるのがすきだった。そこは校庭の木にのぼってすごすのとおなじくらいおちつける場所。なつに照りつける陽ざしをさけて、ひんやりしたコンクリートがはだにここちよい。

ここで友人たちとさまざまなはなしがひろがる。はなしから背後にいるおとなのせかいが垣間みえた。よくわからない内容も多い。なかのよい級友が「いえのじじょう」で南にひろがりをみせていた新興住宅地へつぎつぎにひっこしていった。小学校入学時の同級生たちが6年のあいだに4割ほどよそへ。めまぐるしく街のようすが変わる時期。

あそびの場所が…

 その幼少期からすごしてきた場所から大学進学時にはなれた。機会あるごとに何度かおとずれている。こどもの目で見ていた以上におどろくほどの変貌ぶり。住んでいた社宅のアパートの斜め向かいの土地は、べつの会社の平屋社宅をとりこわしたあとの空き地だった。

ここはひろくておもうぞんぶん野球をやり、めいっぱい自転車をこいだ。いくら打ちそんじても周囲には空き地が広がり、どこまでもころがっていく球をおいかけるのがたいへんなぐらい。めったにない飛距離のボールでもそのさきには丘陵がそびえたつ。

このあそび場の変遷がはげしい。社宅➡空き地➡ボーリング場➡工場の資材置き場➡老人福祉施設。とおり向かいの空き地はもうひとつのあそびの場。ここには6軒の個人住宅が建った。そこにはもはや面識のない方々がお住まい。

あんなにおもいっきりボールを打ったはずなのに、家のたてこんだようすをながめるとごくせまく感じる。周囲もふくめて当時とくらべるとちんまりとみえる。

おわりに

 いずれもあそんだところはすでにあたまのなかにのこるだけ。それでもなかにはほとんどもとのままのところも。

それは市によって児童公園として整備されたところ。こうした公園がさかんにつくられはじめた時代だった。ここだけが当時のまま。ここであそんだ記憶がない。おぜんだてされた遊具がさまざまあって自由度がないから。

上の記事をあらためて読むと外に出ずっぱりにみえそう。これでも親から「もっと外で遊んだら。」といわれていた。「家のなかをこのむ本好きな子」だったらしい。親の世代はもちろんのこと、おとうとのほうがはるかに外遊びをしていたとつけくわえたい。


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