年をかさねてこのまま郊外でくらすか街に住むか行き来の面からかんがえてみた
はじめに
このところ家族の病院の送迎をやりながらかんがえた。わたしの親の面倒はこれでいいとして、わが身の老いたとき。こどもたちの面倒になるつもりは毛頭ない。
そうなるとこの場所にいる場合と街のほうでくらす場合、その両方をこのところ思い浮かべている。
きょうはそんな話。
郊外のくらし
いまの住みどころは中核市ではあるが、いちばん南のはし。中山間地でむしろ限界集落にちかい。周囲ではわたしの親がもっとも年上。するとそのひとつ下の世代はわたしの世代で、みわたしてもかぞえるほどしかいない。
親はすでに運転免許を3年前に返納。それ以降の病院通いはわたしか家族がつれていく。
親の面倒をみるとしてその先のことをかんがえるようになった。それもそのはず。こどもちたにはまったくたよる気はないし、土石流危険渓流のエリア内で、急傾斜地崩壊危険区域のすぐ横に建つわが家にあまり未練をのこす気はない。惜しいには惜しいが、ここ3年ほど暴風雨や台風にみまわれ、避難生活がつづき、ほとほとかんがえるようになった。
そんな状況で家をたいせつにまもるなどとうていむずかしいと心底おもう。避難のたびに建っている状態を見るのは最後かもなあとのきもちではなれる。
街のくらし
そしてすでに基礎疾患としてCKDを患う。体力のいるしごとや寒空の下での行動は年をかさねはじめて自重するように。昨今の状況もそれに輪をかけた。いやおうなくわが身にふりかかりそう。
以前は鉄道と歩きで午前中いっぱいかけて病院通いしていた(いまは車で)。朝食ぬきの血液検査の日はへとへとになっていた。前日の夕食後から19時間ほどの絶食。ようやく昼食にありつくとその日はぐったりつかれていた。かえって検査はからだにわるくないかと思うほど。
それでいまでは車を運転して通う。血を抜いたあとすぐになにか口にいれるように準備しつつ通うように。ぜんぜんちがう。
郊外住まいのままさらに何年かのちを想像すると、病院通いがふえるかもしれない。車の運転ができるうちはまだいいが、そののちは…。
経済的には
いろいろとじぶんの身のふりかたを具体的に方向づけしていこう。まずは、しごとをリタイヤしたのちを当面の課題としようと思う。
なにはともあれ必要なのはお金。しごとからの収入はなくなる。たよるのは年金やわずかな資金の運用差益だけ。はたしてどれほどのくらしができようか。すでにそれにそなえた支出のめどをたてつつある。いまも支出は極力抑えて、リタイヤ後のギャップを生じないように準備済み。
賃貸のアパートぐらしを街ではじめて病院などに通う負担をへらすか、このまま郊外でくらすか。
健康への不安をもちあわせているので、ある程度このままのくらしをこの中山間地でつづけようと思えば、若干だが健康への負担は重くなるのを覚悟しないとならない。
おわりに
もうすこしだけかんがえる時間はあるようだ。そのあいだに街とここを行き来してみて両方のくらしをより具体的なものとしてくらべてみよう。さいわいにも街なかはわかいときにくらしたことのあるところ。
あらたな見ず知らずの都会へ移り住むより、見知った街、滞在した経験の豊富なところのほうがすこしはましかもしれない。
タイトル写真は、きのうわが家のほとりの小川で農作業するごくわかいいのしし。
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