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自然科学の事象は精緻で超然としたもののはず。それを恣意的にあつかうかどうかはヒト次第
(2024.12.23加筆)
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はじめに
なにげなくつづけていた新聞。科学記事になにかしらの満足感を得にくくなりとるのをやめた。あくまでも私見だがその理由は記事にはっきりしない引用やかんたんなミスがめだち、ほかの通信社に依存したのか否か、独自に裏をとる作業を十分にやったのか伝わってこなくなったから。
せめて新聞をつうじて、しっかりしていないわたしの姿勢を養いたいのだが、どうもそうはいかなくなったらしい。「ほかの分野もそうかもしれない」そうおもいはじめるときりがない。
もちろん1分1秒をあらそう喧騒のなかでの記事作成はわかる。情報をだいじにあつかう姿勢をしっかりもちつづけたうえでの作業であってほしい、その願いが届かないと感じなくなったから。
きょうはそんな話。
もとから
かなり以前からその新聞の科学の記事にはすこし距離を置いていた。数字が出てくるとどうもなかなか合わない。その記事の一次情報の論文などの数値とちがう。単位やけた数などをよくまちがえてのちに訂正がはいる。
まちがって世にひろがるのは避けたい。なによりその最初の情報を発したヒトにとりそれはいちばんつらい。「訂正の必要あり」と新聞社に連絡する。返答はいつもなく、訂正やおわびなどをもとの記事のあった場所や特定の位置に表示されるのみ。
まったくクレーマーのつもりはないし、ただただその事象をみつけたヒトとそのみつかった自然科学の事象にすまないと思うきもちからの行動。
ありがちなものだが
ニンゲンだからだれにもある見落としやありがちなこととやりすごしたいし、もちろん自分もそんなミスやまちがいの経験がある。それでもこうたびたびだと気になる。何度かチェックする、ほかのスタッフの目をとおす、監修者とやりとりするなどをはたしてどの程度やっているのだろう。情報をそんなふうにあつかうのか。それが垣間見えてしまう。
その分野の専門家でなくても(おそらく高校生でも)わかるぐらいのありえない数値や単位など。ああ間違いかと気づく。なにもあげ足とりをするつもりは毛頭ない。だがため息が出る。こどもたちも目にするだろうし、やはり連絡しよう、あらためてもらおうとなる。しかし世間一般ではそうはいかない。
「◯◯新聞によると」
いったん報道されてしまうと、記事はひとり歩きしがち。〇〇新聞の記事にあったようにと、いともかんたんに引用されるもの。それ以来、講義などで新聞の切り抜きや引用をする際にはもとの一次情報をたどれる場合は、確認したうえで使うように。
むしろそうやってみつかった一次情報を使いがちに。出どころにたどりつけないときにはその情報は使わないとこころがけた。
やめることに
とっていた新聞を、「知らせてくれてありがとう」の道具としてのちに自分でしらべなおす作業にしか使っていない自分に気づいた。なかばうのみにしないで自分でたどるように行動できるようにしてくれたとむしろ感謝すべき存在なのかも。
だがひと月にこんなに払う必然性のあるものだろうかとうたがいはじめるときりがない。ほかの分野とておなじかもしれない。情報を売りものにして対価を得ているのに…。
もはやそこにある情報は
そうなると懐疑的な目で見るように変わってしまった。もはや毎朝の情報の精度のいいのは一部の折込広告のほう。もちろんあやしげな勧誘などの広告はべつ。広告掲載の近くのスーパーのだいこんの値段にまちがいはなく、店に出向いてもその値段にちがいない。ほぼ信用できる。するとますます本体の科学記事の内容が…。
40年ほどみずから新聞の情報にお金を費やした。7ケタの金額。それをあっさり電話1本で手放したわけだから喪失感があるかなと一瞬思ったがあっけないもの。そんなものはとくべつになかった。むしろ自由になれた感覚。
おわりに
むしろその新聞社をつうじたものの見かたに偏ってしまっているかもしれないと思った。なるべく客観的に読もうとしてもそこはニンゲン。複数紙とるのが理想なのはわかる。それなりになじみの記者には愛着が湧くし、思いれがある。そこに目をつぶりなるべく記事だけに集中しようとしても、それなりに「色」がついてしまう。
「科学に弱い」の評価。あくまでも私感であり、逆にわたしという身勝手なフィルターをとおした評価にすぎないかもしれない。それでも40年のつきあいのある新聞だったのに。あっけないものだなとふたたび感慨が沸いてくる。
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