パンの耳やさかなのあらを売っているとすかさず目が行き手をのばしておちつく
はじめに
はしっこがすき。こればかりはおさないころより変わりない。写真にうつるのでもたべものでも。なぜかおちつくし、満足できる。
きょうはそんな話。
鮮魚店で
鮮度のいいさかなを売っている店にいく。さしみのおつくりなどはほぼ目がいかない。手が出ないから。たいてい視線の行きつくさきは3枚や5枚におろしたのこり。そう、「あら」。タイでもブリでもおなじ。さしみのはしの切り身がどれだけサービスされているかよりも、どれだけ骨が充実しているかに視線がそそがれる。
その理由はだしをとるから。さかなの煮つけは身で部分でつくるよりも、あらでつくるほうがだんぜんおいしい。ほねやそのまわりからだしがでる。ネギ、はくさい、にんじん、しょうがなどといっしょに煮炊き。
酒、みりん、砂糖を同量にしょうゆを半量。火がとおるとよいかおりがしてくる。あらから出るだしとやさいの風味が渾然一体となる。くたくたになったやさいとともにほねのあいだをしゃぶりながらともにあじわう。これにまさるおかずはない。
パン屋で
これを売っている店が近所になかなかない。そこでわが家からはなれた店に寄れたときに入手する。主業の学習サポートの教室を請われて、30キロほどはなれた街でも運営していた。その道すがら目的のパン屋がある。地域でふるくから営まれているそぼくなあじわいのパン。
この店にわたしが寄りつく理由がパンの耳。ふくろに2斤ほどの厚みで「これでもか」というほどつみかさなりはいっている。しかもパンを焼いたとき切り落とす両はしばかり。この部分をふつうの食パンよりもこのむわたしは放っておかない。
サンドイッチを大量につくるようで、このときに出るぱんのほそい耳は揚げて砂糖をまぶした製品として売っている。こちらはそこそこのおねだん。こちらには目をむけずに、パンの耳二斤入りをめざす。よく売れているらしい。タイミングさえ合えばこれだけで20袋ぐらいズラリと店の低めの台に山積みされている。
2回に1回ぐらいの頻度で買えるぐらい。ほぼ1日中ひっきりなしに客がおとずれる。ここのレジの方はたいへんいそがしそう。そのため常連のお客さんたちは値札の見えるようにレジ台にパンのふくろをていねいにならべてみえやすくしている。ひろい駐車場はいつも入れるのに苦労するほどのにぎわい。長年にわたって親しまれている。
はしっこぐらし
おみやげや贈答でいただくカステラ。本体のきれいに切られたカステラよりもそれをのっけていた紙についたこげた部分がしっとりしていておいしい。ザラメがまぶしてあるものはたまにここに集中して存在している。
こどものころからこれをこのんで本体を弟にやり、この部分と交換したことも。いまだに端切れ品や訳あり品をこのむ性質はなんら変わらない。「すみっこぐらし」ではなく「はしっこぐらし」。
大きさがそろっていないとか、はしっこ、きれいに焼けていないとか。さまざまあるほうがおいしくかんじるし、どこかにくめない。そういえばヒトとひとつのものをどちらかしかないというときはほぼゆずってきた。
それでまわりがおさまるし、コトをあらだてずに済む。万事がまるくおさまる。なにもがまんをしているわけでない。おだやかなままをたもてる。それがなにより。
おわりに
さかなのあらではなく、切り身のときでもかならずわたしはしっぽ近くをとる。学生時代お世話になったまかないつきの下宿でもそうだった。下宿のおばさんはそんなわたしの好みをこころえていて、いつもそれをあてがっていただいた。
そんななつかしいようすをおもいうかべながらきょうもさかなを料理する。
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山藤章二さんのイラスト。
お世話になった小泉武夫先生。