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ミリオンセラー、100万回再生などがしめすケタちがいの数字とは


はじめに

 こうして日々noteを記しているとつくづく思う。ひとつの記事や作品について読者や視聴者を100万という数で集めること。なみたいていの行動でできることではない。ましてやその対象物に対価をはらい手に入れたうえならばなおさら。それだけとてつもなく大きな数字に思える。

そんな数字をぬきにしてnoteについては肩のちからをぬいてわりと自由に記す。まったくもってそれが本音。もちろんより多くの方々へ読んでもらえればなおいいけれど。

結果として大きな数字はそれだけ世間にたいして大きな影響力をしめした結果だし、普遍的ななにかをふくんでいるのかも。

きょうはそんな話。

世のなかにはなたれて

 毎日さまざまな媒体をつうじて世のなかに生みだされるもの。たとえば書物、音楽、そして動画など。このnoteの記事もそう。ひとつひとつの記事はその断片にすぎないかもしれないが、やはりかずかぎりなく生み出される。それらにひとりのニンゲンが網羅的に接することはまず不可能。大部分は目にすることなく、そのままほぼ永遠に出会えない。

そんななか、あらたな情報へ道案内をしてもらえるチャンスがある。より満足できるものに出会えるのはこうした案内役の方々のおかげかもしれない。「これ、どう?」とか「きっとおもしろいよ。」とか紹介される。じゃあ、観てみるかな、読んでみようかと食指がのびて作品に接する機会となる。

100万という数

 それだけに、たとえば100万人ものヒトが「たしかにこれはいい」とか「これ好きなんだよなあ。」となる機会なんてめったにない。100万もの支持を得るむずかしさ。多様な価値観があるなかではなみたいていのことではない。しかもその価値へ対価をはらうなんて、そのまた何倍もむずかしい。

ミリオンセラーとか100万再生というたいへん大きな数ならばなおさら。そこにはさまざまな要素がもとめられそう。

もちろん広告やマスコミの力、インフルエンサーの影響も無視できないのはたしか。それなりに世間ではヒトの目や評価を気にする。あのヒトがいいというならきっと…とかおもいつつ接するのかもしれないし、手にとる行動に移れるのかも。

ある経験から

 あくまでもわたくしごと。以前、ブログでのべにすぎないが100万ページビューというのを経験。その数を電卓のうえに表示させた。ゼロがずらりとならぶ。これだけつみかさなると感慨深い。このクニのほぼ100人にひとりの割合。おどろきでもある。毎日1000人ずつでも3年ちかくかかる数字。

それだけに、そのブログを運営して世にはなったことへの責任のようなものが不安とともにわいてきた。書いていることにまちがいないか一言一句、辞書をひいたりしっかりと原本をひらいたりして裏をとるなどねんいりにたしかめるようになった。それだけひとつの記事をつくるのに手間と時間がかかりはじめた。

べつの側からみると

 情報の海からほしいものをさがし出す行為そのものがとりいれる情報の幅をせまく、かぎられたジャンルや分野にしてしまいがち。「検索」でいやおうなくそうなってしまう。それをサポートするブラウザなどさまざまあるが、よりふさわしいうってつけの方法はないか。欲深いことだが。

情報をシャワーをあびるようにとりいれるなんてなかなかできることではない。あふれるなかからおもしろいものや興味深いものをみつけるには…。

けっきょくのところ日ごろからサーチしているわが身にちかい狩人や探索者のような方々(AIになるのかな)に任せることになるのかも。

おわりに

 なるべくひろくそして柔軟に脳をよろこばせ満足させることができたら。それはジャンルを問わない気がする。情報の森のなかを自由にただよい、ほしいだけ手にとりあじわうことができるならば。ネットを検索しながらきょうもそんなことを思う。

それだけに情報があふれる時代にあって、大きな数の支持をあつめることのむずかしさをあらためてすごいことだなあと思う。


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