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ある植物の組織の顕微鏡像をのぞき見て息をのむほどうつくしいと感じた


はじめに

 しごとがら顕微鏡をつかってさまざまな組織を拡大して観察する。同時にこれまで学術論文や専門書でもほかの研究者たちのよりすぐりの像をながめてきた。

たいていは光学像や電子顕微鏡像にすぎないが、それでも想像し得ないほどの試料に出会う場面に遭遇する。ひとりで見るのにはもったいなく、だれでもいいから共有したい、それほどため息の出るほどのものに遭遇する。

きょうはそんな話。

あまりにも多様

 顕微鏡下の世界。それはわたしたちがふだん目にする風景とはおおかた予想もつかいない。ふだんの生活のなかで接する公園の木々、空や月はいずれも見慣れたもの。よほど紅葉の時期とか夕焼け、お月見などとくべつな時季やなにかにふと目にしてあざやかだなと見上げるぐらい。

日常とはそばにありながら意識の外にあるか、よほど注意をはらわねばそれほどの感慨はたいして湧かないかも。

顕微鏡下の世界はおどろきに満ちている。ふだんあまりこの道具を使わない部類かもしれないが、それでも一度見はじめるとあっというまに3ケタほどの画像が集積する。もちろんその何倍もながめて、そのなかからふさわしいものを選んで撮影するのだが。

予想だにしない世界

 なかには観察するまえにどんなようすなのか皆目見当のつかいないまま試料にするものがある。これもそのひとつだった。目的のこと、ここでは試料の染色がうまくできたかとか、予想した対象がそこにあるのかどうかなど意識しながら観察。もちろんそれにはそんな処理を施していない、素のままの試料を対照として準備する。

ある日、そんな対照物にしようとなにげなく組織の一部を切り出し、切片をつくり目的にふさわしいかどうか確認しようと顕微鏡の接眼部に目をあてた。

思わず声が

 小さく「あっ」と声が出るほどの世界がそこにはひろがっていた。ごく微細な対象。わたしは近眼なうえに乱視もある。なかなかうまいぐあいに見ることが叶わない。そんななか視野の明るさ、対象物の大きさなどいずれもうまいぐあいに迫力をともないみごとな規則正しいらせん構造を描くものが視野のなかにひろがった。

もちろん焦点のあう部分はごくあさい。それにもかかわらず、とても天然でこんなきれいな形状のらせんを構築するなんてとうてい困難だろうとおもわれるほどのみごとな構造が出現した。

このときの畏怖の印象がいまだにのこっている。あまりにみごとすぎる。造形物として自然でこういうものがつくれること自体、ほんとうだろうかとあたまのなかに一瞬だけ疑問が湧いた。なにか微細な人工物が混じったのかと疑ってかかったほど。

おわりに

 そんな思いもしない試料に出会う経験は何百にひとつもない。念をいれて調製したつもりの試料でも観察するとなんだこりゃとすぐにボツになってしまう試料が多いもの。視野をくまなく見ても目的のものがみつからないほうが多いし、学術論文に投稿するだけの有無を言わさないほどの価値のあるものはなかなか出会えるわけではない。

試料となる対象物は任意でおなじ方法でおなじ試料ならば、どこをつかってもその結果があらわれていないと科学的に客観的だというふうに判断しない。ほかの方による追試とてそう。これじゃあねえ~という雑な試料を論文に載せるわけにはいかない。それなりに手本となるようなふさわしいものをよりすぐりたい。そんなとおりいっぺんの作法がある。

なにもそこに意図的なものが加わるわけではない。観察や撮影の条件などが常識的であり、だれもが納得できる観察結果がもとめられたうえでのこと。そこに合致する顕微鏡像を得るのはそれなりに熟練を要するし、たやすいようでそうともいえない。

いずれにしても世界ではじめてのものばかりの学術論文の図になるわけだから、そこに掲載されるべき顕微鏡像は当然それにふさわしいものになる。それがうつくしいものならばなおさらいいのだが…。


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