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だれもが知っていることとそれが正しいかどうかはかならずしも結びつかない
(2024.12.03訂正あり)
はじめに
はたしてどのくらい世間一般の常識があるのか。これは世間とのずれをはかるうえでもっともてっとりばやいかも。とはいえ何をもって常識とするかどうかはむずかしい。たとえば「テレビに登場する人物をどのくらい知っているか」とかはもはや通用しないはず。なぜならそれほど見られていないだろうから。それならネット上では?どちらも情報媒体としては単独では周知するうえでなり得てなさそう。
この時代、なにをもってはかればよいのだろう。
きょうはそんな話。
報道すら
このところの選挙の予測や世界の先行きをつかむうえでどんな報道を把握すればよいのかわからなくなった。実際に起こった結果からみて予測の段階で、この世で起こりつつあることを把握するのがそれだけ難しくなったということだろうか。その程度のものとして扱ったほうがいいのだろうか。
なじんでいるはずの従来の報道に接してとまどうようになった。というのも十分に統計的な母数(母集団の選択がどうかはべつとして)で調査したにもかかわらず、ふたをあけてみると結果とかなりくい違いをみせたり。調査後に急激に変わることがあるのだろうか。
ご存知のとおりネット上はもはや混沌の世界。記されていることの引用もとの一次情報(出どころ)にたどりつけない、たどりにくい記事がごくふつうにある。ふつうに目につきやすい場所に表示されるために世をまどわすのは十分。
見出しに注意
よく知られなじみの公的な報道でも見出しと記事の内容が一致しないものもある。見出しの字数がかぎられているのはわかるが誤解を与えては意味がない。読みはじめてしばらくしてようやくそれに気づき読むのを中断してのちは読まない。すでにその時点で記事を読むだけの価値を感じなくなってしまう。
プロの記者の記述したはずのひとつの記事中に誤字や語句の使い方がおかしいところがくりかえしあらわれると、その報道機関の記事づくりの体制を疑問に思ってしまう。いくらしめきりがせまっているとはいえ、一度でも見直し校正することがおざなりでは内容まであやしいのではと感じてしまう。
自分でつかむしか
結局のところ、たしかなことは自ら足をつかい労力を費やして位置事情右方をしっかり集めるぐらいしかなさそう。ということは結果として身近でさまつなことをようやく知れるぐらいにかぎられる。もしくはみずから科学的な方法でたしかめたり、観察したりを経てようやくごくちいさなことがようやくわかるぐらい。
世のなかには「ハゲタカジャーナル」と称する妖しげな運営もしくは内容の学術論文の体裁のものすらある。もはや学術雑誌の論文やレビューすら、精査して吟味して出どころを選ばないととんでもない「ガサネタ」をつかまされることになる。これについては引用をふくめてあくまでも自己責任。
おわりに(訂正:もとの情報をたどる)
こんなご時世だからこそしっかりしないとあっさりだまされたり信じこんだりしかねない。1次情報をきちんと明記している分、すこしだけマシと思わねば。
かならず1次情報をたどりじぶんの目で確かめる。過去からの積み重ねで多方面で追試がくりかえされ、もはや何度おこなってもそうなるというものだけを基礎において考えるしかない。つまり初出のものには細心の注意が必要になる。用心のためにしばらくは保留の扱い。
おわりに
わたし自身はいわゆる常識はもちあわせていない。からっぽ。その点は保証できる。したがってここに記すことすらすべてあやしいと疑いのまなざしでお読みいただきたい。
教科書ですら改定のたびになかみはさまがわりする。なかには常識とされていたものが怪しくなり、とりあげられなくなったものも。たびたび自分のあたまのなかを更新していかねばその誤りのまま「常識」として残り、いざ活用しようとするときに妨げになり、まわりを混乱させかねない。
一言一句が口から出ていきどこかにのこり、文字となりネット上にながれて刻まれるご時世。一度出ていくと訂正は容易でないだけに細心の注意が必要。
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