見出し画像

ふりかえり学習:はやり病で知られたスパイクタンパク質の正体を富岳による演算でさぐる手法とは


はじめに

 はやり病のワクチンや変異株の影響で「スパイクタンパク質」、「変異株」など身近でない用語が世間に広がりつつあります。これらは生化学の研究分野の仕事にたずさわるわたしの使ってきた用語のなかではメジャーな部類ではありません。

ところがここに至りワクチンの接種がはじまり、標的となるウイルスをかたちづくる分子の特徴や挙動が注目されました。世界の各所で研究がすすめられ、スーパーコンピュータを使った分子動力学シュミレーションによりスパイクタンパク質の挙動を知ろうとする研究が並行しておこなわれました。

わかりにくい用語について解説なしの報道が散見されます。ようやく事態を概観しうる状況になりつつとわたしは思います。

そこでスパイクタンパク質の分子の特徴に関して、拙速に走らず慎重な上に慎重に確実に確認しうる昨年までのニュース記事を押さえつつ、なるべく高校生から大学生レベルでわかりやすく整理します。

本記事内容に関しましては、あくまでも自己責任でのご使用をよろしくお願いいたします。より正確・精密なご理解のためには下記の引用文献などをご覧ください。

「富岳」でさぐる新型コロナウイルス表面の分子


 さっそくですが、富岳*などをもちいた理化学研究所の研究成果を紹介する文の一部を引用()します。

スーパーコンピュータ「富岳」[1]と「Oakforest-PACS」[2]を用いて新型コロナウイルスSARS-CoV-2の表面に存在する「スパイクタンパク質」のシミュレーションを行い、ウイルスがヒト細胞に侵入する際に起こるスパイクタンパク質の構造変化において、スパイクタンパク質表面を修飾している糖鎖[3]が重要な役割を果たしていることを発見しました。

2021年2月18日
理化学研究所
新型コロナウイルス感染の分子機構を解明
-医薬品の分子設計に貢献する「富岳」による新しい知見-

とあります。まずはこの文章の内容の理解に向けて用語を説明します。

まず文中の「SARS-CoV-2」とは新型コロナウイルスのウイルス名をあらわします。

この名は、国際ウイルス分類委員会(International Committee on Taxonomy of Viruses:ICTV)において、重症急性呼吸器症候群(SARS: severe acute respiratory syndrome) をおこすウイルス(SARS-CoV)の姉妹種として「SARS-CoV-2」と正式に命名されています。 ここで「CoV」はcorona virus(コロナウイルス)の略です。

ウイルスの表面

 コロナウイルスのコロナ(corona)はラテン語で、光輪や王冠を意味します。どうしても写真では平面に見えますが、実際には球状のウイルスの表面にスパイクと呼ばれる突起が四方八方に突き出ています。そのため写真に撮るとウイルスが光輪をもつように見えます。

この突起は宿主の細胞に付着する役割をもちます。ここは外側に突き出ているので、宿主側(今回の場合にはヒト)の抗体が異物のウイルスを認識する場所の一部でもあります。

このスパイクはタンパク質でできていて、スパイクタンパク質と呼ばれます。一般的なコロナウイルスは感冒をひきおこす、ごくありふれたウイルスとして知られていました。

一方、2002年にSARSを引き起こしたウイルス(SARS-coV)も従来のコロナウイルスと類縁関係(2)にあります。感冒をひきおこす従来のコロナウイルスと比較して、高熱、頭痛、咳、呼吸困難、高頻度で肺炎などがみられるために一時期注意が払われました。そして今回の SARS-CoV-2ウイルスです。

今回(初期)のワクチンとは

 2021年現在で接種がおこなわれているワクチンのいくつかは、このスパイクタンパク質の構造の一部をもとにデザインされました。mRNAワクチンという新たな手法によるものです。宿主(今回の場合はヒト)に取り込まれたのちにスパイクタンパク質(一部)が作られます。

つくられたスパイクタンパク質に対する抗体が作られたり、T細胞(リンパ球の一種)を介して免疫の誘導がおこったりすることで、わたしたちは新型コロナウイルスに対する免疫を獲得できます。くわしくはこちらの忽那賢志氏の記事をご覧ください()。


スパイクタンパク質は糖タンパク質

  SARS-CoV-2のスパイクタンパク質は翻訳後修飾*により糖鎖が付加されている糖タンパク質であることが知られています。ここで最初の理化学研究所の研究報告へもどります。

一般的に糖鎖*により修飾されているとタンパク質分子の表面を覆い、「ふらつく構造」になりやすいために、その部分は抗体に認識されにくくなってしまいます。

糖鎖はタンパク質の立体構造を解くうえで障害になりやすい部位でもあります。糖鎖がある周辺部分の構造がとくに水溶液中では「ふらついて」しまい、精密に解析できないことがあるからです。

ウイルスが宿主の細胞と結びつく分子の挙動に関してはさらに細かな解析が進みつつある段階です。

そこへ向かいましょう。

富岳などによる分子シュミレーション

 ウイルス表面にあるスパイクタンパク質の受容体結合ドメイン*(RBD, receptor binding domain)を介して、宿主の標的細胞の結合部位であるアンジオテンシン変換酵素Ⅱ(ACE2, Angiotensin-Converting Enzyme 2)受容体(ACE受容体)*と結合することが知られています。

わかりやすいものがなかったので、わたしが図をつくりました。

スパイクタンパク質のRBDと受容体との結合のモデル図(著者作成)

ウイルスの表面にあるRBDで、ヒトの標的となる細胞表面のこの入り口(ACE受容体)を認識できて、ここをつかって侵入してくるというわけです。

この結合の安定化にスパイクタンパク質糖鎖が補助的に寄与しているらしいことが理化学研究所の研究者らによる富岳などを用いた分子シュミレーションの結果から明らかになりました()。


とくに、N165、N234、N343残基につくアスパラギン結合型の糖鎖の配向が、RBDの構造安定化に重要な役割を果たしていると結んでいます 。たとえばN165とはアミノ末端から165番目のアスパラギン残基をあらわし、この側鎖に糖鎖が結合しています。

よりくわしい機構などは上記の引用元でご覧いただけます。

なお、N165などの表記法についてはこの記事を参考にされてください。


おわりに

 糖鎖はふつうタンパク質にとって安定化に寄与したり、細胞どうしの認識にかかわったりするはたらきのあることがさまざまな研究で知られるようになってきました。

糖鎖に関しては翻訳後修飾で形成されることから、遺伝子DNAによる解析では詳細にはあきらかにできず、糖鎖を構成する単糖の組成や配列、すなわち化学構造をあきらかにしようとすると迅速な解析がなかなか難しいです。これから発展が望まれる分野といえそうです。

追記

 かえってご理解をさまたげるかもしれない用語をたくさんつかってしまいました。そこが反省点です。正確にご理解いただくには適切な用語をあてないといけない場合があります。そのあたりのジレンマをのりこえ機会がありましたら、よりやさしく昨今の状況のご理解のたすけになる文章を書こうとかんがえています。

用語説明

*富岳:日本のスーパーコンピュータ。民間企業、大学、研究機関などでの活用が始まりつつある。
*翻訳後修飾:mRNAからできたタンパク質の特定の部位に糖鎖やアセチル化など二次的にタンパク質分子の特定部位に修飾がおこなわれることをいう。
*糖鎖:mRNAの翻訳後にタンパク質の特定のアミノ酸残基の側鎖を介して糖が結合し連なりつつかたちづくられる。細胞表面に位置するものは細胞に特異的な情報伝達や細胞間コミュニケーションなどの機能と役割を果たすことが知られつつある。
*受容体 レセプターともいい、細胞の外からくる分子を選択的に受け入れるタンパク質で、細胞の内外に存在する。
*受容体結合ドメイン(RBD):さまざまな分子のなかから特定の分子とだけ相互作用する(あるいは結合する)タンパク質分子内の特定部分(ドメイン)を示す。この記事ではスパイクタンパク質の突端に位置して、アンジオテンシン変換酵素Ⅱ(ACE2)レセプターと直接結合する部分を称する。

引用文献など


(1)新型コロナウイルス感染の分子機構を解明-医薬品の分子設計に貢献する「富岳」による新しい知見-理化学研究所 2021.2.18 

(2)「ブラック微生物学」 第3版 丸善 p.627 (2014).

(3)高齢者への接種開始 新型コロナワクチンについて分かってきたこと 忽那賢志 2021.4.11

関連する記事


いいなと思ったら応援しよう!