「わかりやすい」といわれることについての自己分析をやってみた
はじめに
機会あるごとに主宰する学習サポートに関して、保護者の方々を経由してどんなふうに受けとめられているのかおたずねした。すると「わかりやすい」という返答をよくいただく。お世辞をいただいているのはじゅうじゅう承知の上。自画自賛になってしまうと元も子もないが、異口同音にそう返答いただくのはなぜだろうと自問自答してみる。
きょうはそんな話。
気づいていないかも
はやいもので学習サポートで何気なく教えつづけてかれこれ20年。そのあいだにカウントしたわけではないが地域の児童・生徒たちの学習を支援してきた。多くは受験期をのりこえるため、そしてさまざまな理由から学校でついていけなくなった学習をなんとかしたいとやってくる。
たいていはわからないところを抱え、親子ともども困り顔でかけつけてこられる。そしてしばらくサポートしてみて「どんなご様子ですか。」とこちらから保護者の方にたずねる。
つづけているということはこちらへの要望や期待が持続していると判断するわけだが、それらに多少なりともこたえられているのかいないのか、なぜ学校や家庭では築けずにいたのかすこしでもまなびの現状と改善につながるみちすじに気づいていただきたく、話し合いをもつ。
できれば自分で
多くの児童・生徒たちはできればじぶんで学びのかたちを作っていくのが望ましい。いちばん自分自身にあう勉強のやりかたをみつけてほしい。ここではその助けを行なうにすぎない。
それこそ千差万別で万能のひとつの方法などあるわけではない。多少は共通の部分はあるとしても、そのまわりにはこうやったほうがとか、ここに時間をかけたいとか思うはずだし、場合によってはじぶんで調べたい・考えてみたいという生徒もいるだろう。
みんなちがうのでそれぞれに合うやり方をなるべく早く見つけられる手助けをやりたい。
わかりやすいとは
さて本題にもどろう。わたしのサポートに対していつも多くいただく反応として「わかりやすい」とよく言われる。なにも自慢げにいうつもりは毛頭ない。
あくまでも客観的に考えてみる。どんなふうにわかりやすいのだろう。本来むずかしいことをわかりやすく説明できるならばそれは理想的。だがそういった意味で返答をいただいているとは思えない。なにしろわたしは基本を中心にしか教えていない。
さらに考える
発展的な内容や応用についてはむしろ触れる機会はごく少ない。これらについてはむしろ手取り足取りこちらで介入するよりももはやその段階までたどり着けたのならば、そこから先は生徒自身が自主的に考えつつ取り組めばよいこと。
基礎基本とともに思考力を伸ばすにはむしろ自分なりでよいのでとにもかくにも考える機会をふやすこと。それがたいせつと思う。そこまで来るとむしろやるやらないもふくめてあとはまかせることにしている。
わかりやすさの根底に
おそらくわたしのわかりやすさとは単に、「本来かんたんなはずの基本についておちいりやすいわからなくなりやすいところをていねいにあつかう」ということにつきると思う。なあんだと思われたかもしれない。そのとおり。わたしはそれ以上のことはしていない。
それを「わかりやすい」と言っていただけている。それ以外にとくべつなことをやろうとは思わないしできない。なにしろ自らのあたまのできがよいわけでもすぐれているわけでもないことは早々に気づいている。
世のなかのほとんどの方々はわたしなどよりもはるかに頭がきれるし、世渡りもうまいなと四方を見わたしつつ思う。その逆のわたしにはこのやり方しかできないし、できることをやっているにすぎない。
おわりに
プラスとしての評価として受け取ろうと思う。なにも特別なことはしていないのに。あくまでも基本に忠実に朴訥にそれをくりかえす。それはほぼ生涯にわたって忘れないし、いつでもじぶんのいちばん根底から自信を持ってひきだせる確固としたものになりやすい。ただそれだけ。
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