未来あるアスリートを守りたい‼️
noteの書き出しの順番が違うだろう‼️とお叱りをいただきそうですが、、、
私『中野 仁(なかのひとし)』の自己紹介と生い立ち、トレーナーを目指したきっかけ、トレーナーとしての信念を書かせていただきます。
駄文、乱文ではありますが、お伝えしたい想いが少しでも伝わればと思います。
最後までお付き合いの程、よろしくお願い致します。
自己紹介
名前:中野 仁 (なかのひとし)
出身:兵庫県相生市
年齢:1978年10月生 午年 ※駄馬と言われる年周り 45歳(2023年現在)
特技:バレーボール、どこででも寝れる
趣味:情報収集、人間観察
特徴①:とっつきにくいが打ち解ければ、人のために力を尽くす。
特徴②:仕事は全力で納得するまで行い尽くす。
特徴③:人の好き嫌いが激しくフィルターをかけてしまう(…アカンけど)
出身地ついて・・・
『兵庫県相生市』ってどこにあるかご存知でしょうか?
兵庫県は東西南北に大きな県ですので直ぐにピンっと来た人は中々の地理マニアです。
皆さんがよくご存知なのは、
・オシャレな港街『神戸市』
・世界遺産「姫路城」のある『姫路市』
・甲子園球場のある『西宮市』
・揖保乃糸、ヒガシマル醤油の『たつの市』
など、ではないでしょうか‼️
では、相生市はどちらにあるかと言いますと。
兵庫県の西の端の方、瀬戸内海に面し、西は『赤穂市』東は『たつの市』の挟まれた東西8kmのちっぽけな静かな港街
その昔、戦前から高度成長期にかけては造船産業が盛んで、新幹線の駅もあり大いに賑わいをみせていたようです。
今は播磨灘産『牡蠣🦪』の養殖が街の産業の支えとなっている
相生市のホームページ
『生い立ち』、、、そしてバレーとの出会い
中野家の次男(年子)として誕生し、赤ちゃん時代はひたすら寝る子
※母によると、多少の時間なら放置して近所に買い物行っても起きなかったのだと、、、
幼少期は、近所の野山や公園でひたすら駆け回り、そこらじゅう傷の絶えないやんちゃな男児
小学3年生より母が入っていたママさんバレーチームのコーチや周囲の幼馴染影響により、『相生JVC』というチームでバレーボールを始める。
小さな街だけに男子が入れるチームは、この1チームのみ
女子は各小学校にあった、、、
何故か、チームは兵庫県内(男子)で、1、2を争うまあまあ強いチーム
練習は昭和の指導なので中々厳しかったけど、楽しさの方が勝っていたことで、バレー沼人生が始まった。
トレーナーを目指すきっかけ
小学、中学と学年が上がっていく中で、バレーのレベルもあがり、やはり怪我も発生し、病院や整骨院・針治療院にお世話になることが増えてきた。
※鍼治療に初めて行ったのは、試合直前に中学1年の頃
まだ中学生の頃は、選手ではなく教員となり指導者になる夢を描いてた。
本格的に『トレーナー』という存在を知ったのは高校生の時
色々故障も多かったこともあり自宅から自転車で10分位にある某整形外科によく通っていた。
この病院がプロ野球のチームドクターをしている関係で、その当時から『スポーツ外来』という診察日があり、選手がよく診察に来てました。
リハビリスタッフ(理学療法士トレーナー)が常駐し、よく怒られてましたね😅
この頃はインターネットも無かった時代『トレーナー』というものがどんな風に仕事をし、どういう資格があるのか調べるのが必死だった
いつも行っていた針治療院の先生の息子さんが実業団陸上のトレーナー(鍼灸師)をされてたり、病院のスタッフがトレーナーだったりと色々話を聞いていく中で、
だんだんと指導者から『トレーナー』になりたいと考えるようになっていった。
そして、、、
今も尚、業界で活躍されているある方のバレー雑誌の記事を読んで『バレーボールのトレーナー』になるんだ‼️と決めた高2の夏
経歴を調べ、アメリカに行けば『トレーナー』になれるんだ‼️と決めた矢先
バレーしかやってこなかった人間には大きく途轍もなく立ちはばかる壁、、、
そんな『学力ないやん』、、、しかも英語一番成績悪い(欠点ギリギリ)
3年次は医療系進学コース(ほぼ看護受験)を選択し、何とか1年あればと思うも
そう甘く簡単な問題では無かった
仕方なく、、、スポーツインストラクター系専門学校にバレーボール推薦に近い形で『トレーナーになる』という夢は諦めずに進学
憧れのトレーナー業
専門学校に進学し、先生の繋がりで、某社会人アメリカンフットボールチームへトレーナー実習に行くことに
アメフトやラグビーのようなコンタクトスポーツ、いわゆる「コリジョンスポーツ」では今まで想像していた以上に、トレーナーの働きが分業(フィジカル、メディカル)かつ仕事量の多さ、スピーディさ、安全性へ対応、ここでもトレーナーというものに別の衝撃を受けたことを記憶している。
※アメフトは特に分業制が顕著
チームをみていたトレーナーの会社にそのまま就職もさせてもらい、現場研修を進めていく中で、早く一人前になって『現場を任されたい』と思うようになり、寝る間、休みを返上し必死であらゆる事を時間を費やした。
ちょうどその頃、会社の方針で新人の勉強になればとい事で近隣の高校へ派遣される事に
初めてトレーナーとして派遣されたのが『男子バレー部』
この時のチームでは、トレーナーとしての働きよりも、コーチに近い働き
この当時はまだクラブチームで現役選手でもあったこともあり、トレーニングプランを考え、一緒にトレーニングも行い、球出しやゲーム実践練習にも参加、怪我人が出ればそちらの対応
トレーナー業というところからは少し離れてた感じはしましたが、関わらせてもらって、故障も減り、離脱者を出すことなく過去最高成績は取れたのは良かったのかなと
トレーナー人生を決める運命の分岐点
次に関わらせてもらったチームが、その後のトレーナー人生の大きな分岐点となり、今に繋がったと
前年度に春高バレー(この当時は3月開催)に出場し、インターハイを逃して、新チームに切り替わり春高に向けて強化したいというで、男子チームの監督さんの紹介から大阪の公立高校唯一の全国出場校の女子チームに行くことに
今考えば、よくあの選手層で全国に行けたと今でも思う。
チームに関わらせてもらいながら、会社の方針で東北地方の医療系某専門学校の講師へ1年間派遣されることになる
ここで人生の分岐点となる『人の闇』に触れ人間不信に ※内容は伏せておきます
帰阪翌年、社員のまま鍼灸師になるために専門学校へ再び進学
この時、社員(治療院、病院派遣)、学生、トレーナー(チームとは個人契約)と
3足の草鞋生活で体力気力ともにパンパン
公立高校学校統廃合の煽りを受け2008年閉校までチームサポート
その後、監督は私立高校移籍へ
その頃、会社の方針と合わず、新規立上げの整形外科リハビリスタッフとして移籍、国家試験合格、そして結婚、2009年長女誕生
再びトレーナー業の刻が動きだす
5年後、2014年全国三冠と高校となった監督より『再びトレーナーとしてチームをサポートしてもらえないか?』と有難い嬉しいお話
妻との約束『仕事<家庭(家族)』バランスを考えると直ぐに返事はできなかった
悩みに悩んだ1ヶ月、最終的には嫁のあと押しもあり、トレーナー業の刻が再び動きだすことに
※妻は某古豪高校バレー部出身者で病院勤務なので、この業界よくわかっている
そしてトレーナーとして動きやすいようにと整形外科から鍼灸整骨院へ移籍、その後、現在のスポーツクラブ内契約トレーナーと活動の場を移す
トレーナー業をやっていなかった期間の整形外科での勤務経験、身体操作性トレの受講や鍼治療の勉強により、故障や怪我人の減少に繋がりチームの成績に反映出来たとのではないかと思います。
未来のために…
将来減りゆく未来ある育代世代を守るために、この先どう動くべきかと考え、7年サポートさせてもらったチームから離れさせてもらいました。
トレーナー在籍中は、自分が学生時代に夢みた全国の頂点の世界や、国際舞台も経験させいただき、チームでの活動では自由に動ける環境を作って頂いた監督、コーチ、保護者、学校関係者の皆さんには感謝しかありません。
【バレーボールの環境を良くしたい】
【未来あるアスリートを守りたい】
【スポーツ現場の安全を守りたい】
3つの目標を達成したいと想い、チームサポートをして来た期間で感じた『人』『環境』という人財を不足
競技者が減少していく中で、選手を守る環境の整備、それを理解した人と人とのネットワーク形成、人財育成(後進育成)が急務なのではないかと
ただ今の自分では何も出来ないので、自分自身を高めるべく、SpolinkJAPANに所属したり、日本アスリートライフサポート協会のスポーツ救護ライセンス取得やサッカーやトレイルレースなど他競技の救護現場へ出て、経験+人脈形成、知識の向上へと
25年あまりトレーナー人生を歩んで来ましたが、私自身まだまだ無知であり知識も技術も発展途上なのかなと思っております。
今まで多くの皆様のお力添えとご協力、叱咤激励がありやってこられたと思います。
私の想いが多くの方に少しでも響き、動かすことができればと願いを込めて
長文お読み頂きありがとうございました🙇♂️🙇♂️
今後とも宜しくお願い致します‼️
SpolinkJAPAN
日本アスリートライフサポート協会(JALSA)
RINGSトレーナーオンラインコミュニティ
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