2024年 春節 🐉
前回は太陽暦(グレゴリオ暦)での正月を迎えて、文章は書いても1月いっぱいアップすることができなかったというところから始まり、いつも通り、お先真っ暗な日本を勝手に憂いて筆を置いた。
そんなことで、遅れ過ぎている新年の挨拶を巻き返すべく、今回は旧正月(太陽太陰暦)についてのご挨拶をアップしたい。それでも大幅に遅れてはいるのだけれど。。
さて、今回はハナからスピリチュアルな内容へフルスイングで入っていく。
今年は旧正月を境に新たな時代に突入したことを強く感じた。
簡単にいうと、「アセンション」は起こりうることを感得し、少なくとも存在の本質が「波動と魂(ハイヤーセルフ)」であるということを改めて確信した。
そして、おそらく今後、人類社会は破壊と創造をこれまでにない速度で繰り返しながら、なんらかの極点を迎えつつあるように感じている。
その極点が、現在から窺えるパースペクティブ上にある、差別、暴力、憎悪を下敷きにした地獄絵図なのか、真の多様性を手にした、軽やかで愛に満ち溢れ最適化された新しい人類社会なのかは分からないが、いずれにせよ極点ということは陰陽どちらかに振り切った形になることは間違いないように思われる。
そして、なぜだか私はそれが後者であるように思えてならない。こんなに未来の見通しは暗いのに。
それには人類全体の「波動と魂」への気付きが必要不可欠何だが、もしかしてそんなことが可能だとでもいうのだろうか?
まぁ、不可能ではないにしろ、想像しづらいことではある。
しかし、実際には簡単で、世界中の有名人が一斉に、存在の本質が「波動と魂」であり、「世界を陽性にするよう意識するだけで、世界は陽性の波動に包まれる」ということを言い出せば、少なくとも世界の半分、日本人では9割くらいはそれを頭から信じ込んで、聞き分けの良い子供のように日々を丁寧に生き始めるだろう。
自己実現と忖度にまみれた“有名人”とやらにそんなことができるのかどうかは知らないが。
陰陽どちらにせよ人間の意識なんてそんなものなのだ。
殆どの人は勘も冴えない大人になってしまって、意識も価値観もすっかり社会の借り物なっている。そしてそれを気付けない。
ならばそれを陽性に逆利用をしてやればいいだけのことなのだ。その逆、陰性の代表格がプロパガンダでありそれをある極点の表出として観察できるのがナチスである。
どうせなら皆を陰性の「差別と暴力」に引っ張るのではなく、陽性の「愛と平和と環境保全」に引っ張った方が楽しいし嬉しい気がするのだけど、歴史を見るに、なぜだか人間は格差を好み、全体として陽の方向へ舵を切るのが苦手なようである。
ちなみに何度も書いている通り、私は宗教団体には一度も関わりがないし、スピリチュアルを毛嫌いするような時期もあったのだが、今はマインドが変わり、価値観の根幹は「目に見えないもの」に主軸を置いている。
そもそも私は表現行為を「目には見えないものの受け渡し」と言ってきたが、その「見えないもの」の比重が増したと言えば分かりやすいかもしれない。
そこからさらに遡ると、これまで私は「神は内部に抱くもの」であると確信し、自身の「勘と感覚」を疑わずに信じて生きてきたという経緯がある。
それは、心のどこかで、ずっと私に語りかけてくる、言葉というかインスピレーションというのか、漠としたイメージなのだが、確信を持たせる、そう、やはりインスピレーションとしか言い表せないものを、私はずっと近くに感じてきたからだった。
そんな最中、ちょうど2021年ごろからある人との出会いを通じて、断続的に私を目覚めさせる出来事が周囲を包み始めた。
そうこう過ごしていくうちに、今は間違いなく自分自身が「光(陽)のエネルギー」に包まれているのを確信し、それを日々強く感じている。
感度が上がり、日に日に強く速くなっていくエネルギーを感じていて、私は最近、若干、落ち着かない。
これが、本来の春というものなのか、それともやはり「アセンション」に向かうエネルギー上昇の渦によるものなのかは正直、分からない。
無論、私にはサイキック能力はないから自身の感覚の中である確信を持つことがあっても、「全体知(アカシックレコード)」的なものはまったく感知できない。
しかし、むしろ、なくて良かった、とも思うのだ。
見えない次元の実感など無い方が、作品に思いを託しきれるからだ。
「見えない、けど時々感じて、確信し、愛と感謝で胸がいっぱいになるような感覚」
それをこそ大事にしたい。
仏教的解釈でいえば、この幸福感こそが「梵」であり、つまりは光に満ち溢れた世界、宇宙そのものなのだと理解している。
その「梵」への無意識の渇望が、人を妖しい魅惑的な素材に惹きつける。ドラッグやアルコールや糖分などだ。
それらは付き合い方しだいでは、一時的な「梵」または「天」からの借り物である我々の身体をいちじるしく傷付ける。これは大変な神不孝である。
私は表現活動をしているが、それはどこまでいっても「我」の表現の域を出ない行為である。
しかし、そもそも「梵我一如」であるのだから、「我」の追求は最終的には「梵」との向き合い方に他ならない。
「梵」に包括された存在である「我」が、「梵」の全体像を知ることなどできるわけはないのだが、仏教ではそれを超絶無限大の世界として辛くも言語表現してみせた。
そんな仏教史が束になってもかなわない「梵」を、「我」たる私が直接表現することなどできるわけがないのは自明である。つまり宇宙をそのまま表現したいという方向はさっさと諦めてしまった方が良さそうだ。
しかし、「梵我一如」の原則に則って、「我」から「梵」を感じさせる、または思考的に導くことは可能かもしれない。
私は最近そんなことを考えているし、それこそが自身の役目であると感じている。
宗教でもスピリチュアルでも、何でもいいのだが、ただ本質的な話がしたいだけなのに、なぜ世間ではこうもすぐに胡散臭くなってしまうのだろうか。
そこに共通することの一つには、紙でも画像でも顕著な、媒体物のダサすぎるデザインにあると思っている。
この酷いデザインがいわゆる「胡散臭さ」を醸し出していて、一部の熱狂的な人しか惹きつけられない障壁となっているのは言うまでもないと思う。
世間というものは基本的に薄っぺらいものだが、そこにクオリティを付加することで、人々を惹きつけ、「社会」や「世論」なるものを形成している。
これは宗教やスピリチュアルにも転用できることで、せっかく中身に自信を持てる素晴らしいものであるならば、やはり才能とセンスがあるクリエイターの協力は欠かせないものであるだろう。
しかし、今のところ、そもそも我欲と上昇志向が強い「クリエイター」という人種には宗教やスピリチュアルはまったく響いていないように思われる。
多くのクリエイターが孤軍奮闘しキャリアを築いている中で、たとえ心に大切な言葉やポジティブな世界観に触れたとしても、ささくれだった心にはまやかしや気休めとして受け止められがちだ。
素直に受け入れるためには心に余裕がないと難しく、ある程度生活基盤が落ち着いた人か、そもそも宗教基盤があったりマリファナ好きくらいなものだろう。
ちなみにクリエイターにはマリファナ愛好者が多い。私は好まないが、法的に規制されているからといって吸引自体が悪いとはまったく思わない。
ただ、それでインスピレーションやスピリチュアリティーが安易に得られると勘違いしている人は、正直いって嫌いだ。
私は、暗い洞窟でただ一人、心に希望の光を失わずに己を磨き続ける、そんな魂をこそ愛したい。
そして偏見かもしれないが、宗教関係者やマリファナ吸引者で才能とセンスに恵まれた人は少ないと思っている。表現活動において自分自身こそが最も厳しい目を持っていなければならないことが必須条件である中、そうしたタイプの人は自己満足に陥りがちだからだと考えているが、まぁ、どうでもいいことではある。
さて、才気あふれる独立独歩の孤独な戦士と、一方で融通無碍ではありながらセンスと気合がイマイチなヒッピーまがいのクリエイター達の間に在るのは、どのようなクリエイターになるのだろうか。
導き出されるのは『私利私欲がなく、意識がひらけていて尚且つセンスが良いクリエイター』である。
しかし残念ながら、正直、難しいと思わざるをえない。しかもここで言っているのはアート寄りではなくデザイン寄りのクリエイターだから、なおさら難しい。
デザイン業界はカネと密接に結びついており、そもそもの志から清廉さを持つのが難しく、また業界の中でその清廉さを保つのもほぼ不可能だろうと思われる。
作物でも何でもそうだが、相応しい場においてこそそれなりのものが育つのだ。清廉な心を育みたいのなら、少なくとも業界臭が少なく、忖度とは無縁で己の価値観で生きていくことができる場所が望ましいだろう。
そんな中で私が目指したい私の役割とは、「我欲&上昇志向」と「霊性」を繋げることであると考えている。
すなわち、制作に関してはこれまで通り自身の高みを常に目指し続けていくことであるが、向かう意識の根源を「霊性」に持つということが今年の課題である。
そうした私の活動を通して、有り余る才能を世のため人のため、地球のため宇宙のために惜しみなく提供できる人材が、社会で伸び伸びと才能を開花させ発揮していけるよう、今後構築されるべき社会の礎の一部となりたいと考えている。
なぜなら、上述の『私利私欲がなく、意識がひらけていて尚且つセンスが良いクリエイター』が育まれるには、まだ十分な環境が整っていないというのが私の見立てであるからだ。
作物は環境が備わらないところでは花も咲かないし実らない。
私が加わりたいのは、まず耕すところ、最も大事な土壌改良の初手である。
おそらく、まだまだまだまだ多くの人類は気が付けないだろう。
存在の本質が「波動と魂」であり、陰陽のグラデーションの中でまずは自身を取り囲む環境を、そしてゆくゆくは世界全体を陽性に傾けていくことが、三次元人生における至上命題であるということを。
2000年代初頭あたりから、いつの間にかカネを稼げなければアートでもなくアーティストでもないという価値観が人類社会に蔓延してしまったが、私は己の人生を懸けて、今一度、表現行為と存在の本質的在り方を主題として活動していくことを、あらためて胸に誓うのだ。