関東大震災「朝鮮人虐殺」─デマ検証─

関東大震災時におけるこの出来事は、歴史の常識なのだが、ネット上を含め
「朝鮮人虐殺などなかった」「朝鮮人暴動は流言ではなく事実」「暴徒への反撃だから虐殺ではない」などと主張して、否定する者たちがいる。


はじめに

関東大震災時の朝鮮人虐殺とは?
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。昼前の時間帯と強風だったことから火災が拡大、東京や横浜を中心に10万5000人以上が亡くなった。

このとき、思いがけない災害を目の当たりにした人々の間で、「火災の拡大は朝鮮人が爆弾を投げたからだ」「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった流言飛語(デマ)が広がった。

デマを信じ込んだ人々は各地で武装し「自警団」を結成。朝鮮人や、朝鮮人と誤認された日本人、中国人を殺害した。警察も数日の間、流言を信じ、拡散に加担してしまい、戒厳令で出動した軍もまた殺害に手を染めた。

否定派の主な主張は以下の4つ。
◆主張1 当時の新聞に朝鮮人の暴動等が記事になっているから、事実だ
◆主張2 朝鮮人が虐殺されたことを示す証拠はない、証拠は証言のみ
◆主張3 暴動や放火等が事実だったから、自警団で反撃をした(正当防衛論)
◆主張4 朝鮮人が逮捕されたから、暴動は事実

否定派の主張(1)

当時の新聞に朝鮮人の暴動等が記事になっているから、事実だ。

反証:デマが横行した震災直後の新聞
震災直後、東京では通信・交通機能が崩壊。東京にあった十数社の新聞社の
うち焼け残ったのは3社のみ。この3社も、取材や新聞発行はままならない状況。

地方紙は、壊滅した東京の状況を避難民からの聞き取り取材で知ろうとして
裏もとらずに伝聞を書く記事が氾濫してしまう。
「伊豆諸島すべて沈没」「富士山爆発」「品川が津波で壊滅」「名古屋も全滅」「山本首相暗殺」等、流言をそのまま書いており、朝鮮人暴動記事も、こうした流言記事の一つだった。

震災直後の混乱期を過ぎると、朝鮮人暴動記事は書かれなくなり、翌10月下旬以降は、朝鮮人暴動ではなく、一転して自警団の朝鮮人虐殺の記事が紙面を賑わすようになる。

関東大震災の注意ビラ(原典:江戸東京博物館所蔵 作者:警視廳)
「有りもせぬ事を言触らすと 処罰されます。朝鮮人の狂暴や、大地震が
再来する、囚人が脱監したなぞと言伝へて処罰されたものは多数あり」
と書かれている。

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否定派の主張(2)

朝鮮人が虐殺されたことを示す証拠はない、証拠は証言のみ

反証1:行政文書に記録された朝鮮人虐殺
司法省の文書「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」に
掲載された「朝鮮人を殺傷したる事犯」がある。

これによると、53件の朝鮮人襲撃事件が刑事事件として立件されており
殺害された朝鮮人を合算すると233人になる。
この他、朝鮮人に間違えられて日本人が襲われた46件の事件(被殺者58人)
中国人4件(被殺者3人)
ただし、これらは立件されたものを数えているだけで、虐殺事件の一部に
過ぎない。

また、9月3日まで発生していた軍や警察による殺害についても記録が残って
いる。軍による殺害の記録は、朝鮮人39人(日本人27人)

警察・民間人共同による殺害は、朝鮮人約215人(※約200人は中国人説あり)
さらに、「関東戒厳司令部詳報」の「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル一覧表」には軍による朝鮮人殺害は、11件53名の殺害の記録が残されていた。

反証2:朝鮮総督府が独自に調査した結果
朝鮮総督府警保局の「関東地方震災ノ朝鮮ニ及ホシタル状況」によれば
殺害された朝鮮人の見込み数は東京府だけで約300人、関東一円で813人
となっている。

これらに加え、警視庁『大正大震火災誌』などの行政機関の報告にも、各地で殺傷事件が記録されている。

反証3:内閣府中央防災会議の専門調査会の報告書
この報告書では、殺害された朝鮮人、中国人、朝鮮人に間違えられて殺された日本人の総数を「震災によって死亡した人数の1%から数%」と推定。
これはほぼ、1000人から数千人ということであり、それ以上、明確な数字を示すことは現状では困難である。

遺骨を判別できないように処置
正確な被害者数が分からない最大の理由は、当時の政府の方針にあり、その
ことが朝鮮総督府の文書に記されている。

「遺骨が日本人か朝鮮人か分からないようにする。朝鮮人に被害あるものは
速やかにその遺骨を不明の程度に始末すること

とあり、犠牲者数を明らかにできないよう指示している。
また、震災の年の12月に帝国議会で、朝鮮人殺傷事件が議論になったが
山本権兵衛首相は「政府は起こりました事柄に就て目下取調進行中でござります」と答弁したが、それ以降、調査結果が報告されることはなかった。

否定派の主張(3)

暴動や放火等が事実だったから、自警団で反撃をした(正当防衛論)

反証1:誰も暴徒を見なかった
震災から2年後の1925年(大正14年)、警視庁は震災時の状況について
まとめた「大正大震火災誌」を発表。このなかで、朝鮮人虐殺事件について
次のように総括している。

震火災に依りて、多大の不安に襲はれたる民衆は、殆ど同時に、又流言蜚語に依りて戦慄すべき恐怖を感じたり、大震の再来、海嘯の来襲、鮮人の暴動など言へるもの即ちそれなり。大震海嘯の流言は、深き印象を民衆に与ふる程の力を有せざりしと雖も、鮮人暴動の蜚語に至りては忽ち四方に伝播して流布の範囲亦頗る広く、且民衆の大多数は概ね有り得べき事なりしとて之を信用せしかば纔かに震火災より免れたる、生命、財産の安全を確保せんが為めに、期せずして各々自警団を組織し、不逞者を撃滅すべしとの標語の下に、朝鮮人に対して猛烈なる迫害を加へ勢の激する所、終に同胞を殺傷し、軍隊警察に反攻するの惨劇を生じ、帝都の秩序将に紊乱せんとす。而して、之が為に、罹災地の警戒及び非難者の救護上に非常なる障碍を生じたるのみならず、延て朝鮮統治上に及ぼしたる影響も亦甚だ多く、誠に聖代の一大恨事たり。

1926年(大正15年)、内務省は「大正震災志」を発表。この中で

交通通信がすべて途絶した当時であるから、東京横浜市民さえ、眼前の惨害より他の一切は全く知らなかった。まして他地方の人達はただただ張膽駭目するのみで、あせりにあせってもその被害状況をつまびらかにし得なかったのである。当時各地方新聞が号外もしくは本紙において報道したものの中には、随分思い切ったものがあった。その中より数種を転載して、当初暗黒の状をしのぶ一端とする

として、震災直後の様々な誤報・虚報を紹介しており、そのなかには「横浜で1000人の朝鮮人と衝突して一個小隊が全滅」「朝鮮人2000が御殿場を襲撃」といった記載がある。

内務省は「朝鮮人の暴動」という流言記事は治安悪化に拍車をかける可能性があるため、9月3日に以下の警告書を各新聞社に送付する。

朝鮮人の妄動に関する風説は虚伝にわたること極めて多く、非常の災害に
より人心昂奮の際、かくのごとき虚説の伝播はいたずらに社会不安を増大するものなるをもって、朝鮮人に関する記事は特に慎重に御考慮の上、一切掲載せざるよう御配慮されたし

さらに9月5日には朝鮮人問題についての報道そのものを禁止し
(10月20日に解禁)、9月7日には、出版を含む流言を、罰則をもって
取り締まる治安維持令が発せられる。

司法省もまた「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」の中で
朝鮮人暴動(「不逞計画」)の流言について

一定の計画の下に脈絡ある非行をなしたる事跡を認め難し

と結論を出しており、震災時に組織的な暴動やテロがあった痕跡はなかった。

反証2:逮捕された加害者たちの言い分
大阪毎日新聞(1923年10月20日号外)

褒美が欲しい、加害者威張る
埼玉県北足立郡大宮町在片柳村大字染谷四十五 ×××(二◯)、×××(二一)の両名は、九月四日午前二時頃、同村見沼用水堤で、東京方面から逃れて来た朝鮮人 姜大興(二四)の姿を認め、誰何したが言語十分に通ぜず、かねて村当局より達しのある不逞鮮人と思い込み、矢庭に殺害して死体を用水に投げ入れたが、右両名は凶行後の四日朝、大宮署に出頭し自分等の行動を述べた上、「是非恩賞に与りたい」と申出で、警察は調書を浦和裁判所に
送って置いたので、この事件ばかりは何等取調の必要なく最初から犯人が
わかっていた。

否定派の主張(3)-1
火災の原因は朝鮮人が放火したからだ

反証:火災の原因
関東大震災では、建物の倒壊より火災の被害のほうがはるかに大きかった。
焼失面積は東京市で40%以上、横浜市で80%以上に達したという。
東京市では、9月1日11時58分の地震発生直後から火災が発生し、それらの一部は大規模火災となって9月3日午前10時まで、延々46時間にわたって延焼が続いた。

防災の装備は、当時の最新のものがおかれていたが、水源は水道に頼っており、断水と火災の同時多発には対応できなかった。また、地震が昼食時に起こったこともあり竈、七輪から同時多発的に火災が発生し、水道が断水したため最新の装備も役に立たず、おりからの強風によって火災はたちまち延焼し、消防能力を超えた。さらに避難者の家財などが延焼促進要因になった。

9月1日から2日にかけて気象の変化はかなり激しく、1日昼過ぎまで南風であったのが夕方には西風になり、夜は北風、2日朝からは再び南風となっている。こうした風向の変化に伴う延焼方向の変化が延焼範囲の拡大や避難者の逃げ惑いを生じさせ、逃げ場を失った避難者の犠牲が増大する要因につながっている。

鎮火した場所からまた火が出る現象の「再燃火災」や、遠くから火の粉が気流に乗って飛んでくる「飛び火」によって、思わぬ火の手が上がる。すさまじい強風もあって、この飛び火がかなり多かった。

東京市がまとめた「東京震災録」に掲載された火災報告は、文部省の震災予防調査会によって、調査され、放火による延焼自体がゼロ件だった。

否定派の主張(4)

朝鮮人が逮捕されたから、暴動は事実

反証1:風説をなるべく肯定するよう政府が方針を出す
震災発生翌日の9月2日、臨時震災救護事務局が設置され、警備部は
朝鮮人対策に関して、9月5日に関係各方面と協議し、次のような協定を
結んでいる。

朝鮮人問題ニ関スル協定[極秘]

朝鮮人ニ対スル官憲ノ採ルベキ態度ニ付キ、九月五日関係各方面主任者事務局警備部ニ集合取敢ヘズ左ノ打合ヲ為シタリ

第一、内外ニ対シ各方面官憲ハ鮮人問題ニ対シテハ、左記事項ヲ事実ノ真相トシテ宣伝ニ努メ将来之ヲ事実ノ真相トスルコト
従テ、(イ)一般関係官憲ニモ事実ノ真相トシテ此ノ趣旨ヲ通達シ各部ニ対シテモ此ノ態度ヲ採ラシメ
    (ロ)新聞等ニ対シテ、調査ノ結果事実ノ真相トシテ斯ノ如シト伝フルコト
左記
朝鮮人ノ暴行又ハ暴行セムトシタル事柄ハ多少アリトモ今日ハ全然危険ナシ、而シテ一般鮮人ハ皆極メテ平穏順良ナリ

朝鮮人ニシテ混雑ノ際危害ヲ受ケタル者ノ少数アルベキモ、内地人モ同様
ノ危害ヲ蒙リタルモノ多数アリ

皆混乱ノ際ニ生ジタルモノニシテ、鮮人ニ対シ故ラニ大ナル迫害ヲ加ヘ
タル事実ナシ

第二、朝鮮人ノ暴行又ハ暴行セムトシタル事実ヲ極力捜査シ、肯定ニ努ムルコト 尚、左記事項ニ努ムルコト
 イ 風説ヲ徹底的ニ取調ベ、之ヲ事実トシテ出来ル限リ肯定スルコトニ
努ムルコト
 ロ 風説宣伝ノ根拠ヲ充分ニ取調ブルコト

第六、朝鮮人等ニシテ、朝鮮、満洲方面ニ悪宣伝ヲ為スモノハ之ヲ内地又ハ上陸地ニ於テ適宜、確実阻止ノ方法ヲ講ズルコト

第七、海外宣伝ハ特ニ赤化日本人及赤化鮮人ガ背後ニ暴行ヲ煽動シタル
事実アリクルコトヲ宣伝スルニ努ムルコト

このように、官憲や新聞等には、風説をなるべく肯定すること、朝鮮や満州に虐殺の事実が広がらないよう防止策を講ずること、海外には、暴動は社会
主義者の日本人や朝鮮人が扇動したと宣伝すること、といった情報操作が
政府の方針だったことがわかる。

反証2:司法省の「朝鮮人犯罪」の捜査方針
9月5日の段階で「朝鮮人暴動」が事実無根の流言に過ぎないこと、また
その流言のせいで軍隊、警察、民衆による朝鮮人の虐殺が行われている
ことを司法省は把握していた。

上述の「朝鮮問題に関する協定」で、書いた通りの捜査方針を定めており
風説でも何でもいいから、朝鮮人が震災に乗じて犯罪を犯したと言えそうな
ものは、極力これを事実だったかのように見せかけよ、というもの。

反証3:司法省「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」
この中には、「朝鮮人の犯罪」がリストとしてまとめられおり、そこには
殺人、強姦、放火、強盗といった重大犯罪が記載されているが、多くの
容疑者が「氏名不詳」なのである。

そればかりか、被害者までもが「氏名不詳」の場合が多くある。また、名前が記されていても「行方不明」であるものが多く、真偽が確かめられず、未確認のものが多かった。

ところが、窃盗、拾得物横領といった軽微な犯罪になると様相が違い、ほとんどの事件で容疑者が捕まり、起訴もされている。
震災直後、窃盗は多発しており、警視庁の「大正大震火災誌」では、その理由をこう説明している。

飢渇に迫られる罹災者の中には、他人の財物を窃取する事によりて
自己および家族の生活を維持するの余儀なきに至れる

として、そういう者が多かったからだとしている。つまり、衣食住を失って
追い詰められた被災者が生きるために小銭や、食料といったものを盗んだ
ということで、朝鮮人の窃盗・拾得物横領も、おそらくはそうしたものだろう。

10月21日の新聞各紙は、自警団事件とともに、この「朝鮮人の犯罪」を
報じているが、司法省自身もそれを「暴動の記録」だとは主張していない。

実際に刑事犯罪で起訴された朝鮮人は12人で、その中に重大犯罪は
含まれていなかった。

なるべく風説を肯定して宣伝せよとの決定にも関わらず、司法省が打ち出すことができた報告はこの程度のもので、そのなかでさえも、「朝鮮人暴動」は否定されている。

まとめ

◆震災直後の新聞はデタラメが多く、確認したら、デマだった
◆虐殺事件は、刑事事件化しており、事実である
◆政府が必死で探しても、暴動や放火などは、確認できず
◆遺骨を判別できないように、政府が処理を指示していたため
 正確な被害者数がわからない
◆政府は「朝鮮人問題に関する協定」を結び、各地に情報操作していた。

このように、否定派の主張を裏付ける証拠などは無い。
100年近く経っても、いまだに震災で様々なデマを流す人々がいるが
これらの教訓が全く活かされておらず、やはり歴史は忘れてはならない
ものだと改めて思う。