重慶爆撃は対空砲台を市街地に配置したため、やむなく絨毯爆撃を決定した?!
肯定派の主張
主張(1)対空砲台をわざわざ飛行場や軍事施設から市街地域に
移動させたため、日本軍はやむなく市街地域の絨毯爆撃を決定した
はじめに
国民政府、首都を重慶へ移転
日本軍の南京総攻撃を前にした1937年10月30日、蒋介石は南京で徹底抗戦は不可能と判断したため、首都の重慶遷都を内定し、11月20日に宣布した。
同年12月1日、蒋介石は南京を出たが、南京で抵抗することによって世界の
関心を集め、有利な講和条件を引き出す必要を考え、防衛司令官に徹底抗戦を命じた。日本軍の総攻撃は、蒋介石のいない南京に対して行われた。
重慶爆撃
1938年2月から始まり(正式な命令は12月2日「大陸命第二百四十一号)
特に1940年5月から9月が最も激しく、1944年12月まで6年以上行われた
日本軍による重慶に対する空爆。
日本軍の戦略爆撃であったが、蒋介石を降伏させることはできず
多数の市民への無差別爆撃は、国際的な非難を浴びた。
ゲルニカ、ドレスデン、東京などへの空爆とならぶ戦略爆撃の一つ。
特に激しい空爆が1940年5月18日から9月4日にかけて行われた
「百一号作戦」で、この一連の爆撃によって多数の重慶市民が
殺害され、蒋介石の住居もねらい撃ちしたが、蒋介石は難を逃れた。
肯定派の主張(1)
対空砲台をわざわざ飛行場や軍事施設から市街地域に移動させたため
日本軍はやむなく市街地域の絨毯爆撃を決定した
反証1:戦争継続の意志を挫折させる意図があった
重慶を空爆する以前の、1937年に出された陸軍航空本部調製の
「航空部隊用法」の中で以下の記述がある。
防衛省防衛研究所 陸軍航空の軍備と運用<1> p293 550-555項
重慶爆撃を実施する以前から、陸軍航空の思想の中核は、空襲によって
敵国民に恐怖を与え、戦争意志を挫折するというものだった。
1938年12月 陸海軍間で締結された「航空ニ關スル陸海軍中央協定」の
作戦方針。
防衛省防衛研究所 戦史叢書 中国方面陸軍航空作戦 P81 124項
反証2:市街地を爆撃する命令書
1938年12月26日の爆撃の前日、陸軍第一飛行団長寺倉少将は漢口で
以下の命令を下している。
防衛省防衛研究所 戦史叢書 中国方面陸軍航空作戦 P84 131-132項
百一号作戦の概要(1940年5月17日~9月5日)
聯合空襲部隊司令部(防衛庁防衛研究所図書館保管資料)
陸軍第3飛行集団と海軍連合空襲部隊の間で
「百一号作戦ニ関スル陸海軍協定」(5月13日)
「百一号作戦ニ於ケル攻撃実施要領ニ関スル陸海軍協定」(5月29日)が
結ばれ、陸海軍の共同作戦として実施された。
6月中旬以降、重慶の市街地がAからHまでに区分され、陸海軍が協同し
昼夜に爆撃を繰り返し、各地区を順次徹底的に絨緞爆撃する戦術が採用
された。戦闘詳報には、市街地の区分をA 区、B 区、C区などに区分して
爆弾の投下場所を特定して「弾着図」が作成されている。
反証3:重慶への爆撃成果
1939年5月4日(戦闘概報第511号 5月1日~戦闘概報第543号 5月31日)
原文:国立公文書館アジア歴史資料センター Ref. C14120581800
「市街全面に亘り」「壊滅損害を与えたり」とあるように、市街地を狙って
爆撃していたことがわかる。
反証4:日本軍が破壊した軍事目標の具体例
1938年8月発行の内閣情報部編集『週報96号』の中に
海軍省海軍軍事普及部が書いた『空爆と国際法』がある。
原文:国立公文書館アジア歴史資料センター:Ref. A06031025800
この中に、広東において攻撃破壊した軍事目標が記載されている。
このように「省政府」や「市政府」のような「その中には軍の幹部もいる
から軍事目標」のような論理で選んでいた事がわかる。
市街地には当然、軍の事務所や政府の建物があるわけで、命令書や
戦闘概報にも書いてある。
民間人そのものを目標にしたわけではないが、市街地にあるものを狙えば
当然、民間人の被害が出るので、それ自体が継戦意欲を削ぐ効果を狙って
いたということ。
まとめ
◆重慶爆撃を実施する以前から、空襲によって「敵国民に恐怖を与え
戦争意志を挫折する」ことだった。
◆陸海軍中央協定の作戦方針にも「敵ノ繼戰意志ヲ挫折ス」とある
◆爆撃の前日に「市街地を爆撃する命令書」が存在し「重慶市街ヲ
攻撃シ敵政権ノ上下ヲ震撼セントス」
◆軍事目標も「重慶市街中央公園都軍公署」といった市街地にある
施設にすることで、継戦意欲を削ぐ効果を狙っていた。